2015年2月8日「昔の人の言い伝え」

201528日 聖書箇所:マルコによる福音書7123

 

「昔の人の言い伝え」

 

 

 

 

人間の言い伝え

 

本日の聖書箇所は、イエス・キリストとファリサイ派、律法学者の人々との問答が記されている場面です。ファリサイ派というのは当時のユダヤ教の一派で、旧約聖書に律法を忠実に守ろうとしていたグループのことを言います。律法学者とは、律法の専門家である人々のことです。律法を守ることを第一とするこれら人々は、イエス・キリストという人物が律法の掟を軽視しているといううわさを聞きつけて、はるばる都エルサレムから調査にやってきたようです。

 

 

主イエスは彼らとの問答の中で、しかし、律法を軽視しているのは実はあなたたちの方ではないか、と反論されています。ファリサイ派と律法学者たちは神さまの掟が第一といいながら、実際は自らそれをないがしろにしてしまっている。ファリサイ派と律法学者たちは神さまの掟をないがしろにし、代わりに「人間の言い伝え」を固く守っているのだとおっしゃっています。

 

ここで「人間の言い伝え」と言われているのは、律法を守るために作られたもろもろの規則集のことです。ファリサイ派の人々は律法に違反しないようにするため自分たちで細かな規則をつくり、律法の周りにそれらを「垣根」のようにして張り巡らせていました。本日の聖書箇所で言うと、食事の前には手を清めなければならないとか、市場から帰って来た時は体を清めなければならないという規則です。主イエスはそれら細かな規則はあくまで人間たちがつくった規則であって、神さまの掟ではないとおっしゃっています。

 

 

本日は特に、主イエスが批判されている《コルバン》についての規則に注目してみたいと思います。《コルバン》とはヘブライ語で、「供え物」という意味の言葉です。このコルバンについての規則もやはり律法に記された言葉ではなく、ファリサイ派の人々が自分たちで作り、受け継いできた規則の一つでした。

 

 

 

 

《コルバン》と自己正当化

 

改めて、913節をお読みいたします。《更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。/モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。/それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、/その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。/こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」》。

 

 

 主イエスはまず、律法の中でも重要な十戒の第五戒に相当する《あなたの父母を敬え》(出エジプト記2012節)という掟を引き合いに出されています。この戒めはもともとは、幼い子どもたちに「両親を敬え」と教える戒めではなく、成人した子どもたちに対して、「年老いた両親に対して敬意をもちなさい」という戒めであったと考えられています。主イエスはファリサイ派の人々と律法学者たちに向かって、あなたたちは律法を第一とすると言いながら、《父と母を敬え》という大切な戒めを無にしている、と批判されています。その具体的な例の一つとして挙げられているのが、《コルバン》の事例です。

 

 

当時、ファリサイ派や律法学者たちは、《もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、/その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ》ということを言っていたようです(1112節)。つまり、もし両親が必要としている物が自分の手元にあったとしても、「これは神さまのためのコルバンです」と言えば、それは両親のためのものではなく、神さまのための物となるのだという考え方です。

 

 

自分の持ち物を神さまのためにささげるというのはもちろん素晴らしいことです。しかしここでは両親が必要としている物を、神さまのための物だと言って差し出さないことに対して、主イエスは疑問を呈しています。つまり、主イエスはここで、ファリサイ派や律法学者の人々が《コルバン》という言葉を、両親に対して責任を果たさないことの自己正当化の言葉として利用しまっているのではないか、と指摘されているのです。実際、当時のイスラエルの人々の間で、「これは神さまのためのコルバンです」という言い方が流布していたようです。実際は神さまにささげるつもりもない物も、人に使わせないために、「これは神さまのためのコルバンです」と言うフレーズが流行していた(参照:田川建三氏『マルコ福音書/マタイ福音書』訳註)

 

 

