2015年5月10日「この小さき者を受け入れる者は」

2015510日 聖書箇所:マルコによる福音書93037

 

この小さき者を受け入れる者は

 

 

 

だれがいちばん偉いか

 

本日の聖書箇所には、弟子たちが「だれがいちばん偉いか」を議論している場面が出て来ます。それに対する主イエスの答えは、《いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい》というものでした(35節)。いちばん偉くなりたい者は、むしろ奴隷や召使のように、すべての人に仕える者になりなさい。主イエスのこの答えは、弟子たちを唖然とさせたことでしょう。

 

福音書に記されるイエス・キリストの言葉にはこのように、私たちの常識や価値観をひっくり返すような言葉が出て来ます。主イエスは弟子たちに向かって、僕のように人々に仕える者が、むしろ、もっとも大いなる者なのだ、とおっしゃいました。

 

 この場面を読んで、宮沢賢治さんの童話『どんぐりと山猫』を思い浮かべた方もいらっしゃるかもしれません。『どんぐりと山猫』には、どんぐりが「だれがいちばん偉いか」を争う裁判の様子がユーモラスに描かれています。「頭のとがっているのがいちばんえらい」「いや、まるいのがいちばんえらい」「いやいや、大きいのがいちばんえらい」「そうじゃない、せいの高いのがいちばんえらい」など、どんぐりたちは互いに主張し合ってゆずらず、裁判は収拾がつかない状態です。

 

主人公の少年の一郎は、裁判官の山猫に、《このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい》と言うことをアドバイスします。それ受けて山猫が、《このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ》と申し渡しをすると、どんぐりたちは「しいん」と静かになり、かたまってしまいます(『注文の多い料理店』角川文庫)。

 

 賢治さん自身は、この童話の解説として、次の一文を付しています。《必ず比較をされなければならないいまの学童たちの内奥からの反響です》。

 

 この童話が書かれたのはいまから90年以上前ですが、当時も子どもたちは「比較をされる」という状況にさらされていたことが分かります。子どもたちが絶えず比較にさられているのは、90年前も現在も同様であったのですね。『どんぐりと山猫』に記される判決の言葉は、「互いを比較し合う」ということ自体への皮肉、否定であるということができます。たとえば学校のテストの結果の優劣というのは、子どもたちの価値を決定する本質的なものではない、ということ。主人公の一郎の言葉は、大人たちが形づくる社会の常識や価値観をひっくり返そうとするものです。ただし直接的に「比較し合うことは無意味だ」と語るのではなく、「いちばんかたちがなっていないものがいちばんえらい」と申し渡しをして、場の空気を一変させるところに面白さがあります。

 

 

 

「仕える者となりなさい」

 

 賢治さんは法華経の法話からこの童話のヒントを得たのかもしれませんが、本日の聖書箇所ともどこか通ずるものがあるように思います。弟子たちは「だれがいちばん偉いか」と議論していましたが、主イエスの言葉は弟子たちの常識や価値観をひっくり返すものでした。

 

当時のイスラエル社会にとって、どのような人が権威のある人とされていたでしょうか。たとえば政治的に高い地位にある人が権威のある人とされていたでしょう。また宗教的に高い地位にある祭司や律法学者たちが権威のある人々とされていたでしょう。

 

中でも当時もっとも権威ある存在とされていたのは、ローマ皇帝であったでしょう。当時、イスラエルはローマ帝国に従属する立場にありました。圧倒的な権威をもっていたのがローマ皇帝でした。本日の聖書箇所では弟子たちが「だれがいちばん偉いか」を議論していますが、当時の人々の心にあった率直な想いは、「ローマ皇帝がいちばん偉い」というものであったのではないでしょうか。イスラエルの人々にとってみれば屈辱的な状況であったと思いますが、それが当時のイスラエルの現実でありました。

 

そのような中、弟子たちは主イエスに、この屈辱的な状況からイスラエルを解放する、政治的な救い主の役割を切望していました。ローマの軍勢をも従わせる、大いなる力をもった救い主の役割を期待していたのです。

 

しかし、その弟子たちに対して、主イエスは「すべての人に僕のように仕える者となりなさい」とおっしゃったのですから、弟子たちの困惑はいかばかりのものであったでしょうか。奴隷や召使のように「仕える者」であっては、あのローマ帝国に立ち向かうことなどできないではないか。『どんぐりと山猫』のどんぐりたちのように、弟子たちは「しいん」と静かになり、かたまってしまったのではないでしょうか。

 

 

 

十字架の死の予告

 

本日の聖書箇所の前半部では、主イエスはさらに弟子たちを凍りつかせるようなことをおっしゃっています。3032節を改めてお読みいたします。《一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。/それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。/弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった》。

 

主イエスは弟子たちに、これからご自分が「人々の手に引き渡され、殺される」ということを予告されました。そうして「殺されて三日の後に復活する」ということを予告されました。この言葉はまさに場の空気を凍りつかせたことでしょう。

 

先ほど述べましたように、弟子たちは主イエスに政治的な救い主の役割を期待していました。それが、「人々の手に引き渡され、殺される」というのですから、意味が理解できず恐れ感じるのも当然といえば当然であったでしょう。救い主が捕えられ殺されてしまっては、一巻の終わりであるからです。

