2015年3月1日「エッファタ、開け」

2015222日 聖書箇所:マルコによる福音書73137

 

「エッファタ、開け」

 

 

 

マイクの音量は……

 

先日、耳が聞こえづらい方にとって、礼拝でのマイクの音が聞こえづらい時があるというご指摘をいただきましたので、先週の礼拝ではマイクの音量をいつもよりかなり上げてみました。いつもより司式者と説教者の声が大きく聞こえたかと思いますが、その分、かすかに「キーン」と音がするハウリングが生じてしまっていました。ですので本日は、先週よりは少し音量を下げております。私の声は、聞こえていますでしょうか。

 

ただ、耳が聞こえづらい方にとっては、音量を上げれば聞こえるようになるわけでもない、ということもお聞きしております。具体的には、お一人おひとりのお話をお聞きしつつ、対処をしてゆけたらと思っております。

 

 

花巻教会では説教プリントを必要な方にお配りしていますが、耳が聞こえづらい方にとってもこれは良いことであるということもお聞きしています。もちろん音響設備に関しても、より良くしてゆくことは色々とあるとますので、これから、皆さんと話し合いながら実行してゆけたらと思います。

 

 

ということを考えていましたら、本日の聖書箇所は、ちょうどこの課題ともつながるお話でした。本日の聖書箇所は耳が聞こえない人と主イエスとの出会いが描かれた場面です。主イエスは耳の聞こえないその人に対して、神さまの福音の言葉をはっきりと届けてくださいました。私たちもまたこの主イエスのお姿に学び、礼拝に集ったお一人おひとりに、神さまの言葉がはっきりと届くように努力をしてゆきたいと思います。

 

 

 

 

私たちが知らないでいる、相手の困難さ

 

本日の登場する一人の男性は、耳が聞こえず言葉を話せない症状をもった人物として登場します。現在の言い方で言うと聴覚障害の方であるということができますが、具体的にそれがどのような状態であったかまでは記されてはいません。

 

 

聴覚障害の方の中には、両耳が聞こえない「ろう者」の方、中途失聴の方、また片耳を失聴している方、また、難聴の方、老人性難聴の方など、さまざまな相違があります。難聴にも軽度から高度まであり、どのような音が聞こえるか、聞こえないかも一人ひとり異なるそうです。新約聖書が書かれた時代はそこまで症状が区分けされていなかったでしょうから、男性の症状も「耳が聞こえない」という一語で記されています。

 

 

また男性の症状として、「舌が回らない」と記されています。つまり「言葉が話せない」ということですが、当時は耳が聞こえない人々への支援教育もなされていなかったでしょうから、耳が聞こえないこの男性は同時に話すことに困難を抱えていた、ということなのだと思います。この男性は、おそらく周りの人々には理解してはもらえない、周りの人々とは共有できない困難さを抱えつつ生活していたのではないかと想像します。

 

 

「ろう者」の方、また難聴の方が時に周囲から強いられる大変さというのは、両耳が聞こえている人には理解することができていないことがたくさんあると思います。

 

私の妻は、左耳の聴力がなく、左耳が聞こえません。妻から今まで経験した話を聞いて、初めて知ったことがいろいろありました。たとえば、声が聴こえる方向と、聴こえない方向があるということ。後ろからの声は特に聞こえていないことが多いとのことです。私も基本的には妻の右側に並ぶようにしています。大きな声を出せば聞こえるというわけではないそうです。また、たくさんの人の声が飛び交う場では話が聴き取りづらく、時に苦痛を感じることがあるとのことでした。

 

妻から教えられて、私はそのようなことがあるのかと初めて知りました。両耳が聞こえている人には、理解することができていないことがたくさんあるのだなあと改めて思いました。私たちは基本的に他者の困難には無知であるのであり、だからこそ互いに伝え合う必要があるのですね。

 

耳が聞こえている人は、知らず知らず、耳の聞こえづらい人に疎外感を与えてしまっていることもあるでしょう。妻も、周りの人は話が聞こえているのに自分は聞こえなくて話についていけないときは、疎外感を感じると言っていました。そのような状況が生じてしまうといのは、ご高齢による難聴の方も同様でしょう。周りの人々の話が聞こえず、疎外感を感じてしまうということがあることと思います。