「神さまへの信仰」を盾に、父と母を敬うことをしない自分を正当化してしまっている、「父と母を敬え」という神さまの掟をないがしろにしてしまっているという状況を主イエスは鋭く指摘されています。

 

 

 この主イエスの指摘は、私たちもまたドキッとしてしまうものではないでしょうか。「神さま」という言葉、「神さまへの信仰」という言葉を、自己正当化の言葉として用いてしまっていることが私たちにもまた起こっているように思うからです。あることを「する」ことの理由として、「神さま」の名前を持ち出してしまう。または、あることを「しない」ことの理由として、「神さま」の名前を持ち出してしまう。

 

 先ほどの例では、両親に対しての責任を「果たさない」ことの口実として、《コルバン》という便利な言葉が利用されてしまっていました。「神さまのために」と言いながら、実質は「自分のために」それをしている、ということが私たちには起こっているように思います。信仰者にはいつでもこのような自己正当化が起こり得るものだと思いますし、また牧師も常にその誘惑にさらされているということができるでしょう。

 

 

 

 

高校生の頃のある日の出来事

 

自己正当化ということは、本人は気づきにくいものです。自分で自分を正当化していることに、本人は無自覚である、ということも、私たちにはよく起こります。

 

 

私自身のことを振り返ってみますと、高校生の頃まで「自己正当化」という言葉の意味が、はっきりと理解できていませんでした。それがどういう状態を指す言葉であるのか、実感をもって理解することができていなかったのです。

 

時々思い出すのは高校一年生の頃のある日の出来事です。そのとき私はクラブ活動として、陸上部と美術部を兼部していました。もうすぐ二年生になるという頃、私は美術部を辞めて陸上部だけにしぼることにしました。美術部の顧問の先生に「美術部を辞める」ということを伝えるとき、私は辞めることの理由をいろいろと説明しました。先生と別れた後、私は、何か自分の心の中にモヤモヤとしたものが残っていることに気づきました。先生に自分なりに懸命に説明しているときは、自分がいま述べていることが美術部を辞める本当の理由だと、私自身思い込んでいました。しかししばらくしてからそのときのことを振り返った時、先生に述べていたことは後から取ってつけた理由であったことに気づきました。自分の心の中にある本当の動機というのは、「美術部よりも陸上部の方が、いまの自分には大切な存在になった」という、単純なものであったように思います。しかし美術部の先生を前にしてその理由を自ら認めることができず、美術部を辞める自分をもっともらしい理由で正当化していたのだと気づきました。「ああ、これが自己正当化ということか」と高校生の私はこの言葉の意味を理解した気持ちになりました。

 

 

 

 

主イエスの叱責

 

 自己正当化というのは、自分自身でも気づきづらいものです。そこに「信仰」の問題が関わってくると、なおさらそれは気づきづらいものとなるのかもしれません。

 

 

 先ほどのコルバンの例で言うと、このフレーズを使っている人の中には、自己正当化のためにこのフレーズを用いていたとしても、意識としてはそれに無自覚であった人もいたかもしれません。本当の動機は別にあるのに、本人の意識としては神さまへの信仰に基づいてそうしていると思い込んでいる場合もあるでしょう。その場合、自分はこのフレーズを利用していると自覚している人よりも、より問題は深刻であるかもしれません。

 

 

 本日の主イエスの言葉はいつにも増して厳しさを感じさせるものです。主イエスが本日の場面で厳しく叱責されているのは、神さまへの信仰という名のもとに、時に他者の生命と尊厳をないがしろにされている場合であるからでしょう。困っている人々が目の前にいるのに、信仰の名のもとに、それら現実が見過ごされてしまっている時、主イエスはその状況を激しく批判なさいます。または、信仰の名のもとに、人々に暴力がふるわれてしまっているとき、主イエスはそれにはっきりと「否」をおっしゃいます。それが私たちの生命と尊厳に関わる重要な事柄であるからです。

 

 

 

 

神さまの名のもとに

 

