2015年4月2日「主の愛は低きところに」

 

201542日(木) 洗足木曜日礼拝  

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書13115

 

「主の愛は低きところに」

 

 

 

洗足という驚くべき行為

 

本日は、洗足木曜日礼拝をごいっしょにささげています。「洗足」とは、主イエスが十字架におかかりになる前に、弟子たちの足を洗ってくださった出来事のことを言います。教会によっては、礼拝の中で、実際に洗足を行う「洗足式」を行うところもあります。

 

 主イエスが生きておられた時代、人々は素足にサンダルを履いていました。道を歩くと足に土埃がついたことでしょう。イスラエルでは、家に招いたお客さんに足を洗うための水を差しだすことがもてなしの一つとなっていました。ただしその場合、客人はそれぞれ自分で足の洗って汚れを落としました。ローマ帝国では奴隷に客人の足を洗わすということが行われていたそうですが、イスラエルではそのような習慣は基本的にありませんでした。つまり、人に自分の足を「洗わせる」ということは考えられないことであったのです。

 

旧約聖書を読むと、イスラエルの人々がいかに「浄・不浄」にいかに鋭敏な感覚をもった人々であったかが伝わってきます。道の土埃にまみれた足は「ケガレ」の観念と結びついていたのかもしれません。

 

そのような中、主であり師である主イエスが自ら、弟子たちの足を洗い始めたのですから、弟子たちはびっくり仰天したことでしょう。弟子の代表であるシモン・ペトロは「自分の足など、決して洗わないでください」と、主イエスから体を離そうとしました。「自分の汚れた足など、洗わないでください」という気持ちであったのでしょう。

 

 

 

「私の足など、決して洗わないでください」

 

 ペトロが「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、主イエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられました8節)

 

 主イエスとの関わりにおいて、主イエスの前に足を差し出すことが大変重要である、ということが示されています。いったいなぜでしょうか。

 

 改めて、「足」という部分について少し考えてみたいと思います。皆さんは「足」という部分についてどのようなイメージを抱いていらっしゃるでしょうか。たとえば体の一番高いところにある「頭」と、一番低いところにある「足」とは、どちらがきれいであると思ってらっしゃるでしょうか。おそらく、ほぼ全員が、半ば無意識に「頭」のほうがどちらかと言うときれいと思ってらっしゃることと思います。

 

 しかし、主イエスはここで、「頭」や「手」ではなく、一番汚いとされていた「足」を洗ってくださいました。そこには、主イエスからの大切なメッセージが込められているのだと言わざるを得ません。

 

 

 

「あなたの罪をください」

 

「足」というのは、私たちが最も汚いと思っている部分、「隠したい」と思っている部分の象徴でもあると受け止めることができるでしょう。私たちが神さまの前には差し出したくない部分、できれば隠したいと思っている部分。しかし主イエスはその部分をこそ、御自分の前に差し出してほしいと願っておられるようです。

 

 それは、私たちを「罰する」ためではありません。そうではなく、私たちと「一つになる」ためです。主イエスと決して離されることなく、固く結ばれるためです。

 

 聖書を最初にラテン語に翻訳したヒエロニムスという人物がいます。45世紀の時代の人で、カトリックでは聖人とされている人物です。ヒエロニムスが訳した聖書は「ヴルガータ」と呼ばれ、20世紀に至るまでカトリック教会で最も権威のある翻訳とされてきました。ヒエロニムスがそのヴルガータを完成させた際の伝承として、次のようなエピソードがあります。

 

 エルサレムでの長年に渡る仕事を遂に成し遂げ、ヒエロニムスは神さまに祈りをささげるため、ベツレヘムに点在する洞窟に入りました。真夜中に主イエスが現れ、「ヒエロニムス、わたしの誕生日に何を贈ってくれるのか」と言われました。ヒエロニムスは情熱を込めて、「主よ、あなたのみ言葉の翻訳をおささげします」と叫びました。すると主は、「いやヒエロニムス、それはわたしが望むものではない」と答えられました。

 

《ヒエロニムスは言葉を失った。それから彼は、四十年間遠く家庭を離れ、神が望まなかったことのために働かせたのはなぜだったのか、と不平を言い、イエスに抗議し始めた。しかし、イエスは沈黙を守っておられた。ヒエロニムスは、イエスの誕生を祝う他の方法、断食、隠遁生活、貧しい人びとに財産をほどこすことなどを提案した。イエスはその一つひとつに、「いや、ヒエロニムス、それは私が最も望むことではない」と答えられた。/最後にヒエロニムスは、「では主よ、言ってください。あなたの誕生日に何がいちばん喜びとなるか言ってください。それをあなたに捧げます」と反抗した。/「ヒエロニムス、約束できるか?」/「はい、主よ、どんな物でも。」/イエスはお答えになった。「お前の罪をください……」》(ジョゼフ・ラングフォード『マザーテレサの秘められた炎』里見貞代訳、女子パウロ会、2011年 より)

 