 

 弟子たちは主イエスの真意を理解することができず、ただただ困惑するばかりでした。

 

 

 

神の国の権威

 

主イエスが弟子たちに教えようとされていたのは、まったく新しい「権威」の在り方でした。それは、「神の国の権威」の在り方です。

 

それまでの価値観においては、権威とは、たとえば大勢の軍勢を従え、鎧と宝石で身を包んだ権力者たちのうちにあるものでした。しかしまことの権威はそこにあるのではない。神の国の権威は、十字架刑という悲惨な殺され方をする救い主のうちにある。そこに、神は共におられるのだということがここで宣言されています。

 

 神の国の権威とは、どこか高いところにあるのではなく、もっとも「低い」ところにある。もっとも「低き」ところから私たちを支えて下さっているのが、神の国の権威です。その神の国の力を私たちの目にはっきりと示してくださったのがイエス・キリストその方です。

 

 

 

もっとも「低き」ところから

 

 イエス・キリストの十字架は、私たちのまなざしの向きを方向転換させます。高いところをばかり懸命に見ようとしているわたしたちのまなざしを、むしろ、低いところを見つめるようにと促します。私たちを根底から支えてくださっている力を見つめるようにと促します。

 

何か私たちがステップアップして、高い地点に行けば、私たちは神さまに受け入れていただけるのではない。そうではなく、いまこの瞬間、神さまは私たちを“あるがまま”に受け入れてくださっている。もっとも低きところから、私たちの存在を支え、私たちを生かして下さっている。それがこの世界のまことの現実です。

 

そうであるなら、もはや私たちは「だれがいちばんえらいか」と互いに議論する必要はなくなります。「互いを比較し合う」必要はなくなるでしょう。

 

 

 

“あるがまま”に

 

 本日の聖書箇所では、主イエスは次のような象徴的な振る舞いをなされました。そこにいた一人の子どもの手をとって弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げられたのです。そうしておっしゃいました。《わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである》(37節)。

 

 当時の子どもの地位というものは「低い」ものであったようです。子どもはいつか成長して大人になるからこそ価値がある存在なのであり、子どもであること自体には特別な意味は見いだされていなかった。いつか大人になって役に立つ人間になる可能性を秘めているので、子どもは大切だ、という考えですね。

 

 しかし主イエスはそのような考えをもってこの幼な子を抱きしめておられるのではありません。いつか立派な大人になるからとか、将来有望な子どもであるからなどということは一切関係なしに、この幼な子を“あるがまま”に受けとめ、慈しんでくださったのだと思います。条件つきにではなく、無条件に、この子どもを受けとめて下さっています。

 

私たちもまた、そのように互いを受けとめあってゆくようにと主イエスは招いてくださっています。私たちがそのように互いをそのままに受け入れることが、主イエスを受け入れることであり、そして神さまを受け入れることにつながっているのだとおっしゃいます。

 

 

 

神の国の「土」に根ざして

 

もちろん、子どもは成長してゆくことも大切です。子どもの成長を願うのもまた大人の役割です。ただし、子どもたちが活き活きと成長してゆくためには、神の国のこのまなざしが必要不可欠です。神の国は、植物で言うと「土」に当たる部分ということができます。植物は土にしっかりと根をはり、土に支えられ育まれるからこそ、成長できます。そのように、子どもたちも神の国という「土」にしっかりと根ざしてこそ、活き活きと成長してゆけるのだと思います。私たちは神さまの無条件の愛に支えられ育まれてこそ、より自分らしい自分へと、自ら成長してゆくことができます。

 

主イエスは私たちに語りかけて下さっています。「あなたがいま・ここに、居ることこそが尊い。あなたが存在していることそのことが、何よりの価値である」と。

 

神さまが私たちを“あるがまま”に受け入れて下さっているように、私たちが互いを受け入れあうとき、そこに神の国は少しずつ実現されてゆきます。私たちはいま、この神の国の「土」の匂いと手触りを私たちの間に取り戻してゆくことが求められているように思います。

 

 

 

解放と救いへと導くまことの権威

 

この神の国の福音の力は、一見、私たちの目には無力なものに映るかもしれません。もっと権威があり力があるものがこの世界に他にもいろいろあると思うかもしれません。しかし、この神の国の力こそもっとも大いなる力であり、私たち人間を解放と救いへと導いてゆくまことの権威です。経済力でもなく軍事力でもなく、神の国の力こそがこの社会の在り方を根底から変えてゆく力です。たとえ長い時間はかかっても、それこそが私たちにとっての生きる力となり支えとなってゆくでしょう。

 

主イエスは、福音を否定しようとする働きに対しては、はっきりと「否」を突きつけられました。他者の尊厳をないがしろにする働きに対して、私たちもまた、はっきりと「否」を言わねばなりません。

 

私たちよりもさらに「低き」ところ、そこにイエス・キリストはいつも共におられます。福音の力に信頼し、そこに私たちの全身をゆだね、ごいっしょに歩んでゆきたいと願います。