2015年4月12日「あなたはメシア、キリストです」

2015412日 聖書箇所:マルコによる福音書82730

「あなたはメシア、キリストです」



「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」


「イエス・キリストとは誰ですか」。そのように聞かれたとき、皆さんはどうお答えになるでしょうか。その答えは、人それぞれ違うでしょう。クリスチャンである人は、「救い主」「神の独り子」と言う方が多いことでしょう。クリスチャンではない方は、仏陀や孔子のような「歴史上の偉人」と言うかもしれません。


 本日の聖書箇所では、イエス・キリスト御自身が、弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになった場面が記されています。主イエスのこの問いに対して、弟子のリーダー格であるペトロという人物は、「あなたは、メシアです」と答えました。


「メシア」とはヘブライ語で「油注がれた者」という意味の言葉で、古代イスラエルでは、王や大祭司にこの名称が用いられることがありました。さらに、「メシア」という語はイスラエルを救いへと導く「救い主」の意味合いももっていました。この「メシア」のギリシア語訳が「キリスト」です。つまりここでペトロは、「あなたは、キリストです」と答えたことになります。


 一見、ペトロは弟子として正しい答えをしたように見えます。しかし主イエスはペトロのその答えを聞いて、御自分のことをだれにも話さないようにと戒められました。ペトロの答えに対して主イエスはどこか否定的でいらっしゃるような印象を受けます。


改めて、マルコによる福音書82730節をお読みいたします。《イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。/弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」/そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」/するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた》。


 


「あなたはメシア、キリストです」


 ペトロは主イエスに対して、「あなたはメシア、キリストです」と答えました。「キリスト」という言葉を用いていますが、しかしその内実に、どのようなイメージを抱いているかが問われてくるのでありましょう。クリスチャンである人々も、「主イエスは救い主だ」と告白する際、頭の中にどのようなキリストのイメージをもっているかは、多種多様であることと思います。


そのときペトロが抱いていたキリスト像がどのようなものであったかというと、それは「政治的な救世主としてのキリスト」であったでしょう。イスラエル民族をローマの支配から解放する政治的な救世主として、ペトロは「キリスト」という言葉を捉えていたのでした。そうしてその役割を主イエスに切望していました。


 当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にありました。いわば属国的な位置にあり、ローマの支配から独立しようという動きが高まっていた時代でした。そのような中、一部の人々は主イエスに政治的な救世主・キリストの役割を期待していたのです。ペトロの告白は、その人々の願いが吐露されたものであるということができます。その告白に対しては、主イエスはうなずくことはなさいませんでした。


 では、主イエスが目指しておられたのは、何だったのでしょうか。それは、この地上における「神の国」の実現です。イスラエル国家の再興ではなく、神の国の建設を主イエスは志しておられました。


 本日はこの神の国を、「私たち一人ひとりに、神さまからの尊厳が確保されている場」として受け止めてみたいと思います。


 私たち一人ひとりは神さまから見てかけがえのない存在であること。私たちが互いにそのことを受け入れ、互いの尊厳を尊重し合ってゆくこと。主イエスはそのことの実現に向けて働いてくださいました。


 


かけがえのない「わたし」として


 自分自身を国家や民族と重ねあわせるとき、私たちは個人を超えた大きな「わたし」の感覚を得ることがあります。それは私たちに全体的な感覚、連帯感、昂揚感を与えてくれます。一方で、その大きな「わたし」においては、この「わたし」と「あなた」の区別はあいまいとなります。つまり、かけがえのないこの「わたし」、という感覚が薄れてゆくのです。「わたし」という人間は、大勢の中の一人となります。それは同時に、「あなた」という感覚も失われてゆくことを伴います。


 ペトロを始め、当時多くのイスラエルの人々が、いまだ、この大きな「わたし」の感覚の中を生きていたのだと思います。そのような中、主イエスはただ一人の「わたし」にこそ目を向けられました。巨大な風船のように膨れ上がったその大きな「わたし」意識を破裂させ、たった一人の「わたし」として神さまの前に立つようにと促されたのです。


 


神さまからの尊厳 ~代替不可能性


 主イエスは、私たち一人ひとりが、神さまから見てかけがえのない自分に立ち戻るようにと促されます。そのとき、私たちはただ一人の人間として神さまの前に立たされます。何も持たない裸の自分として、立たされるのです。そのとき、私たちは裁かれるのではないかと恐怖するかもしれません。こんな罪深い自分が神さまの前に立つべきはないと感じるかもしれません。しかし、イエス・キリストを通して語られる神さまからの“声”はそうではありません。神さまはこの私に語りかけておられます。「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)


