2015年3月22日「石のような心、やわらかな心」

2015322日 聖書箇所:マルコによる福音書81421

「石のような心、やわらかな心」


 


「パン種によく気をつけなさい」


本日の聖書箇所の中には、イエス・キリストの不思議な言葉が記されています。15節《そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた》。


パン種とは、パンを膨らませる酵母(イースト)のことを言います。もちろん当時はまだ酵母菌というものは発見されていませんでしたが、パン種を生地に入れて発酵させる仕方は日常的に行われていました。


「発酵」という現象はパン生地を膨らませたり、ぶどう液をぶどう酒に変えたり、私たちの日々の食卓を豊かにしてくれます。一方で、古代のイスラエル世界では、発酵は「腐敗や堕落」のイメージと結びつくものでもあったようです(レビ記211節、コリント一5:8など)。発酵という現象自体が悪いこととみなされていたというよりは、人間の「堕落や腐敗」をこの発酵のイメージでたとえて表現するということがなされていたのでしょう。


 挽きたての麦の粉で作ったパン生地は、いまだ外界の影響を受けていない状態です。そこにパン種が投入されることによって、発酵をし変化をしてゆきます。そのように、人々の心に悪い意図をもったパン種が何者かから投入されることによって、人々がその影響を受けて悪い方向へ進んで行ってしまう。そのようなことのたとえとして「パン種」のイメージが用いられていたようです。


主イエスは、本日の聖書箇所において、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」とおっしゃいました。


ファリサイ派とは、マルコによる福音書が書かれた当時、旧約聖書の律法を懸命に守ろうとしていた人々のことを言います。マルコによる福音書にはこれまでも、主イエスとファリサイ派の人々との論争が記されていました。ファリサイ派は、ここではいわば、「宗教的な権威」を表しているということができるでしょう。


 ヘロデとは、おそらくガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスのことが言われているのだと思われます。マルコによる福音書では、ヘロデが洗礼者ヨハネの命を奪ったことも記されていました。ヘロデは、ここでは「政治的な権威」を表しているということができるでしょう。


 主イエスはここで、宗教的な権威と政治的な権威によって投じられるパン種に気をつけなさい、と弟子たちに注意を促してらっしゃいます。


 


ファリサイ派の人々のパン種 ~「神さまのためには人間を犠牲に」?


 ファリサイ派の人々は、旧約聖書の律法を忠実に守り、神さまへの信仰を懸命に守っていた人々でした。であるなら、どこにも問題はないように思われる方もいらっしゃるかもしれません。主イエスとの対話の中で浮上してきたのは、ファリサイ派の人々の中には、律法を忠実に守ろうとするあまり、人々の求めに無関心になっていた人々がいた、ということでした。


 神さまへの信仰に熱心になるあまり、周囲の人々のことが目に入らなくなっていた。周りに困窮している人々がいるのにも関わらず、それら人々には関心を払わず、自分たちは律法を守ることばかりに一生懸命になっていた。そのようなファリサイ派の人々の姿を、主イエスは厳しく批判されました。


たとえば主イエスがファリサイ派の人々に向かっておっしゃった言葉にこのような言葉がありました。《安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない》(マルコによる福音書227節)。主イエスは「律法よりも、人間が大切である」ことをここではっきりと宣言されました。「人間を犠牲にしてでも、律法を大切にする」というのがファリサイ派の人々の論理であるとすると、主イエスはそのような論理に対して、「そうではない。律法よりも人間の命が大切だ」とおっしゃったのです。


これらのことから、主イエスが「ファリサイ派のパン種」をどういうものとして捉えていたのかの一端が理解されてくるように思います。ファリサイ派の人々によるパン種とは、「神さまのためには人間を犠牲にしてもよい」という教えであった、ということができます。


