2015年4月19日「十字架の道へ」

 2015419日 聖書箇所:マルコによる福音書831節‐91

「十字架の道へ」

 

 

 

高校生の頃

 

 この4月から、私は盛岡の高校の聖書科の授業を担当することになりました。先週から授業が始まりましたが、高校生を前にして、自分が高校生であった頃のことを思い起こしています。自分自身が高校生であった頃はキリスト教にどのようなイメージをもっていたか、聖書の言葉をどのように受け止めていたかを最近はよく思い起こしています。

 

高校生の頃に私がキリスト教について抱いていたイメージは、「辛い」「悲しい」「重苦しい」というようなものでした。本日の聖書箇所の中には、《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》という言葉があります。たとえば、このような言葉に接したとき、私は重苦しいような、悲しいような気持になったことを覚えています。言われていることの大切さは分かる気がする。でも自分を捨てキリストに従ってゆくことがクリスチャンの生き方なのだとしたら、それは非常に苦しそうな生き方だ。自分自身を否定し、自分の十字架を背負い、うつむきながら歩むのがクリスチャンの生き方なのだろうか。私はそのような生き方のどこに喜びがあるのか分からず、戸惑いを感じていました。当時の私にとって、キリストの道とは、「悲しみの道」という印象でした。

 

 本日の聖書箇所は、読む人に強烈な反応を引き起こし得るものであると思います。《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》。ある人は、「これこそキリスト教の神髄だ」と思うかもしれません。一方で、ある人は、「自分にはとてもついてゆけない」と思うかもしれません。特にキリスト教に普段接する機会のない人がこのような言葉に接すると、圧迫感といいますか、異様な感じを受けるのではないかと思います。若者風の言葉で言うと、「引いてしまう」のではないでしょうか。

 

 どのような部分に特に圧迫感を感じるかというと、「自分を捨てる」「自分の命を捨てる」ということが命じられていると読める部分であると思います。このような表現は長年教会に通っていると、ある側面、慣れてゆくことなのかもしれません。しかし初めてこのような言葉に出会った人は戸惑ってしまうことでしょう。私も高校生であった当時、聖書の中に時に出て来るこのような表現に戸惑いを覚えていました。

 

 

 

「自分を捨てる」という表現への戸惑い

 

 本日の聖書箇所は、大きく二つの内容に分かれています。前半に記されているのは、イエス・キリストが十字架にかけられ、三日目に復活するということの予告です。これほどはっきりと宣言されたのは、マルコによる福音書において、ここが初めての箇所となります。後半に記されているのは、キリストに従うクリスチャンの生き方についてです。前半はイエス・キリストの十字架と復活について記され、後半はクリスチャンの生き方について記されているのですね。

 

クリスチャンの生き方について記されている後半の部分を改めて読んでみたいと思います。マルコによる福音書834節‐91節《それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。/自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。/人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。/自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。/神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」/また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」》。

 

ここでは、「自分を捨てる」ということが、逆説的に述べられています。つまり、「自分を捨てる」ことが「自分を活かす」ことにつながり、「自分の命を失う」ことが「自分の命を救う」ことになるという表現がなされています。

 

宗教というものは一度「否定」をくぐるように促す、というのは共通項としてあるものです。仏教もそうですし、神道にもそのモチーフがあります。たとえば洞窟の中をくぐってゆく「胎内くぐり」というものがありますが、これは「古い自分が死んで、新しい自分が生まれる」という主題を含んでいます。いわゆる「死と再生」のモチーフですね。キリスト教ではそれが「十字架の死と復活」というモチーフとなって表れているということができます。

 

確かに私たちは、自己中心的な「小さな自分」を手放すことができれば、より自由に、より幸福に生きてゆくことができるのかもしれません。様々なことに執着する「我」というものが、いつも私たちを振り回しています。しかし私たちはなかなか容易く「我」を抑制することではできません。また、誰かから無理やり命じられて捨てることができるものでもないでしょう。

 

私自身、高校生の頃から、「我を捨てろ」と命じる宗教的な物言いに、違和感を覚えてきました。当時は自分が抱いていた違和感をうまく言葉にすることができませんでしたが、現在は多少それを言葉にすることができます。それは、いまを生きる自分たちはすでに、むしろ心の奥底に「否定感」を抱きながら生きている、ということでした。「自分を否定しろ」などと言われなくても、私たちはすでに心の側底に自分で自分を「否定する」気持ちをもっている。その辛い気持ちを普段は隠しながら生きている。そのような状況の中、さらに「自分を捨てろ」と強要するのはあまりに酷なのではないか、という感覚がありました。十代であった当時はもちろんそのような違和感は言葉にすることができませんでしたが、いま私が当時の気持ちを言語化すると、そのような感覚があったのではないかと思います。

 

 

 

それぞれが「自分の十字架」を背負いながら

 

私たちの生きる社会はいま、どんどんと生きづらい社会になっていっています。社会の中のさまざまな場面で、私たちは自分自身を「否定される」経験をします。たとえば学校の中で、また職場の中で。傷だらけになりながら懸命に生きているのが、日々の私たちの姿でありましょう。さまざまな局面において社会から冷たく「否定される」。また自分も心の奥底で自分自身を「否定している」。いま多くの人が、心の奥底に「渇き」を覚えながら生活しています。

 

旧約聖書の詩編の中に、《涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。/神に、命の神に、わたしの魂は渇く》(詩編4223節)という言葉がありますが、まさにそのような感覚です。つまり、私たちはすでにそれぞれが、「自分の十字架」を背負いながら懸命に生きているということが言えます。

 