 

 

「相手の立場に立つ」というのは言うは易し、しかし行うのはとても難しいことでもあります。またその本人でないと分からないということも必ずあります。むしろ自分の無知を自覚して、だからこそ互いに聞きあうこと、伝え合うことが大切であるのでしょう。

 

 

 

 

男性の心の内の疎外感

 

本日登場する耳の聞こえない男性の姿に私が感じ取ったのは、この男性は長い間、心の奥深くに深い疎外感を抱えながら生きてきたのではないか、ということでした。現在の日本において耳の聞こえない方に対する理解が進んでいるとは必ずしも言えない部分があるかもしれませんが、現在よりも、その症状に対してはもっと周囲は無理解であったことでしょう。自分の苦しみを周りの家族や友人たちに理解してもらうことができない。周りの人々が当たり前に共有していることを、自分は共有することができない。また自分の苦しみをはっきりと言葉にして伝えることができない。少し想像してみただけでも、その苦しみはすさまじいものであったのではないかと思います。

 

 

しかし周囲の人々もまた、男性のことを大切に想い、絶えず気にかけていたということは、主イエスのうわさを聞いて男性を主イエスのもとに連れて行った、ということからも分かります。男性はよい友人に恵まれていたように思いますが、しかしそれでも、男性の内には癒されない孤独感があったのではないかと想像します。

 

 

 またもしかしたら、男性の内には、自分が何か悪いことをしたから、神さまからこのような「罰」を受けているのだ、という意識があったかもしれません。もちろんそれは誤った考え方であり、別の聖書箇所において主イエスはそのような考え方をはっきりと否定されています(ヨハネによる福音書93節)。しかし男性の内には、そのような誤解があったかもしれず、その誤解が男性を苦しめ続けていたかもしれません。

 

 

 

 

一対一の「静かな」場で

 

改めて、マルコによる福音書73137節をお読みいたします。

 

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。/人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。/そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。/そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。/すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。/イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。/そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」》。

 

 

 男性は人々によって、主イエスのもとへと連れてこられます。人々は男性が癒されることを願って、主イエスに男性の頭の上に手を置いてくださるようにと願います。

 

 それに対して主イエスが取られた行動に注目してみたいと思います。主イエスはまず、その人を群衆の中から連れ出し、男性と一対一になられます。この主イエスの行動から、不特定多数の人々にではなく、他でもないこの男性に対してこれから神さまの言葉を伝えるのだ、という主イエスの姿勢が伝わってきます。さまざまな声、さまざまな想いが飛び交う場から一度離れ、主イエスはその男性と二人の空間を造りだされました。友人たちのあたたかな想いからすら離れた場を、主イエスは造りだされました。主イエスが伝えたいのはただ一つ、男性に対する、神さまの想いであるからです。そのためには、一対一の「静かな」場が準備されねばなりません。

 

 

 

 

まるで手話で話されるように

 

 そうして、主イエスは不思議な動作をなさいました。ご自分の指を男性の両耳に差し入れ、御自分の指に唾をつけて男性の舌に触れられました。ある人は、この主イエスの動作はまるで手話で話しているようだと言いました(メアリー・ヒーリー『カトリック聖書注解 マルコによる福音書』)。確かに、この動作はまるで手話のようです。そのしぐさから、男性には主イエスが何をお語りになろうとしているかが、明瞭に分かったことでしょう。

 

 

自分の両耳に指が指しこまれたことにより、「あなたの耳を開きます」という主イエスからのメッセージを受け取りました。舌に指で触れられたことにより、「あなたの舌のもつれを解きます」というメッセージを受け取りました。主イエスは指に唾をつけられましたが、古代世界においては唾には癒す力があると考えられていたそうです。よって唾をつけるという動作は、その人に対して「あなたを癒します」というメッセージになります。

 

 

 

 

言葉に表せないうめきを

 