このような教えは、信仰者として素晴らしいと思われる方もいらっしゃるかもしれません。ある側面、確かにそこまで神さまに自らを捧げることができるというのは尊敬に値することです。しかし主イエスは、私たちはもはやそのように自分や他者を犠牲にする生き方はしなくていいのだ、とおっしゃってくださいました。そうではなく、「神さまのことはもちろん大切にする。と同時に、人間のことも、“同じように”大切にする」、そのような生き方を私たちは始めてゆくべきだとおっしゃってくださいました。


主イエスのこのようなまなざしというのは、旧約聖書の預言者の伝統につながっているものです。預言者たちは、神殿での祭儀に夢中になって民をないがしろにしている宗教的な権威者たちを痛烈に批判しています。ゼカリヤ書という預言書にはこのような言葉があります。《そのとき、主の言葉がゼカリヤに臨んだ。/「万軍の主はこう言われる。/正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり/やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない。」/ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、/心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった》(ゼカリヤ書7812節)。 他者に関心を向けようとしない心のことが、ここでは「心を石のように硬くしている」と表現されています。


律法にばかり目を向け、他者のことは見えていないファリサイ派の人々の心は、主イエスの目から見ると、まるで「石のような心」に映っていたことでしょう。当時多くの人々がファリサイ派の人々の教えの影響を受け、人々の間にそのような空気が充満していたのかもしれません。


 


ヘロデのパン種 ~「自分たちの利益のためには民の一部を犠牲に」?


それは宗教においてだけではなく、政治の分野についても同様です。主イエスは「ファリサイ派のパン種」と共に、「ヘロデのパン種に気をつけなさい」とおっしゃいました。ガリラヤ領主であったヘロデは当時、ローマ帝国の強大な軍事力の「傘」のもとで、権力を振るっていました。そうして、民を守ることよりも、自分たちの利益をさせてしまっていました。


ヘロデとファリサイ派の共通点は、「人間を大切にしない」というとことにあります。ヘロデら政治的な権力者たちは、「自分たちの利益のためには、民の一部を犠牲にしても止むを得ない」というような考えをもっていたのではないかと思います。人々の日常生活も、それら政策に巻き込まれてしまっていたことでしょう。豊かな者はより豊かになり、貧しいものはさらに貧しくなってゆく。搾取する側は栄え、搾取される弱い立場にある人々はますます困窮してゆく。主イエスはその社会の現状を踏まえつつ、「ヘロデのパン種に気をつけなさい」とおっしゃったのではないでしょうか。


 


人々をテロ行為に走らせる「教え」


改めて、マルコによる福音書81417節をお読みいたします。《弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。/そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。/弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。/イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか》。


主イエスのこの警告は、当時の時代状況においてだけではなく、今の私たちの時代にもまさに当てはまるものだという気がするのは、私だけではないでしょう。主イエスのこの警告は、いまを生きる私たちにとって、切実なものとなっています。「神さまのためには人間を犠牲にしてもよい」「自分たちの利益のためには、他者を犠牲にしてもよい」という「教え」は、いまも多くの場所で説かれ続けているのではないでしょうか。


今年に入ってから、ISILを始めとするイスラム過激派組織によるテロ事件が頻発しています。先週はチュニジアで博物館に入ろうとする観光客を狙った銃撃テロが起こりました。その翌日にはイエメンでイスラム教シーア派のモスクを狙った自爆テロが起こりました。神の名によるそれらテロ行為によって、テロを起こした実行犯人を含め、多くの人々のかけがえのない命が奪われ続けています。


また、一昨日の320日、オウム真理教による地下鉄サリン事件からちょうど20年目を迎えました。オウム真理教で説かれていた教えの一つに、「人の命を奪うことがむしろその人の救済につながる」というものがありました。後期密教の教えの一部を拡張させ、自分たちの行為を正当化するために悪用したわけですが、「宗教」が極端化するとここまで行ってしまうということの表れでもあります。


テロ行為は決してゆるされない行為です。またテロと共に、一部の人々をそのようなテロ行為へと走らせる過った「教え」にも、私たちは「否」を唱えねばなりません。「神」のためには、また「救い」のためには、自分や他者の命を犠牲にしてもよいし、そうすべきだという考えに対し、私たちはいまはっきりと「否」を唱えねばなりません。


