2015年3月29日「キリストの光が見える」

2015329日 聖書箇所:マルコによる福音書82226

「キリストの光が見える」

 


はじめに

 

 本日の聖書箇所には、目の見えない全盲の男性が登場します。全盲の男性が主イエスとの出会いを通して、視力が回復される物語です。文章の書き方から、この男性はもともとは目が見えていたけれど、途中で見えなくなったのではないかと推測できます。現代は医療の発達によって、たとえば緑内障や白内障も、手術によって視力を回復することが可能となってきました。当時はもちろん、そのように視力を回復させる手立てはなく、何か奇跡的な出来事に頼るほかありませんでした。

 

「視覚障がい」というと私たちは視覚をもたない全盲の方をイメージすることが多いですが、視覚障がいには、弱視の方も含まれています。近年は、「眼鏡やコンタクトで矯正しても十分な視力が得られず、生活や学習や仕事に不便を感じる状態」を「ロービジョン」という言葉で呼んでいるそうです。「ロー(low)」は英語で「低い」「弱い」という意味、「ビジョン(vision)」は「視力」ですね。視覚障がいの方々のうち、6~7割がロービジョンの方々であると言われています。一方、ロービジョンの人々への理解や社会的な配慮は、いまだ十分になされているとはいえない状況にあるようです。

 

ロービジョンにはさまざまな症状が含まれます。視力の低下、また、視野が狭くなる症状。また、まぶしい所や薄暗い所で見えづらくなる症状。高齢による視覚の障がいも、ロービジョンに含まれます。代表的な症状として、緑内障や白内障があります。皆さんの中にも白内障の治療中の方、以前に治療をした方がいらっしゃることと思います。

 

目の「見えづらさ」というのは一人ひとり異なります。よって、配慮の仕方も、その人によって異なってくるでしょう。たとえば、紙に印刷された文字はゴシック体なら読みやすいとか。黒字に白の文字なら読みやすいとか。横書きか縦書きかの違いも、人によって読みやすさが異なると聞きました。

 

お配りしている説教の原稿や週報の文字の大きさも、必要に応じて、より大きなサイズに印刷ことが可能ですので、どうぞご相談ください。特に、週報の文字は少し小さなめかな、と私も思っております。

 

 聖書や讃美歌の文字も、拡大しないと見えにくい方もいらっしゃるかもしれません。いま花巻教会は礼拝ではスクリーンは用いていませんが、スライドでスクリーンに聖書箇所や讃美歌の歌詞を映した方が見えやすい、という方もいらっしゃるかもしれません。いまだいろいろとより良くしてゆけるところがあると思います。皆さん一人ひとりとご相談してゆきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

花巻教会には現在は全盲の方はいらっしゃいませんが、全盲の方がいらっしゃった場合、点字聖書が必要となります。全盲の方がいらっしゃったとき、いつでもお迎えできる準備を整えていきたいと思っております。

 

 

 

全盲の男性と主イエスの出会い

 

改めて、マルコによる福音書82226節をお読みいたします。《一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。/イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。/すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」/そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。/イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された》。

 

 本日の聖書箇所で記されているのは、全盲の男性と主イエスの出会いです。ある時、この男性は家族または友人たちに、主イエスのもとへと連れられてきました。主イエスに触れていただいたら、視力が回復するかもしれないと思ったのでしょう。

 

 その願いを受け、主イエスは男性の手をお取りになり、村の外に連れ出されます。大勢の人々がいる中でではなく、男性と一対一で、向かい合おうとしてくださいました。23節の《イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し…》というのは、何気ない一文として読み過ごしてしまいそうになりますが、改めて想像してみると、心打たれる光景です。目の見えない男性の手を主イエスご自身が取って下さって、先導して下さっている。この光景を想像すると、心の中が何かあたたかなもので満たされてゆくように感じます。主イエスが私たち一人ひとりの手をとって、私たちの光として共に歩いてくださっていることを想い起こすからです。

 

 

 

「何か見えるか」

 

 男性と向かい合った主イエスは、男性の両目に唾をつけ、手を男性の上に置かれました。唾をつけるという不思議な動作は、当時、唾には治癒力があると考えられていたことと関係しているようです。2324節《…その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。/すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」》。

 

 主イエスを通して、驚くべきことに、男性は視力が回復し始めました。主イエスが「何か見えるか」とお尋ねになると、男性は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えます。男性のこの言葉から、男性はもともとは目が見えていたけれども、途中で見えなくなったのかもしれないことが推測できます。男性の言葉から、「木」のかたちをもともと知っているようなニュアンスが感じ取れるからです。いまだ完全に視覚が回復したわけではないですが、主イエスを通して、歩いている人々の姿が木のようにぼんやりと識別できるようになってきました。

 

 男性の返答を受けて、主イエスはもう一度両手を男性の目に当てられます。すると、男性の視力は完全に回復しました。25節《そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった》。

 

 

 

二段階のいやし

 

本日の聖書箇所で印象的なのは、主イエスのいやしの行為が二段階に分けて行われているところです。一回目のいやしでは、視力は回復しはじめますが、いまだ輪郭はぼんやりとしていました。二回目のいやしで、男性ははっきりと視力が回復します。

 

 マルコによる福音書を記した著者マルコは、この男性の姿に、私たち自身の姿を重ねあわせているようです。この男性の姿は、私たち自身の姿でもあるのだ、と。

 

