2015年5月17日「わたしたちの味方」

2015517日 聖書箇所:マルコによる福音書93841


わたしたちの味方


 

主イエスとヨハネの会話


 本日の聖書箇所には、イエス・キリストと弟子のヨハネとの会話が記されています。ヨハネは主イエスに言いました。《先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました(マルコによる福音書938節)


当時、弟子たちのグループとはまた別に、キリストの名よって悪霊を追い出していた人々がいたようです。その人々がどのようなグループであったかはっきりとしたことは分かりませんが、ヨハネは彼らに対し、自分たちのグループに加わるようにと促したようです。ヨハネたちは主イエスご自身によって弟子へと召されたのであり、自分たちこそが「選ばれた者たち」であると思ってしまうのも、分からないことではありません。ヨハネたちは、自分たちのグループにその人々が加わらないのだとしたら、キリストの名によって悪霊を追い出すことを止めるようにと迫ったようです。


 ヨハネに対する主イエスの応答は次のようでした。《やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。/わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである3940節)


 主イエスのお返事というのはヨハネたちとは対照的なものでした。主イエスはご自分の弟子たちのグループの他に、キリストの名によって活動するグループが存在することを受け入れておられたのです。「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」。実際、それら別のグループの人々はとくに弟子たちに反対したり、悪口を言っていたわけではなかったのでしょう。そうして主イエスはおっしゃいます、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。


 


私たちの味方


「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。この主イエスの言葉は、私たちにはどのように聞こえるでしょうか。「その通りだ」と思う気持ちと、また一方で、「そうかなあ?」と疑問に思う気持ちも生じてしまうかもしれません。


私たちは普段、「自分たちに賛成してくれる人が、自分たちの味方だ」という意識でいることが多いのではないかと思います。またそれは、「私たちに賛成してくれない人は、私たちの敵だ」という考えにもつながります。


そのようにして、私たちは半ば慣習的に他者を「敵」や「味方」に区分けすることをしてしまっていることが多いものです。それは個人においてもそうですし、集団同士においてもそうです。グループ同士が互いを「敵」「味方」に区別し合うというのは、大昔から数限りなく起こって来たことです。


もし「自分たちに賛成してくれない人は、私たちの敵だ」としたら、周囲のほとんどのグループは「敵」であるということになってしまいます。自分の意見に手放しに賛同してくれる人というのは必ずしも多くはないからです。


ヨハネたちもまたおそらく、そのような意識でいたのでしょう。自分たちのグループに賛同して加わろうとしなかった人々のことを「敵」だと見做してしまっていたようです。


そのような弟子たちに対し、主イエスは、「私たちに反対しない人は、私たちの味方だ」とおっしゃいました。自分たちに反対しない人のことは、自分たちの「仲間」と思いなさい、とおっしゃったのです。周りは「敵」だらけだと思い込んでしまっている弟子たちに対し、主イエスはここで、一つの視点の転換を提示して下さいました。


 


自分たちは特別な存在だという意識


 自分たち以外のグループを「敵」だとして受け入れることができない弟子たちの姿勢には、自分たちこそが「選ばれた者」であるという意識が関わっていたように思います。自分たちこそが主イエスによって選ばれた特別な人間なのだ、という意識ですね。周囲を「敵」と見なしてしまう考えの背景には、この「特別であろうとする意識」が関わっていることがあります。


 弟子たちはキリストの名によって活動している別のグループを自分たちの「仲間」だとは思えなかった。それは、自分たちこそが特別な存在だ、と思っていたからではないでしょうか。自分たち以外に、キリストの名によって活動するグループが存在することを受け入れることができなかった。


 


キリストの名


 本日は何度も「キリストの名」ということを申しましたが、いったいこれはそもそもどういう意味でしょうか。「名は体を表す」という言葉もありますが、当時のパレスチナにおいては、「名前はその人の本質を表す」という考えがありました。キリストの名を用いるということは、キリスト御自身の権威をもってそうする、ということを意味していたのですね。


 では、主イエスのこの権威はどこから生じているものあったでしょうか。それは、「神の国」の権威によります。  主イエスはかつてガリラヤでこう宣言されました。《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》115節)。主イエスご自身が宣言されこの「神の国」に、主イエスの権威は基づいています。


ここでの「神の国」とは、「私たち一人ひとりに、神さまからの尊厳が与えられている場」のことが言われています。一人ひとりがかけがえのない存在として守られ、その生命と尊厳が大切にされる場が、神の国です。主イエスはこの神の国の福音に私たちの「心の向きを変える」ことを呼びかけておられます。


主イエスのみ名によって働くとは、この神の国の福音に基づいて働く、ということです。もし私たちが自分たちだけを「特別な存在」とみなし、他者の存在を軽んじてしまっているのだとしたら、私たちはもはやキリストの名によって働いてはいない、ということになります。


 


