2015年3月15日「十字架の言葉」


2015315日 聖書箇所:マルコによる福音書81113

 

「十字架の言葉」

 

 

 

十字架刑の悲惨さ

 

教会の暦では、いまは「受難節」にあたります。受難節は、イエス・キリストがご受難を受け、十字架におかかりなったことについて想いを巡らす時です。

 

 イエス・キリストが歩まれた十字架への道がどのようなものであったかは、新約聖書の福音書に記されています。新約聖書には四つの福音書がありますが、その四つのどれも、長い分量を割いてイエス・キリストのご受難と十字架の場面を記しています。主イエスの経験された十字架刑がどれほど恐ろしいものであったかは、ある程度は福音書を読んでも伝わってくることと思います。ただ、私たちが聖書を読んで感じる印象より、実際の十字架刑というものははるかに残酷なものであったようです。

 

ある聖書学者の方が記した文章によると、当時のローマ帝国が行っていた処刑の仕方で、もっとも《屈辱的かつ非人間的な処刑法》であるとされていたのが、十字架刑でした(参照:佐藤 研氏「「洗礼」と「十字架」――訳語はこれでよいか?」、『聖書を読む 新約篇』所収、岩波書店)。映画の『パッション』を御覧になった方は、十字架刑がどれほど恐ろしいものであったか、いく分実感できるかもしれません。当時の十字架刑がどのようなものであったかを記した文献を読むと、そのあまりの残酷さに、詳細をこの場でお話しするのは差し控えたく思うほどです。それほどまでに残酷で屈辱的な刑を、しかし、イエス・キリストがお受けになったのだ、と改めて思いますとき、心が痛み、いたたまれない気持ちになります。

 

 

 

「忘れてはいけない」記憶として

 

 主イエスがそのような悲惨な最期を遂げられたことは、できれば語りたくない、忘れ去ってしまいたい、そのように思うことがむしろ自然ではないかとも思ってしまいます。たとえば、主イエスの最期を見守っていた女性の弟子たちにとって、それは忘れたい、でも忘れることが出来ない、胸が張り裂けそうな悲しく辛い記憶であったのではないだろうか、と。

 

 聖書はイエス・キリストが三日目に「復活」されたことを記しています。主イエスが復活なさったのだとしたら、もはやあの悲しい十字架刑のことは語らなくてもいいのではないか。いまや、喜びの記憶があるのだから、その喜びの記憶で悲しみの記憶を上書きしたらよいのではないか、とも思ってしまいます。

 

けれども、初代のキリスト者たちはそうはしませんでした。悲しみの記憶を喜びの記憶で上書き保存して消してしまうのではなく、悲しみの記憶は悲しみの記憶として、喜びの記憶とはまた別に大切に保存したのです。

 

たとえば、パウロは自分たちはまず何より十字架におかかりになっているキリストをこそ語るのだ、と手紙に記しました。私たちのいま読んでいるマルコによる福音書の著者マルコは、福音書の最大のクライマックスを主イエスの復活の場面ではなく、十字架の死の場面としています。イエス・キリストの十字架の死は忘れ去られることなく語り伝えられ、現在も、「キリスト教」と言えば、多くの人が「十字架」をイメージするほどになっています。

 

あまりに残酷で屈辱的な十字架刑にとって殺された主イエス。初代のキリスト者たちにとって、しかしその死が「忘れたい」記憶から、「忘れてはいけない」記憶へと変わって行ったようです。だからこそ、十字架の出来事を復活の出来事で上書きすることなく、それぞれを別々に保存し、もっとも大切なこととして継承してきたのでしょう。

 

 

 

「十字架のキリスト」を伝える

 

 一方で、初代のキリスト者の中でも、十字架の記憶を復活の喜びの記憶で上書きして捉えている人々はいたようです。イエス・キリストはいまや復活されているのに、なぜ十字架を大切なこととして継承しなければいけないのか、腑に落ちていない人々がいました。

 

 たとえばユダヤ人のキリスト者の中には、旧約聖書に出て来るような、力強い威厳に満ちた神さまのイメージを抱いている人がいました。映画の『十戒』で描かれるように、海を二つに割り、そこに道を通される神さま、エジプト軍の戦車と軍勢を海に投げ込む神さまのイメージです。そのような力に満ちた神さまを思い描いている人にとっては、あのように十字架上で悲惨な、無力な姿で死んでいった救い主の姿というのは、受け入れがたく思えるものであったのでしょう。対して、復活し、天上で光り輝いている救い主の姿というのは、自分のイメージに合致するものであったでしょう。

 

そのような人々に対し、パウロはある手紙の中で、次のように述べています。《ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、/わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、/ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。/神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人よりも強いからです》(コリントの信徒への手紙一12225節)

 

パウロは、自分たちはあくまで「十字架におかかりになっているキリスト」を宣べ伝えているのだ、と語っています。ユダヤ人は、葦の海の奇跡のような、神さまからの力強い「しるし」を求める。ギリシア人は古代の賢者たちの知恵にもまさる、神さまからの賢明さを求める。確かに、十字架のキリストは彼らが求めるような意味での権威に満ちた救い主ではない。しかし私たちの目からは無力で愚かに見える十字架の主こそ、まことに力あり、権威がある方なのだ、とパウロは宣言します。

 

 

 

十字架の言葉

 

 ここでパウロが言っているのは、当時の人々の価値観を180度ひっくり返すような、衝撃的な言葉でした。私たちの目から見て「力強い」ものや「賢い」ものではなく、私たちの目から見てむしろ「弱い」もの、「愚かな」ものの中に、まことの「強さ」「賢さ」がある。つまり、神さまからの「強さ」「賢さ」がある、とパウロは伝えます。