 視力が少し回復した第一回目のいやしは、人々と主イエスとの、第一回目の出会いが重ね合わされています。人々は主イエスの数々の奇跡に出会い、感激して主イエスの後に従ってゆきました。奇跡を起こす力強い救い主の登場に、人々は色めき立ったのです。けれどもそれは、いまだ主イエスのお姿をはっきりと捉えたものではなかった、とマルコは伝えようとしています。

 

 では、主イエスのお姿がはっきりと見ることができるようになった二度目の出会いとは、何でしょうか。それは、十字架におかかりなった主イエスとの出会いです。男性が二回目のいやしではっきりと目が見えるようになったように、私たちは、主イエスのご受難と十字架を通して初めて、はっきりと主イエスのお姿を捉えることができるようになりました。いったいこの方はどなたであるのか――。十字架の主との出会いを通してこそ、私たちははっきりと主イエスのお姿を見ることができるようになるのだとマルコは伝えようとしているのだと受け止めることができます。

 

 

 

十字架の主との出会い

 

今週から、教会の暦では「受難週」に入ります。受難週は、主イエスがエルサレムに入城されて、十字架におかかりなるまでの歩みを覚える時期です。

 

本日は主イエスがエルサレムに入城された「棕櫚(しゅろ)の主日」に当たります。「棕櫚」とはナツメヤシのことです。主イエスがエルサレムに来られた時、都の人々がナツメヤシの枝を道に敷いて、主イエスを熱狂的に出迎えた場面が由来となっています(ヨハネによる福音書121215節)。人々の熱烈な歓迎の中、主イエスがろばの子に乗って進んでいく姿はよく知られていることと思います。

 

人々が熱狂的に迎え入れたのは、主イエスをイスラエルの独立を成し遂げてくれる政治的な救世主として捉えていたからでした。当時、イスラエルはローマ帝国の支配の中にあり、人々はローマの支配から解放してくれる救い主を待望していました。そのような中、主イエスが登場します。主イエスがなさった数々の奇跡のうわさは、エルサレムの人々にも届いていたことでしょう。驚くべき奇跡を引き起こすこの方こそ、イスラエルを独立に導く救世主ではないかと人々は思ったのです。

 

しかし、主イエスがその後に向かわれたのは十字架の道でした。十字架の道行きの中で、主イエスはもはや奇跡を起こすことはなさいませんでした。逮捕され、裁判にかけられ、鞭打たれ、十字架の横木を背負ってゴルゴダの丘まで歩かされる主イエス。そこには、自分たちが望んでいた力強い救い主の姿はありませんでした。失望した人々は、主イエスのもとから去ってゆきました。または憤慨して主イエスをののしりました。ナツメヤシの枝をもって熱狂的に主イエスを出迎えた人々は、主イエスを見ているようでいて、実際には主イエスのことが見えていなかったのだ、ということが分かります。それぞれが、自分たちの望む力強い救世主像を主イエスに投影していただけでした。

 

苦しみを受け、十字架におかかりなり、亡くなられた主イエス。マルコは、この十字架の主に出会って初めてこそ、私たちはイエス・キリストのお姿がはっきりと見えるようになるのだと伝えています。

 

マルコによる福音書の十字架の場面をお読みいたします。《昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。/三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。/そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。/ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。/しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。/すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。/百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った》(マルコによる福音書153339節)

 

主イエスの十字架の死を目撃したローマの百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と告白しました。そこにおられるのは奇跡を起こす力強い救い主ではなく、無力な姿で亡くなられた一人の人間でした。しかし、十字架の上で、悲惨な姿で亡くなられたこの方こそ、「神の子」であることを、百人隊長は知らされました。

 

 

 

この方こそ、私たちの光

 

 私たちは目の前が真っ暗になるような経験をすることがあります。何の希望も見いだせないように思う経験をすることがあります。また否定的な想いで頭がいっぱいになってしまう時もあります。何のために生きているのか分からなくなってしまうことがあります。楽しみは去り、喜びは消え、希望も途絶える。いっそ、自分はいなくなってしまったほうがいいのではないかと思ってしまう時もあるでしょう。

 

 そのような時、私たちは何が見えるでしょう。何も見えなくなってしまったような、その真っ暗な闇の中、しかし、私たちには、十字架におかかりになっているイエス・キリストが見えます。私たちは他に何も見えなくとも、十字架のキリストだけは、はっきりと見えてくることがあります。いや、私たちが見まいとしても、私たちの目の前に御自分から迫って来てくださるのが、この十字架のキリストです。

 

 奇跡も起こせない、無力で、悲惨なお姿で呻いている、この方は誰か――。この方が神の子、イエス・キリストです。

 

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。そう叫ぶ私たちと共に叫び続けてくださっているキリストです。そうまでして、私たちの絶望、悲しみと結びつこうとしてくださっている、神の独り子です。この私の、言葉には言い表わせないうめきと共にいてくださる、キリストです。

 

十字架の主と出会う時、私たちの目は開かれてゆきます。そこまでして、この私と結びつこうとして下さっている、神の愛を知らされます。この神の愛を知らされた時、私たちはさまざまな事柄が、再びはっきりと見えるようになってゆきます。たとえいまだ希望ははっきりとは見えなくても、もはや、絶望はしなくてもいいのだ、ということを知らされます。十字架の主は私たちに語りかけてくださっています。「あなたは、生きよ!」と。

 

私たちはもう、絶望はしない。絶望は、しなくてよい。どんなに目の前が暗くても、いまだはっきりとした希望がもてなくても、ここに、十字架におかかりになっているキリストが共にいてくださるからです。この方こそ、神の子、決して消え去ることのない私たちの光です。

 

受難週のこの時、私たちの光となって共に歩んでくださる、十字架の主にご一緒に心を向けたいと思います。