2015年3月8日「四千人に食べ物を与える」

201538日 聖書箇所:マルコによる福音書8110

「四千人に食べ物を与える」


 受難節


私たちは現在、教会の暦において「受難節」を過ごしています。受難節は、イエス・キリストがご受難を受け、十字架におかかりなったことについて想いを巡らす時です。今年の受難節は218日(水)から始まり、イースターの前日の44日(土)まで続きます。


受難節において大切なのは、イエス・キリストのご受難に心を向けること、そして、隣り人の苦しみへと心を向けることです。


キリスト教会では伝統的に、受難節においては断食や節食、祈りと共に、他者への慈善が重要であるとしてきました。十字架に心を向け自分を節制するだけではなく、他者への積極的な支援が重要視されてきたというところが心に残ります。私たちは受難節と言うと、部屋に籠って静かにお祈りをしているというイメージがあるかもしれませんが、受難節の過ごし方というのはそれだけではないのですね。


旧約聖書にもこのことと共通する言葉があります。イザヤ書の中の言葉です。《わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと》(イザヤ書5867節)


預言者イザヤは、断食の時期に聖所にこもってお祈りしているだけでは足りない、と語ります。むしろ、飢えた人に自分のパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に衣を着せかけ、隣り人に助けを惜しまないこと……。弱い立場にある人々に対するそのような積極的な行いこそ、断食の時期に大切なことであり、神さまの心にと適うことであると述べています。


 


人々のために、私たちのために


このようなことを想います時、少し受難節のイメージも変わってくるかもしれません。もちろん、節制や静かな祈りの時を持つと言うことは大切です。でもそれは静かに過ごさなければならないということでは必ずしもなくて、積極的に外へ出ていく、というのもまた大切な受難節の過ごし方となります。


そのように私たちの心が他者への向かってゆくことが大切とされるのは、他ならぬ、イエス・キリストが十字架へと向かう道の中で、全身全霊で他者に心を向けてくださったからであるでしょう。


たとえばルカによる福音書には、十字架を背負って歩く主イエスが嘆き悲しむ婦人たちに向かって、《エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け》とおっしゃったことが記されています(ルカによる福音書2328節)


また、主イエスは十字架に磔にされたとき、その激しい身体の苦痛の中で、《父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです》と祈られました(同2334節)


十字架刑というのは、当時のローマ帝国の処刑の仕方の中で、最も残酷な処刑の仕方でありました。私たちの想像を絶する苦しみの中で、しかし主イエスはご自分の周りにいる人々のことを想い、人々のために祈って下さいました。


そうして最期に、傷つき血を流すご自分の体そのものを、パンとぶどう酒として私たちに与えて下さいました。十字架の上で、主イエスは御自分の体をパンとして、私たちに裂き与えて下さいました。それほどまでに、その死の瞬間の最期まで、主イエスは私たちのことを想い、私たちを愛して下さいました。


受難節は、主イエスのこの愛を今一度想い起こそうとする時期です。ですので、この主イエスの愛を想い起こすことは、私たちが他者に心を向けるということと切り離し難くつながっているのでしょう。


 


腸がちぎれる想いで


 本日の聖書箇所は、主イエスが四千人に食べ者を与える物語です。主イエスのもとに集った大勢の人々に対して、主イエスはパンと魚を与えられました。主イエスはそれほどの大量のパンと魚を事前に用意されていたということではもちろんありません。七つしかないパンとわずかな小魚が、主イエスを通して、四千人を満腹させるほどの量になったという奇跡を記録した物語となっています。


 この奇跡物語を生じさせている根本にあるもの、それも、先ほど述べた主イエスの愛です。人々のことを想う主イエスの愛が、驚くような結果を引き起こした、と受け止めることができます。


 物語の冒頭は、主イエスが人々のことを気遣う言葉から始まります。マルコによる福音書813節《そのころ、まだ群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。/「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。/空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」》。


 空腹のまま家路に向かう群衆を気遣い、主イエスは何とかして人々に食べ物を与えたいと願われます。《群衆がかわいそうだ》という主イエスの言葉が記されていますが、この部分を岩波訳聖書は《この群衆に対して、私は腸のちぎれる想いがする》と訳しています。「腸がちぎれる」という表現から、主イエスは人々に対してただ憐れみの気持ちをもっているというだけではなく、ご自身も腸がちぎれるほど辛い想いをしている、ということが表現されています。群衆の辛そうな表情を見ていると、いてもたってもいられない。主イエスは人々の辛さを御自分の辛さとして受け止めて下さっていることが示されています。