そのような中、自分自身を守ってゆくために、私たちは「自己中心的」になってゆきます。いま多くの人が自己中心的になり「我」が強くなっているように見えるのは、内に強い「自己否定感」を抱えているからに他ならないのではないでしょうか。表向きには激しく自分を肯定しているように見える人も、心の深くには自己否定感を抱えていることが多いように思います。

 

強い自己否定感を抱えている人にさらに「自分を捨てろ」と強要することは、当人にとっては自分の存在そのものが否定されることのように感じる場合があります。場合によっては、「自分という存在はそもそも生きていたら駄目なんだ」という深刻な否定感を、当人に与えてしまう危険性もあります。現在を生きる私たちは、「自分を捨てる」という宗教的な言説にはよほど注意深くある必要があるように思います。

 


 

泉との出会い ~あなたが、あなたそのもので、在って、よい

 

高校生の頃にキリスト教に対して感じていた違和感は、大学生になるとさらに深まってゆきました。私が抱いていた感覚は、「渇き」という表現が一番ぴったりくるものでした。《涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。/神に、命の神に、わたしの魂は渇く》(詩編4223節)。聖書を読めば読むほど、私は自分の心が渇いてゆくのを感じました。

 

そのような中、大学4年生のとき、私は一つの体験をしました。それは、復活のキリストからの語りかけを聴いた、という体験でした。

 

私には、その“声”は、「あなたが、あなたそのもので、在って、よい」という言葉として聴こえました。その“声”は私に向かって、「わたし」という存在そのものが、「よい」ものとして祝福されている、ということを伝えていました。

 

 この言葉に出会い、私はそれまで内に抱き続けてきた「渇き」が、初めて癒されたように感じました。命の泉に出会い、そこから命の水を汲んで飲んだような想いがしました。私という存在は、「悪い」ものとして全否定されるべき存在ではなかった。私という存在そのものは、創り主なる神さまから「極めてよい」ものとして祝福されている、ということを知りました(創世記131節)。神さまは、私たちを決して「否定する」ことをされない。

 

 確かに、私たちは過ちを犯す存在であり、それぞれが弱さをもっています。そのような側面をも含め、しかし、“あるがまま”に、神さまは私たちをかけがえなく貴いものとして見つめて下さっている。私たち一人ひとりの存在は、神さまの目から見て、決して失われてはならない存在である。だからこそ、イエス・キリストは私たちのもとへ来てくださった、ということを想いました。

 

本日の聖書箇所も、私たちの存在がいかに「かけがえのない」存在であるかを伝えている箇所があります。3637節《人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。/自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか》――。私たちは誰一人として決して失われてはならない存在である。だからこそ、イエス・キリストは十字架におかかりになり、三日目に復活してくださいました。

 

 

 

十字架と復活の道へ

 

 復活のキリストとの出会いを通して、私は十字架のキリストのお姿がよりはっきりと見えるようにもなりました。復活のキリストは私に命の水を与えて下さいましたが、十字架のキリストは、私たちの内で、私たちと共に、「渇く」と叫んでおられました。

 

 ヨハネによる福音書は、十字架におかかりになったキリストが「渇く」と言われたということを記しています1928節)。私自身が心の内に渇きを覚えて仕方なかったとき、キリストは遠くにおられたのではなかったことを知りました。この私の渇きの内に、共にいてくださった。聖書の言葉が納得できず苦しんでいたときも、心の内に渇きを覚えて仕方なかったときも、キリストは共にいてくださった。私と共に「渇く」と叫んでくださっていた。それほどまでして、私たちと一つになろうとしてくださったことを知らされました。

 

本日の聖書箇所の冒頭で、主イエスはご自分の十字架の死と復活を予告されていますマルコによる福音書83133節)ペトロはその意味を理解することができず、主イエスをいさめ始めましたが、主イエスは厳しい言葉で叱責されます。主イエスはこの使命を何としてでも実現なさろうとしていた。それは、私たちが誰一人失われることがないようにしてくださるためです。

 

主イエスは私たちと結ばれるため、十字架におかかりなり、私たちの「渇き」を経験して下さいました。人々から「否定される」ことの苦しみを、極みまで経験してくださいました。この世界に私たち人間の「渇き」がある限り、主イエスはこれからも十字架におかかりなったお姿で「渇く」と叫び続けてくださるでしょう。

 

 と同時に、その「渇き」を癒すため、復活のキリストは私たちの前に現れて下さるでしょう。私たちの「渇き」の源を、命の泉の源とするために。よみがえりのキリストが来てくださるとき、私たちの内の荒れ地から、泉が湧き出でます(イザヤ書3557節)。私たちが“あるがまま”に自分自身の受け入れるとき、そこに命の泉は湧き出でています。私たちが自分を否定し、何か別の人間になろうとするときに実現されるのではなく、私たちがキリストを通して、神さまに創られた“あるがまま”の自分自身に立ち還るときに、それは実現されてゆきます。 

 

《イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。/しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」》(ヨハネによる福音書414節)

 

 

 

悲しみの道は喜びの道へ

 

十代から二十代前半にかけて、私はクリスチャンの歩みを重苦しく、悲しいものとばかり捉えていました。それはいま思えば、私なりに自分の十字架を背負って、十字架のキリストに従ってゆく歩みであったのかもしれません。しかし、私たちの人生とはそれで終わりなのではなく、さらにその先に、復活のキリストと結ばれることが約束されているのだ、ということをいまは信じています。復活のキリストに結ばれるとき、私たちの悲しみは喜びへと変えられてゆきます。「悲しみの道」は少しずつ、「喜びの道」へと変えられてゆきます。私はいまは、神さまは私たちが喜びをもって、幸せに生きてゆくことをこそ望んでくださっているのだと信じています。

 

どうぞ今日この日、よみがえられたキリストが、ここに集ったお一人お一人の存在を、祝福と喜びの言葉をもって満たしてくださいますように。