あなたという存在が「かけがえがない」ということは、あなたという存在の「替わりとなる人は存在しない」ということです。私たちが抱えている個性、またさまざまな弱さを含め、私たちは神さまから見てかけがえのない者です。一人ひとりのこの「かけがえのなさ」こそ、神さまが私たちに与えて下さっている「尊厳」です。


 


「わたしの目に、あなたは価高く、貴い」


 ペトロは主イエスに向かって、「あなたはメシア、キリストです」と答えました。しかしそれは、ペトロがかけがえのないこの「わたし」として神さまの前に立って言った言葉ではありませんでした。よってそのキリスト像も、「政治的な救世主」という、焦点がずれたぼんやりとしたものにとどまってしまっていました。


 ペトロたちがかけがえのない「わたし」として神さまの前に立たされた経験をしたのは、その後、十字架におかかりになったキリストとの出会いを通してでした。ペトロたちはその後、十字架におかかりになったキリストに出会うことになります。そして、この十字架におかかりになった方は、他でもない、この「わたし」のためであったのだということを知らされたのです。


主イエスを誤解し、さらには主イエスを「知らない」と裏切った自分を、主イエスは“あるがまま”に受けとめて下さり、愛して下さった。すべてを受け止めて、十字架におかかりなってくださった。圧倒的なその愛の前にペトロたちは立たされました。


 


「個人」の誕生


 浄土真宗の親鸞上人の言葉に、《弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり》という言葉があります(『歎異抄』より)。《五劫思惟》とは阿弥陀仏がまだ菩薩であったとき誓願を立てるため長い間思索をしたことを言いますが、阿弥陀仏の長い時間をかけたその救いの約束は、ひとえにただ「自分一人」のためであった、というのですね(参照:鈴木大拙『日本的霊性』岩波文庫)。親鸞上人はそのような、言語を絶する深い宗教体験をされたようです。


 阿弥陀仏とキリストという違いはありますが、ペトロたちの経験と親鸞上人の経験とには共通するものがあるように思います。大いなる存在の、圧倒的な愛の前に、かけがえのないただ一人の「わたし」を自覚するという経験です。


キリストを通して、私たちはそれぞれ、「ただ一人の自分」として神さまの前に立たされる経験をします。もはや国家や民族と連なる大きな「わたし」の中を生きるのではなく、また誰かから期待される仮面の「わたし」を生きるのでもない。それらは十字架のキリストを前に破裂させられます。そうして、かけがえのないただ一人の「わたし」として、新しく私たちは生きることへと促されてゆきます。私たちが今までしてしまった過ち、弱さ、醜さ、すべてを携えたただ一人の存在として、私たちは神さまの愛に照らされています。そのとき、私たちは本当の意味での、「個人」になっているのではないでしょうか。神さまからの尊厳の光がともされた「個人」です。


 


「神の国」は私たちの間に


キリスト教はこの意味において、「個人」を重視しています。それは本来、自己中心的なものではありません。「個人」で完結してしまうものではなく、他者へと開かれてゆくものでもあります。なぜなら、神の国は、一人ひとりの尊厳が等しく、尊重されることを求めるからです。そのためには、他者への配慮のために自らを律するということもまた不可欠でありましょう。互いに互いの尊厳を尊重し合うことを主体的に決意する態度から、主イエスが宣べ伝えて下さった「神の国」は少しずつ創りだされてゆくのではないでしょうか。


「公共」という言葉があります。英語で言うと、public(パブリック)ですね。「神の国」とは私たちが主体的に創りだしてゆく「公共」の領域と関わっているものだということができるでしょう。


神の国とは私たちの間にあるものです(ルカによる福音書1721節)。私たちの間に、少しずつ、創りだされてゆくものが神の国です。主イエスはその土壌を耕し、御自分の命を種として、そこに蒔いてくださいました。主イエスを通して与えられたこの土壌をいかに育んでゆくか、私たち一人ひとりの態度に委ねられています。


「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」――。神さまから託されたこの言葉を、私たちもまた互いに伝え合うようにと招かれています。


 現在、多くの人々が自分の「かけがえのなさ」を感じることができない状況にあります。「自分の替わりなどいくらでもいる」「自分なんていてもいなくてもいい」、そのような想いをいま多くの人が抱え、渇きを感じながら生きています。いまこそ私たちは、神さまからの尊厳を互いに伝え合ってゆきたいと願っています。