2015年4月26日「山上の変貌」

 

2015426日 聖書箇所:マルコによる福音書9213

 

「山上の変貌」

 

 

山上の変貌

 

本日の聖書箇所は、教会で伝統的に「山上の変貌(変容)」と呼ばれている場面です。イエス・キリストがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちと共に高い山に登られた際、主イエスのお姿が変わり真っ白に光り輝いた、という場面です。正教会では、この出来事はクリスマスやペンテコステと共に祭日の一つとして祝われています。

 

主イエスが弟子たちと共に登られた「高い山」がどの山であるのかははっきりとは分かりませんが、伝統的には「タボル山」とされてきました。パレスチナにある標高588メートルのおわん型の山です。

 

山の上で、主イエスのお姿が弟子たちの目の前で変わり、《服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった》と福音書は記します。主イエスの服が真っ白に光り輝いた、というのですね。また、その輝きの中で、《エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた》とも記されます。モーセとエリヤというのは、旧約聖書を代表する人物です。

 

この不思議な出来事を目撃したペトロたちは非常に恐れを感じた、と福音書は記します。その反応は当然といえば当然でありましょう。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がしました。《これはわたしの愛する子。これに聞け》。弟子たちは急いで辺りを見回しましたが誰も見えず、ただ主イエスだけが彼らと一緒におられました。そこには、いつも通りの主イエスがおられました。

 

 改めて、マルコによる福音書928節をお読みいたします。《六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、/服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。/エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。/ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」/ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。/すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。/弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた》。

 

 

 

すべてを内包する「白い光」

 

 弟子たちが経験したこの出来事は一種の「神秘体験」が記されているということができますが、この不思議な出来事はいったいどのような意味をもっているのでしょうか。

 

まず、主イエスの服が真っ白に輝いたことに注目してみたいと思います。ここでは、主イエスから発されている光が、「白い光」であったことが強調されています。その際立った白さは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどの白さであったと福音書は記します。

 

「白」という言葉を聞いて、皆さんはどのようなイメージを想い浮かべるでしょうか。白にはたとえば「清潔」というイメージがあるかもしれません。または岩手の雪景色を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。

 

 白色は、絵具の中ではさまざまな色の中の一つですが、光としての白色はそうではありません。すべての色彩を含んでいるのが光の白さです。たとえばプリズムに太陽の光を通すと、壁に虹のようなものが映ります。壁に映った色彩をじっと見つめてみると、それは七色に限らず無数の色彩から成り立っているのが分かります。白い光は、無数の色彩が集まって作られているものです。

 

 主イエスから発されていた白い光というのは、そのような、すべての色彩を内包している光であるのだと私は受け止めています。それぞれの色彩が保たれながら、同時にそれらが「一つ」に結び合わされ光が形成されている状態。この白い光は普段は私たちの目には見えませんが、いつも私たちを照らして下さっているのだと私は信じています。この光に照らされ、私たちは一人ひとり、かけがえのない存在とされています。

 

 

 

光が発する“声” ~存在性の確保

 

 白い光に照らされながら、弟子たちは、《これはわたしの愛する子。これに聞け》という神さまご自身の声を聴きました。光を放つ主イエスは「神の子」であるということが、神さまご自身からここで宣言されています。そして、この「神の子」の言葉に耳を傾けよ、と促されています。

 

 イエス・キリストの光が発する“声”を私なりに言葉にすると、次のようになります。

 

「存在したものが、あたかも存在しなかったかのように、されてしまうことが、ないように。

 すべての存在が、そのものとして存在し、かつ、これからも存在し続けるように。

 存在が、あたかもはじめから存在しなかったかのようにされることが、決して、ないように」――。

 

 これがイエス・キリストの祈りであると私は感じています。この祈りに基づいて、主イエスは私たちのもとへ来てくださいました。私たち一人ひとりの存在が決して失われることがないように、誰一人欠けることがないようにするために。

 

一つひとつの色が、そのものとして居場所を与えられたとき、そこには輝く白色が発生します。そのように、私たち一人ひとりの存在が確保され、「神の国」が生じるようにと主イエスは願ってくださいました。

 