 

 十字架におかかりになっているイエス・キリストのお姿というのは、まさに「弱さ」「愚かさ」の極みであるように見えます。しかし、この十字架のキリストに、神さまのまことの「強さ」「賢さ」が示されている、というのです。パウロはこの十字架のキリストが私たちに伝えるメッセージを「十字架の言葉」と呼びました(コリントの信徒への手紙一118節)

 

「十字架の言葉」は、いまを生きる私たちにとってもなお、衝撃的な言葉であり続けているのではないでしょうか。私たちも気がつけば、私たちの目に「力強い」もの、「賢い」ものを追い求めてしまうことが多いように思うからです。

 

 

 

主イエスとファリサイ派の問答

 

 本日の聖書箇所は、主イエスが十字架におかかりなる以前の話、ファリサイ派の人々と主イエスとの短い問答が記されている場面です。ここに登場するファリサイ派の人々も、やはり自分たちの目に「力強い」もの、「賢い」ものを求めてしまっていたようです。

 

マルコによる福音書81113節《ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。/イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」/そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた》。

 

 主イエスのうわさを聞きつけたファリサイ派の人々は、主イエスを試そうとして、「もしあなたが救い主であるなら、神さまからの力強いしるしを行ってみて下さい」と議論をしかけます。かつてモーセとイスラエルの民が経験した葦の海の奇跡のような、神さまからの力強い「しるし」を見せて下さい、と迫ります。

 

 主イエスは深く嘆いておっしゃいます。《どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない》。そうして彼らをそのままにして、舟に乗って向こう岸に向かわれました。

 

 本日の物語においては、主イエスはファリサイ派の人々の問いを斥けただけで、応答はしていないような印象を受けます。ただし、向こう岸に向かわれた主イエスがその後に赴かれたのが、十字架の道でした。主イエスはその後、「十字架の言葉」をもって、この問いに全身全霊で答えて下さったのだ、と受け止めることができます。

 

 

 

「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」

 

 イエス・キリストが私たちに伝えて下さっている「十字架の言葉」を、私自身、完全に理解できているというと、とてもそういうことはできません。私自身、少しずつ理解しつつあるその途上にありますが、私たちのヒントとなる言葉がパウロの手紙の中に記されています。私たち花巻教会が2014年度の主題聖句にもしている御言葉です。コリントの信徒への手紙二129節《すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう》。

 

ここでパウロは、イエス・キリストから聴いた言葉を書き取っています。キリストは、パウロの前に、十字架におかかりなったお姿で現れました。十字架におかかりなったお姿で、キリストはパウロにこうお語りになります。《わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ》――。これが、パウロが聴き取った「十字架の言葉」であるでしょう。

 

 神さまからの力というのは、弱さを消し去った上で与えられるものではない。弱さを通して、弱さの中に、神さまの力は満ちみちてゆく。そのことが、ここで言われています。この「十字架の言葉」はパウロに語られたものですが、いま、私たち一人ひとりに語られているものとして受け止めたいと思います。

 

 私たちはそれぞれ、弱さをもっています。しかしその弱さをも含めて、私自身であるということができます。もし弱さを消し去った上で強くならねばならないのだとしたら、私たちは私ではない何者かにならなければならないことになります。しかし神さまからの「十字架の言葉」は私たちに、私たちが弱さをもった私自身でありつつ、強さをもった者になってゆく道があることを伝えて下さっています。神さまは“あるがまま”の私たちを受け止めて下さり、かけがえのない存在としてくださっています。

 

 

 

苦しみ、悲しみのあるところにキリストは共におられる

 

 続けて、パウロは次のようにも述べています。コリントの信徒への手紙二1210節《それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです》。

 

 パウロはこの手紙を記しているとき、困難な状況の中にありました。私たちは生きてゆく中で、思わぬ困難、思わぬ悲劇に出会うことがあります。突然の苦しみ、悲しみに出会うことがあります。そのような、私たちの苦しみや悲しみが取り去られて初めて、私たちはキリストに出会うことができるのではない、ということが示されています。そうではなく、苦しみ、悲しみのあるところにこそ、イエス・キリストはいつも共におられます。十字架におかかりになっている姿で、いま、私たちと共に苦しみ、悲しんでくださっています。

 

だからこそパウロは、たとえ困難な状況にあっても、キリストが共にいてくださることの慰めが与えられ、再び立ち上がってゆく力が与えられました。

 

 

 

「十字架の愛の言葉」を心に刻んで

 

これが、初代のキリスト者たちが、イエス・キリストの十字架を「忘れてはいけない」記憶とした大切な理由の一つであるのでしょう。「十字架の言葉」とは、いま神さまからキリストを通して私たちに語られている、神さまからの愛の言葉です。

 

神さまは“あるがまま”の私たちを愛してくださっているのだということ。私たちが“あるがまま”の自分自身を受け入れるとき、そこにキリストの力が満ちて来るのだということ。また、私たちが苦しみ、悲しみの中にあるとき、そこに、神さまはいつも共におられるのだということ。イエス・キリストの「十字架の言葉」は、言葉を超えた言葉で、いつも私たちにそれを語りかけて下さっています。

 

3月の半ば、いま私たちは年度の締めくくりと、また新しい年度の準備の時にいます。別れと新しい旅立ちの季節でもあるこの時、神さまからの「十字架の愛の言葉」を心に刻んで、これからも共に歩んでゆきたいと願っています。