私たちはいま、人間の生命と尊厳をこそ第一とすることに立ち還るべき時期にいます。それはISILやオウムだけではなく、キリスト教についてもそうです。たとえばキリスト教は今までの歴史において、「殉教」を勧めてきたという側面があります。けれども、これからはもはやそのような犠牲を自分や他者に強いること「ではない」道を模索してゆく時にいるのだと思います。先人たちの信仰に感謝しつつ、しかしもはや私たちは殉教を称賛することはしない。そうではなく、神さまから与えられた命を大切にし、自分たちの命を生きぬいてゆくことに心を向ける。


 


「神さまからの生命と尊厳をこそ第一に」


自分が最高の価値を起きたい事柄は、それぞれあることでしょう。これだけはゆずることはできない、というものもあることでしょう。ある人にとってそれは「神」への信仰であるでしょう。ある人にとっては「国家」や「民族」であるでしょう。ある人によってそれは「経済」かもしれません。自分にとって絶対的な価値のものがあり、自分自身の世界観がそれに拘束されているとしたら、その対象が「神」でなくても、それは一種の「宗教」であるということができます。私たちは多かれ少なかれ、自分自身の「宗教」に拘束されています。しかし、その絶対的な価値のために「自分や他者を犠牲にする」という考えについて、私たちはいまはっきりと決別する時にいます。


 イエス・キリストの教えがなぜ私たちによって「福音」なのか。それは、私たち人間をまことに大切にしてゆくための「よい知らせ」であるからです。イエス・キリストは、神さまから与えられた人間の命と尊厳を第一とする「道」を私たちに伝えて下さったのだということを、私たち自身、いま一度想い起こしたいと思います。一人ひとりの生命と尊厳を第一とすることを土台として、私たちはいま、さまざまなことを見直してゆくべき時にいるのではないでしょうか。


主イエスが本日の聖書箇所の後半部で特に問うておられるのは、民族、国家についてです。


 


民族を超え、国家を超え、宗教を超えて


マルコによる福音書81821節《目が合っても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。/わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。/「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、/イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた》。


ここでは、パンの屑で満たされた「十二の籠」は、「イスラエル12部族」への神さまの恵みを象徴し、「七つの籠」は「異邦人(イスラエル民族以外のすべての人々)」への神さまの恵みを象徴していると受け止めることができます。つまり、神さまの恵みというものは、イスラエル民族だけに与えられるものではない。民族を超え、国境を越え、すべての人々に与えられているものだということが示されています。


当時、イスラエルの社会の空気を形づくっていたもう一つの「パン種」に、「愛国心」というものがありました。当時イスラエルはローマ帝国のいわば属国のような位置にあり、民族的な独立を成し遂げようという機運が高まっていた時期でした。主イエスの弟子たちの中にもこの「愛国心」に駆られていた人々がいました。より正確に言うと、いわゆる熱烈な「民族主義」が社会に膨れ上がっていた時代だということができるでしょう。主イエスのもとに集まって来た人々の中には、主イエスにイスラエルの独立を成し遂げる政治的な救世主の役割を期待していた人々もいました。


けれども、主イエスが成し遂げようとされていたのは、国家としての「イスラエルの主権を取り戻す」ことではありませんでした。主イエスが成し遂げようとされていたのは、民族や国家を超えたすべての人に、「神さまからの尊厳を取り戻す」ことでした。主イエスのこのお考えは周囲に理解されず、次第に人々は失望して主イエスのもとから去ってゆくようになります。当時は理解できなかった。しかしいま、私たちは理解することが出来る者として、招かれています。


主イエスの祈りを、いまこのとき、私たちの祈りとしてゆきたいと思います。神さまを大切にし、と同時に、人間を“同じように”大切にする「道」を、私たちが共に歩んでゆくことができますように。民族を超え、国家を超え、宗教を超え、一人ひとりに神さまからの生命と尊厳が確保されために、共に歩んでゆくことができますようにと祈ります。