一人ひとりが、かけがなく貴い


 旧約聖書のイザヤ書に「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」という神さまの言葉があります。神さまの目から見て、イスラエルがいかに「かけがえなく、貴いか」ということが語られている言葉です。かつてイスラエルに向けて語られたこの言葉は、いまイエス・キリストを通して、私たち一人ひとりに語りかけられています。主イエスは私たち一人ひとりを“あるがまま”に受け入れ、愛して下さいました。これが、神の国の福音の言葉です。


神さまの目から見て、「私」という存在がかけがえなく貴い、ということ。その意味で、「私」という存在は、確かに「特別」です。その特別さ、その素晴らしさはどれほど強調してもし過ぎになることはないでしょう。それは他者との比較における「特別さ」ではなくて、他者とは比較できない、そのかけがえのなさにおける「特別さ」です。


自分がそのように神さまの目に価高く貴いように、自分の隣り人もまた神さまの目に貴い存在である。神の国の福音は私たちがまた、そのように考えてゆくようにと促してゆきます。一人ひとりが、神さまの目から見てかけがえなく貴い存在である。一人ひとりに神さまからの尊厳の光がともされている、それが神の国の福音です。


 


神に愛された「仲間」として


 キリストの名において私たちに求められている態度とは、他者を「敵」「味方」に分けるのではなく、他者を神に愛された「仲間」として受け入れ、尊重してゆくことでしょう。


新約聖書のヨハネの手紙一にはこのような言葉もあります。《「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。/神を愛する人は、兄弟をも愛するべきです。これが、神から受けた掟です(ヨハネの手紙一42021節)


 もちろん、私たちはすべての人を同じように好意を抱くということはできません。この人は苦手だなあと感じる人もいるでしょう。どうしても意見が合わずに落ち込んでしまうこともあるでしょう。そのような感情を無理に消せとここで言われているのではないでしょう。たとえ心のうちでそのような感情を抱いてしまっているとしても、その人もまた、神に愛されキリストに受け入れられている人間であるのだから、敬意をもって接し続けるということが大切となります。


 


主が受け入れて下さっているように


 主イエスは本日の聖書箇所の締めくくりに、次のようにおっしゃっています。《はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける41節)


 一杯の水というのは、当時のパレスチナでは貴重なものでした。当時はもちろん水道はありません。水を差し出すという行為に、相手を「仲間」として受け入れている気持ちが現れ出ています。マタイによる福音書ではさらにこの言葉がより詳しく、「冷たい一杯の水」と記されています(マタイによる福音書10章42節)。差し出すその一杯の水はよく冷やされた水である、というのですね。


水を冷やすというのは、当時は手間と時間のかかる作業であったようです。新約聖書が記された時代はもちろん冷蔵庫はありません。


朝水をくみ、大きな素焼きの瓶にいっぱいにしておくと、だんだんと外の熱によって蒸発してゆきます。その気化熱で瓶の中の水が冷えてゆくそうですが、その分水の量は少なくなっても行きます。当時のパレスチナでは、冷えた水というのは貴重なものであったそうです(参照:荒井 献・本田哲郎・高橋哲哉『3・11以後とキリスト教』56-57頁)その貴重な、冷えた水を差し出すという行為になかに、相手に対する思いやり、敬意がにじみ出ています。


 そのように、いま目の前にいる人を主に愛された「仲間」として受け入れ、敬意をもってていねいに接すること。主が私たちを受け入れてくださっているように、私たちもまた互いを受け入れ合ってゆくこと。私たちがそのように振る舞う時、そこに神の国は実現され、キリストの名が輝き出てゆきます。


 もちろん、わたしたちはいつもそのように振る舞えるわけではありません。気が付くと誰かを「敵」と「味方」に区別してしまっている私たちです。ケンカを繰り返し、他者を軽んじてしまっている私たちです。だからこそ絶えずイエス・キリストの言葉に立ち還り、私たちのまなざしを向け変えていただく必要があるのでしょう。


 


神さまからの尊厳の光


 私たちはそれぞれ違いがあり、さまざまな意見をもっています。一致点を見いだすのがなかなか難しいこともあるでしょう。そのように異なる私たちですが、「主に愛された一人である」という点においては、私たちは完全に一致しています。信条を超え、民族を超え、宗教をも超え、私たちはその点において、一致しています。だからこそ、私たちは「他者を大切にしなければならない」という点において、一致しています。


私たちが互いに尊厳を見出し、それが守られることを第一とすること。人間として当たり前と言えば当たり前のそのことを、私たちはいま一度見つめ直してゆくことが求められているのではないでしょうか。その尊厳の光は、他ならぬ神さまご自身から、与えられている光です。この光はいま、キリストの名において、私たち一人ひとりにともされています。


この神さまからの尊厳の光に私たちのまなざしを注ぎ、これを大切に守り抜いてゆくことができますようにと願っています。