2015年4月5日「共におられる、インマヌエルの主」

 201545日イースター礼拝・教会学校と合同

聖書箇所:マタイによる福音書281620


「共におられる、インマヌエルの主」


 


イースター


本日はイースターです。イエスさまが復活されたことを喜ぶ日です。イエスさまは十字架の上で亡くなられ、暗い墓に葬られ、そして三日目に復活されました。教会はこの2000年間、そのことを最も大切なこととして信じてきました。


イエスさまが復活された、ということは過去に起こった出来事であるだけではありません。イエスさまが復活されたということは、いま、私たちと復活されたイエスさまが共にいてくださっている、ということです。


 


インマヌエル ~神は私たちと主におられる


「インマヌエル」という言葉があります。ヘブライ語で、「神は私たちと共におられる」という意味です。聖書は、この「インマヌエル」が、イエスさまのもう一つの名前であることを語っています。


イエスさまの誕生の予告された場面に、この名前が出て来ます。マタイによる福音書123節《「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」/この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。/ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、/男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた》。


イエスさまにもしもミドルネームをつけるとしたら、「イエス・インマヌエル・キリスト」ということができるかもしれません。イエスさまがこの世界に誕生してくださったのは、「インマヌエル」を実現するためであった、と受け止めることができます。


 先ほどお読みしました聖書の箇所は、復活されたイエスさまがお弟子さんたちの前に現れる場面です。お弟子さんたちは、イエスさまが先に行って待ってくださっている山に登り、そこでイエスさまと再会しました。復活されたイエスさまはお弟子さんたちに向けて、《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》とおっしゃってくださいました。そう、「インマヌエル」ですね。この言葉によって、マタイによる福音書は締めくくられます。つまり、マタイによる福音書は、その始めと終わりが、「インマヌエル」という言葉で囲まれているのですね。《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》。これがマタイによる福音書が私たちに伝えている最も大切なメッセージです。


 


いつも私の隣に


 お弟子さんたちはその後、迫害を受けたり、さまざまな困難に直面してゆくことになります。キリスト教徒であることを理由に、攻撃されたり、差別を受けたりしたこともあったでしょう。怖い想い、辛い想いをしたこともたくさんあったと思います。そのような中、お弟子さんたちは、この「インマヌエル」という言葉を想い起こし、勇気をもらったのではないかと思います。どんなときも、イエスさまは共にいてくださる。そう思うと、少しずつ、元気を取り戻していったことでしょう。


 暗い道を一人で歩いて行ったら怖いけれど、隣に誰かがいてくれたら、不思議と怖さは減って行きますね。イエスさまはいつも私たちの隣にいてくださり、いっしょに歩いていてくださいます。そうして私たちに勇気を与えて下さいます。家の中で、学校で、職場で。楽しい時も、悲しい時も、嬉しい時も、苦しい時も。命ある時も、またこの命が終わる時も――。


 


死の陰の谷を行くときも


旧約聖書の詩編23の中に、よく知られた次の一節があります。《死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる》(詩編234節)


たとえ死の陰の谷を行くときも、私は恐れない。なぜなら、インマヌエルなる主が共にいてくださるから。この命が終わる時も、その先も、イエスさまは共にいてくださるでしょう。


 


「私の目にあなたは価高く、貴い」


イエスさまがいっしょにいて下さるから、問題のすべてが解決するというわけではありません。またすぐに私たちの人生に、この世界に、苦しみや悲しみがなくなるわけでもありません。私たちはやはり苦しい出来事、悲しい出来事に出会ってゆくかもしません。壁にぶつかるような想いをすることもあるでしょう。イエスさまは私たちに代わって私たちの人生を生きて下さるわけではないからです。私たちはそれぞれ、自分の足で、自分の人生を歩んでゆかねばなりません。しかし、その私たちの人生を、共に、イエスさまは歩んでくださっています。


それは、私たち一人ひとりを、イエスさまが、かけがえなく尊い存在として見つめて下さっているからでしょう。だからこそ、私たちの隣にいつもいてくださるのです。


《わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している》。そう神さまが私たちに語りかけて下さっているので、私たちはもはや絶望をすることはない、ということを知らされています。たとえなかなか希望をもてない現実があったとしても、私たちは、決して絶望することはありません。


 


すべての日々において


《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》という言葉は、マタイによる福音書の原文により忠実に訳すと、「わたしは世の終わりまで、すべての日々において、あなたがたと共にいる」となります。「すべての日々において」、よみがえられたイエスさまは私たちと共にいてくださる。雨の日も、晴れの日も。嬉しい日も、悲しい日も。自分では、こんな日などなかったらよかったと思うような日にも。


病いによってずっと横になっていた日にも、横に私のそばに、イエスさまはいてくださる。涙を流して過ごした日も、イエスさまはいっしょに涙を流していてくださる。イエスさまが共にいてくださっていた日々に、無駄な日など一日もありません。そして、イエスさまが共にいてくださる人生に、無意味な人生というのも存在しません。一人ひとりの人生はそれぞれ、神さまの目から見て、かけがえのないものであると信じています。


 


インマヌエルなる主の愛を


本日の礼拝ではこの後、洗礼式が行われます。一人の姉妹を、神さまが生まれる前から愛して下さり、その人生を今日という日まで共に歩んできてくださいました。そのことを神さまに感謝しつつ、姉妹とイエスさまが固く結ばれることのしるしを、ごいっしょに喜びたいと思います。


イースターのこの日、ここに集ったお一人お一人が、インマヌエルなる主の愛を心に刻むことができますように。


《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》。