 神さまの名のもとに暴力を振るうことの極端な例としては、神さまの名のもとに戦争をする、ということがあるでしょう。2003320日にイラク戦争を開始するとき、ブッシュ元大統領は国民に向けてイラクを攻撃する必要がある理由を幾つも列挙した後、演説をこう締めくくりました。《我が国と、国を守るすべての人々に神の祝福がありますように》。イラク戦争を開始する本当の動機は隠したまま、ブッシュ元大統領は後付けの理由を並べ立て、最後にそれらを神さまの名のもとに正当化しました。アメリカ政府がイラクと戦争をする本当の動機は、「戦争をしたいから」という単純なものであったでしょう。言い換えれば、「戦争をすることによって、経済的な利益を得たいから」ということです。しかしその本当の理由は隠されたまま、神の名のもとにイラクの人々に対して言語を絶する暴力が振るわれ続けました。ブッシュ元大統領の場合はおそらく確信犯ですが、アメリカの一部のクリスチャンたちは神への信仰という名のもとにそのブッシュ政権を支持してしまいました。アメリカ政府が神の名のもとにやっている軍事行動はキリスト教とはまったく関係がないものであるし、キリストの本来の教えとは正反対のものです。

 

 

最近は連日、ISIS(いわゆる「イスラム国」)が取り上げられています。ISISの人々もまた、神さまの名を自分たちの暴力行為を正当化するために用いています。世界中のイスラム教徒の人々からISISのしていることはイスラム教の信仰とはまったく関係がないと非難声明が出されていることからもそれは明らかです。

 

 

方や神の名のもとに空爆をする自分たちを正当化し、方や神の名のもとにテロ活動をする自分たちを正当化する。自分たちの利益や主義主張、憤怒のために神さまの名を利用しているという点では、どちらも同じです。

 

 

 

 

生命と尊厳をこそ第一に

 

大きな次元ではそのように神さまの名のもとに戦争をすること、身近な次元では神さまの名のもとに家族や友人など大切な人々を軽んじること。それらの根本的な要因として、他者の生命と尊厳を第一とすることができていない、ということがあるのではないかと思います。いま目の前にいる人のことよりも、自分の都合や利益を優先させてしまっている。または、自分たちの主義主張を実現することに熱中してしまっている。そしてその本当の動機を神さまへの信仰という名で覆い隠してしまっている。

 

 

私たちの生きる世界は現在混迷を極めていますが、それらは私たち自身の責任でもあります。私たち自身もまた今まで、一人ひとりの生命と尊厳を大切にすることをどこかであいまいにしたり、ないがしろにしてしまってきた部分があるのではないでしょうか。人の命は大切と言いながら、心のどこかで戦争や紛争によって人が亡くなるのはしょうがないと思ってしまってきた部分があったのではないか。人間の尊厳が大切だと思いながら、それがないがしろにされる社会であってもしょうがないとどこかあきらめてしまってきた部分があったのではないか。そうして生命と尊厳が軽んじられている現状を黙認することを、神さまへの信仰の名のもとに、正当化してしまっていた部分があったのではないか。

 

 

私たちはいま一人の信仰者として、一人のキリスト者として、何より「一人の人間」として、自分たちの在り方を根本から見つめ直す時期にあるのではないかと思います。一人ひとりの命と尊厳こそが大切だということを、私たちはいま改めて私たちの生の根本に据えてゆかねばなりません。イエス・キリストが指し示して下さっている、生命と尊厳が第一とする道を、共に歩んでゆかねばなりません。もしも私たちが唯一、神さまの名を用いることがゆるされるならば、一人ひとりの生命と尊厳を確保するための場合にのみ限られるでしょう。私たちはもはや、自己を正当化するために神さまの名を用いることについては訣別する決意をする時にいるのだと思います。

 

 

 

主よ、混迷と悲惨を極める私たちの上に、どうぞあなたの憐れみがありますように。