 

 

神の国 

 

「神の国」とは、言い換えますと、まさに「白い光が輝く場所」ということができるでしょう。一人ひとりの存在のかけがえのなさが確保され、同時に「一つ」に結び合わされている場所です。一つひとつの色彩がはっきりと保たれつつ、それが「一つ」に結び合わされて白い光が生じるように。

 

その「神の国」の実現を目指して、主イエスは働いてくださいました。社会から存在を見えなくされている人々のところに自ら赴き、その人々を見出してくださいました。そうして、そのご生涯の最期に、十字架のおかかりになり、三日目に復活してくださいました。それは私たちの内誰一人、決して失われてしまうことがないためです。イエス・キリストから発されるこの光に照らされた私たち一人ひとりに、神さまからの「尊厳」の光がともされています。

 

ペトロたちが経験したような「神秘体験」をすることは私たちにはないかもしれません。しかし、ふとした瞬間、自分自身や隣にいる人がいとおしく感じる瞬間というのはあることと思います。目に映る一つひとつの存在が何かキラキラと光り輝いて見える瞬間というのがあることと思います。そのとき、私たちはキリストの光に包まれています。私たちの外に、私たちの内に、いつもこの光は満ちています。私たちが見ようとしていないだけで、この光はいつも私たちを包んでいます。

 

 

 

「いること」こそが何にもまして素晴らしいこと

 

一つの詩をご紹介したいと思います。まど・みちおさんの「ぼくが ここに」という詩です。

 

《ぼくが ここに いるとき

  ほかの どんなものも

  ぼくに かさなって

  ここに いることは できない

 

もしも ゾウが ここに いるならば

そのゾウだけ

マメが いるならば

その一つぶの マメだけ

しか ここに いることは できない

 

ああ このちきゅうの うえでは

こんなに だいじに

まもられているのだ

どんなものが どんなところに

いるときにも

 

その「いること」こそが

なににも まして

すばらしいこと として》

 

 まど・みちおさんが表現するこれら世界に、私はイエス・キリストの光に通じるものを感じています。一つひとつの存在が大いなる力によって守られ、尊ばれているということをまどさんは表現します。一つひとつの存在の輝きをまどさんは表現します。ここにおいては、「いること」こそが、何にもまして素晴らしいことと宣言されます。

 

 

 

「なかったかのようにする力」に抗して

 

 一方で、私たちの生きる世界には、「存在を、あたかも存在していないかのように」してしまう力が依然として働いています。色彩で言うと、ある色とある色を無理やり混ぜ合わせて別の色を作とうとするような力です。または、ある一つの色にすべての色を無理やり統一させようとするような力です。そのとき生じるのは「白」ではなく、濁った「黒色」です。私たち一人ひとりの存在のかけがえのなさを奪おうとする力を、聖書は「悪霊」や「サタン」という名で呼びました。私たちの内にまた外に、「あたかも存在していないかのようにする力」というものは働いています。私たちの社会を見渡しても、このような力が働いていることのいかに多いことでしょうか。

 

私たちはこの「なかったかのようにする力」に対しては、はっきりと「否」を突き付けてゆかねばなりません。この力は気が付くと私たちを取り込み、私たちをまどろみの中に入れようとします。私たちはこの力に取り込まれることなく、はっきりと目を覚ましていなければなりません。私たちにその力を与えてくれる源が、イエス・キリストの光です。 目には見えなくても、その光はいつも私たちと共にあります。

 

「存在が、あたかもはじめから存在しなかったかのようにされることが、決して、ないように」――。

 

主イエスはかつてガリラヤの地で、この祈りをささげてくださいました。私たちがいまだまどろみの中にいるときも、主イエスは一人目覚め、この祈りをささげ続けてくださいました。かつてガリラヤでささげられたこの祈りは、いまもこの世界に満ち満ちています。

 

私たちはいまこそ、主イエスのこの祈りを私たち自身の祈りとしてゆきたいと思います。 どうぞ、私たちが一人ひとりの存在に神さまからの尊厳の光を見出してゆくことができますように。互いをかけがえのない存在として、大切にしあってゆくことができますようにと願います。