 この時主イエスは、指で男性の体に触れたと同時に、男性の最も深い苦しみに触れてくださったのだと思います。男性が今まで抱え続けてきた疎外感、悲しみ、怒りや憤り……心の中にある言葉に表せないうめき(ローマの信徒への手紙826節)に触れてくださった。耳と舌とは、男性にとって、その苦しみの象徴でありました。主イエスは男性の耳と舌に触れることを通して、男性の心の中にある苦しみにも触れて下さいました。

 

 

 主イエスは天を仰いで深く息をつかれます。男性の深いうめきに触れ、深く息をつかれます。主イエスは男性の言葉に表せないうめきを御自分のものとして、受け止めて下さいました。男性が誰にも伝えることができなかった苦しみを、主イエスは理解してくださいました。

 

 

 男性もまたそのことを、はっきりと理解しました。この方は、自分の言葉に表せないうめきを受け止めて下さった。すべて、理解して下さった、と。その瞬間、男性が抱え続けてきた疎外感が消え去りました。自分という存在を受け入れ、すべてを自分と共有して下さっている方がいることを男性は知りました。

 

 

 

 

「エッファタ、開け」

 

 その時、主イエスと男性とがいるその空間に、言葉が響き渡ります。《エッファタ》――。これは当時のパレスチナの人々が話していたアラム語の言葉で、「開け」という意味です。その言葉のとおりに、男性の耳は「開かれ」、舌のもつれが解けた、と福音書は記します。男性は耳が聞こえるようになり、言葉を話せるようになりました。周りの人々も驚き、そして大喜びしたことでしょう。これはまさに奇跡であり、だからこそこの度のエピソードは大切に人々の間に語り継がれていったのでしょう。

 

 

 と同時に、私たちはもう一つの奇跡が起きていることにこそ目を向けなければなりません。そのもう一つの奇跡こそが、本日の物語に起こったまことの奇跡です。それは、神さまからの言葉に男性の耳が「開かれた」ことです。主イエスを通して、「神さまの言葉が聴こえるようになった」ことです。

 

 

 

 

「わたしの目にあなたは価高く貴い」

 

 それは言葉を超えた言葉であり、必ずしも耳が聞こえることを必要とするものではありません。主イエスは手話のような動作をもって、男性を見つめるまなざしをもって、そして男性と向かい合うその存在そのものをもって、神さまの言葉を男性に伝えて下さいました。その言葉を超えた言葉をあえて言葉にするならば、「わたしの目にあなたは価高く貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)という言葉であるということができるでしょう。

 

 

この神さまからの言葉を聴き、男性の心の内から、疎外感が消え去りました。男性の心の内は、奥底から、あたたかさで満たされました。

 

 

男性は、《舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった》と福音書は記します。舌はもつれが解かれたことは、男性の人生を長い間縛り続けてきた誤解がほどかれたことをも意味しているでしょう。神さまは自分の「悪い」者として罰していたのではなかった。神さまは“あるがまま”の自分を愛し、大切に想っていてくださった。男性は神さまのその真実の“声”を知らされました。

 

 そうして男性に、神さまからの尊厳が取り戻され、主体性が回復されました。男性は神さまからの尊厳が回復された新しい存在として、再び共同体へ戻っていったことでしょう。

 

 

 

 

神さまの“声”がよりはっきりと聴こえるようになるために

 

 神さまは、私たち一人ひとりに、例外なく、「わたしの目にあなたは価高く貴い。わたしはあなたを愛している」と語りかけて下さっています。言葉を超えた言葉で、いまこの瞬間、私たちを包んでくださっています。

 

と同時に、神さまは私たちの口をも、御自身の“声”として用いようとして下さっています。いま目の前にいるその人に、神さまの愛の“声”が、よりはっきりと聴こえるようになるために。そのために働く者として、私たち一人ひとりは召されています。

 

 

私たちの言葉を通して、私たちの動作を通して、私たちの具体的な行動を通して、そして何よりその人と向かい合う私たちの存在そのものを通して、神さまはその“声”を伝えようとなさっています。

 

「わたしの目にあなたは価高く貴い。わたしはあなたを愛している」――。いますでに私たちの間に響いている神さまのこの“声”が、よりはっきりと聴こえるようになるために、共に働きてゆきたいと願います。