 この伝承において、ヒエロニムスの前に現れた主イエスは、偉大な翻訳よりも、あなた自身の「罪」がほしい、とおっしゃいました。40年もかけて主のために翻訳したヴルガータ聖書こそ、最高の贈り物であると私たちは思います。体の部位で言うと、頭に飾られた光り輝く王冠のようなものです。しかし、それは主が一番お喜びになるものではなかった。そうではなく、その偉大な仕事の陰に隠れている、あなた自身の「罪」を差し出してほしいと主イエスはおっしゃいました。あなたが自分の中で最も「汚い」と思っている部分、「隠したい」と思っている部分こそが、主イエスにとって最上の贈り物となるのだ、と。

 

 

 

神さまの前から「遠ざかろう」とすること

 

この伝承が伝えているメッセージは、この度の洗足の出来事のメッセージと共通しているように思います。私たちに「足」を差し出すようにと求めてらっしゃる主イエス。それは言い換えると、私たちの内の「罪」をこそ、差し出してほしいと願ってらっしゃるということです。

 

 なぜ主イエスにとって、私たちの「罪」が最上の贈り物であるのか。それは、「罪」こそが、主イエスと「一つになる」ことを妨げているものであるからです(ジョゼフ・ラングフォード『マザーテレサの秘められた炎』)。ここでの「罪」とは、自分が実際になしてしまった過去の「過ち」だけではなく、自分自身の中にある「罪悪感」、「恥の意識」も含まれています。これら「罪」の意識の性質は、「遠ざかろう」とするということです。自分は「悪い」存在だ、自分は「ケガレた」存在だとみなし、神さまと自ら「距離をとろう」とする。この「罪」の意識こそ、私たちと主イエスとの間に「壁」を創りだしているものなのではないでしょうか。

 

 

 

「わたしの目にあなたは価高く、貴い」

 

 主イエスはそのような私たちのため、自ら身を低くし、私たちに近づいてくださいました。「壁」を打ち砕き、私たちの「足」を洗ってくださいました。

 

 私たちがなすべきことは、ただ、自分の「足」を差し出すこと。「わたしの足など、決して洗わないでください」と言って体を「遠ざけよう」とするのではなく、勇気をもって、自分の「足」を差し出すこと。急いで「足」をきれいにする必要はなく、そのまま、主イエスの前に自分の足をゆだねること。そのとき、主イエスはこの私たちの「足」を最上の贈り物として受け取って下さり、そして、私たちの「足」を、いのちの水で洗ってくださいます。そのとき、もはや私たちの「足」は「悪い」ものでも「ケガレた」ものでもなくなるでしょう。神さまの目から見て、「極めて善く」「美しい」ものとされているでしょう。それが、神さまから見た、私たちの本来の姿です。

 

「足」が「ケガレて」いるというのは、私たちの誤解でありました。「神さまの目から見て、あなたという存在は、値高く、貴い」(イザヤ書434節)。これが、主イエスが私たちに伝えて下さっている真実です。「頭」も「足」も全部ひっくるめて、“あるがまま”のあなたを、神さまは愛して下さっています。

 

 

 

私たちが神さまと「一つになる」ために

 

主イエスは、弟子たちの足を洗われた後、上着を着て、再び席に着いておっしゃいました。《わたしがあなたがたにしたことが分かるか》12節)

 

弟子たちはその場では、主イエスがなされたことの意味を理解することができませんでした。弟子たちがこの足を洗う行為に込められた主イエスのメッセージを理解したのは、主イエスの十字架の出来事を通してでした。弟子たちがはっきりと理解したこと、それは、この洗足の出来事と、主の十字架の出来事はつながっているものあった、ということでした。洗足の出来事は、十字架の出来事の意味を指し示しています。

 

 主イエスの十字架は、私たちの「罪」を洗い落とし、私たちが神さまと「一つになる」ためになされた出来事でありました。極みまで「低い」場所にまで来てくださり、私たちと「一つになって」くださった。私たちの内の「暗い」部分まで来てくださり、そこに十字架を打ち立てて下さった。私たちがどのような過ちを犯したとしても、どのような人間になったとしても、私たちは神さまと「一つ」であり、決して離れることがない、ということを知らせてくださいました。その約束のしるしが、主の十字架です。

 

私たちが隠したい、消し去りたいと思っている「暗い」部分、そこにこそ、十字架の主は共におられます。私たちうめき、叫び、苦しむその場所にこそ、十字架の主イエスはいてくださり、共に苦しみ続けて下さっています。

 

十字架が立っているその場所から、いのちの泉は湧き出ています。主イエスはそのいのちの水によって、私たちの洗って新しくしてくださいました。いま、私たちは皆、神さまの子どもとされています。「ケガレた」存在ではなく、一人ひとりが神さまの目から見て「値高く、貴いもの」として、いまここに集められています。

 

《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(ヨハネによる福音書316節)

 

主の洗足と十字架を覚える今日、主イエスによって示された神さまの愛を、ごいっしょに受け入れたいと思います。