本日の物語は、人々に対するこの主イエスの切実なる想いが出発的となっています。この点を、私たちはまず大切に心に留めておきたいと思います。


 


ご自身の体をパンとして


 主イエスは腸のちぎれる想いの中で、弟子たちに「パンはいくつあるか」とお尋ねになります。そこにあるのは七つのパンとわずかばかりの小魚だけでした。


 改めて、5節以下をお読みいたします。《イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。/そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。/また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。/人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。/およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた》。


 本日の物語でもう一点心に留めておきたいことは、主イエスがパンを取って配られた時の仕草です。主イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになりました。


この動作は、長らく教会にいらっしゃっている方々には、なじみの深い動作を連想させることでしょう。そう、聖餐式の動作です。聖餐式のルーツとなっている聖書の箇所をお読みいたします。


マルコによる福音書142225節《一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」/また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。/そして、イエスは言われた。「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。/はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」》。


お読みしました箇所で、主イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、それを裂いて弟子たちにお与えになったことが記されています。四千人にパンを与えられるときの動作と、ほぼまったく同じ動作です。


これは偶然ではなく、マルコによる福音書では明確な意図をもって、そのように記しています。つまり、四千人に分け与えられたパンは、十字架の上で引き裂かれたイエス・キリストの体を指し示すものでもあるのです。主イエスは、御自身のただ一つの体をパンとして、私たちに与えて下さいました。本日の物語は、それほどまでに私たちを想って下さった主イエスの愛を指し示す物語であると受け止め直すことができます。


 


心が石のように硬く


 一方、対照的であるのは12人の弟子たちの姿です。弟子たちは食べ物がない群衆を見ても何も思わず、また「群衆がかわいそうだ」という主イエスの言葉に対し、「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」とそっけなく答えます。腸がちぎれる想いでいる主イエスに対し、まるで対照的なこの弟子たちの姿は、私たち自身の姿を映し出しているように思います。


 苦しむ人々を前にしても、どこか心が動かないでいる私たち。主イエスの愛に触れたとき、私たちはまず始めに自分の内の愛の無さを知らされます。


 旧約聖書の預言書のゼカリヤ書にはこのような警告の言葉があります。《そのとき、主の言葉がゼカリヤに臨んだ。/「万軍の主はこう言われる。/正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり/やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない。」/ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、/心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった》(ゼカリヤ書7812節)


 苦しむ人々を前にしても何も動じない状態を、ここでは「心が石のように硬く」なっていると表現されています。私たちは気が付くと、自分の心を石のように硬くしてしまっていることが多いものです。


 石のような心を抱える私たちに対して、だからこそ、主イエスは私たちのもとに来てくださり、十字架の愛を注いでくださいました。


 


「石の心」から、柔らかな「肉の心」へ


主イエスの十字架の愛に立ち還るとき、私たちの凍りついた心は少しずつ溶かされてゆきます。石のような心は、少しずつ柔らかにされてゆきます。旧約聖書では、頑なな「石の心」に対し、神さまの力によって柔らかくされた心を「肉の心」と表現することがあります(エゼキエル書3626節)。「肉の心」とはまさに主イエスのように、他者の苦しみに対して心震わせ、腸のちぎれる想いになる心のことでありましょう。主イエスは十字架の愛によって、私たちの心を、柔らかな「肉の心」へと新しくしてくださいました。


エゼキエル書111920節《わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。/彼らが私の掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる》。


主イエスの十字架の愛によって、私たちの心は生気を取戻し、他者の苦しみに少しずつ開かれてゆきます。私たちの腸は生きて呼吸し始め、いま目の前にいる人々の苦しみ、悲しみに対して、痛みを感じ始めます。


 こうして、私たちが十字架の愛に心を開くということは、他者の苦しみに心を開いてゆくことへとつながってゆきます。


 


東日本大震災から4


東日本大震災から4年が経とうとしています。本日は午後から、岩手では宮古教会、新生釜石教会、千厩教会にて東日本大震災4年を覚えての礼拝がささげられます。


 震災と原発事故によって苦しむ人々、悲しむ人々が私たちの周りに数多くいます。私たちの近くに、遠くに、いまも多くの苦しみ、悲しみがあるにも関わらず、気が付くと私たちは自らの心を石のように硬くし、自らの心を閉ざそうとしてしまっています。


受難節のこの時、いま一度主イエスの十字架の愛に立ち還り、隣り人の苦しみ、悲しみへと心を開いてゆきたいと願います。