2015年5月3日「祈りによらなければ」

201553日 聖書箇所:マルコによる福音書91429


「祈りによらなければ」



「悪霊」に取りつかれた少年とその父親


本日の聖書箇所には、「悪霊」に取りつかれた少年とその父親が登場します。イエス・キリストが「出て行け」と命じると悪霊は叫び声を上げて出て行きます。本日の物語を読んで、映画の『エクソシスト』を思い浮かべた方もいらっしゃるかもしれません。いわゆる「悪霊祓い」というのは今日のキリスト教会、特にプロテスタント教会ではあまり見られなくなりましたが、古代の教会では一般的なものであったようです。


古代世界において、「悪霊」に取りつかれているとみなされた症状の多くは、現代の医学的な見地からすると、何らかの病名をつけることができるものであったでしょう。たとえば、本日の物語の「悪霊」に取りつかれた少年の症状は、「てんかん」の発作の症状に似ていると指摘されています。繰り返して起こる突然の発作の症状を、周囲の人々が戸惑って「悪霊の仕業だ」と思ったとしても不思議ではありません。


ただし、聖書に出て来る「悪霊払い」のエピソードには、現代の科学や医学的な見地からしても、説明が難しい部分があります。聖書に出て来る「悪霊」がどのような存在であるかをはっきりと解明することは難しいですが、取りついた人にどのような否定的な作用をもたらしているか、ということは読み取れると思います。


この度の「悪霊」は、《ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊》と呼ばれます25節)。この悪霊は、取りついた人に何も言えなくさせる、耳を聞こえなくさせようとする。それは言い換えますと、「その人の主体性を奪う力」であるということができるでしょう。私たちの主体性を奪い、私たちを支配しようとしている何らかの否定的な力として、本日は「悪霊」というものの存在を受け止めてみたいと思います。


 


悪霊 ~主体性を奪おうとする力


本日の物語のように極端なかたちでなくとも、「主体性を奪おうとする力」というのは、私たちも日々の生活でも経験することであると思います。私たちが本当の心の声を押し込め、黙っていることを強制される状態にあるとき、私たちは何らかの「主体性を奪う力」に支配されているということもできるでしょう。その力は外からやってくることもありますし、また私たち自身の内からやってきていることもあります。自分を押し殺して生きざるを得ない時、私たちは非常な辛さ、大きな苦痛を感じます。


不当な力によって支配され、ものを言えなくされた人々の声にならない叫びが、いかに私たちの内に外に、満ちているでしょう。そしてまたそれら叫びに対し、私たち自身の耳がいかに聴こえなくなっていることでしょう。


福音書に出て来る「悪霊」の物語は、現代に生きる私たちにとっても切実なリアリティーをもっている物語であると思います。


 


祈りによらなければ


 弟子たちは少年から悪霊を追い出そうとしましたが、できませんでした。悪霊の支配に対し、弟子たちは無力でした。私たちもまたそうでありましょう。私たちの周囲で日々起こり続けていることに対して、私たちは自分の無力さを痛感させられます。また私たち自身も、気が付くとこれら否定的な力に取り込まれてしまっていることがあります。


 本日の物語の最後に、主イエスは弟子たちにこう伝えて下さいました。29節《この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ》。悪霊の力に対抗するには、祈りが不可欠であることを主イエスは伝えて下さいました。


 祈りとは、何でしょうか。祈るということで言えば、少年の父親も祈っていたのではないでしょうか。少年から悪霊が出て行き、その病いが癒されることを懸命に願っていました。しかし少年は悪霊に支配されたままだった。ここで主イエスがおっしゃっている祈りとは、私たちの意志による祈りではないようです。主イエスがここでおっしゃっている祈りとは、「神の国に根ざした祈り」です。悪霊の力に対抗できるのは私たちの意志ではなく、神の国の力だということを伝えて下さっています。


「私たち一人ひとりに主体性を取戻し、尊厳を回復させる力」、それが神の国の力です。イエス・キリストはかつてガリラヤ湖のほとりに立ち、この神の国の支配が近づいていることを告げ知らせてくださいました。《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》(マルコによる福音書115節)。そうして主イエス自ら、悪霊の支配によって物が言えなくされている人々のところを訪ね歩いてくださいました。声なき叫びを聴き取り、一人ひとりを悪霊の支配から解放してくださいました。


 


神の国 ~主体性を取戻し、尊厳を回復させる力


「悪霊」の働きとは、私たちから主体性を奪おうとする力、私たちから尊厳をはく奪しようとする力です。対して、「神の国」の働きとは、私たちに主体性を取り戻そうとする力、私たちに尊厳を回復させようとする力です。このように、悪霊と神の国とはまったく正反対の力であり、両者は本質的に相容れないのです。神の国の働きが及ぶところに、悪霊は存在することはできません。


私たちが心の向きを変え、この神の国の力に自分自身を委ねたとき、初めて、私たちは悪霊の力に対抗できるようになると主イエスは教えて下さっています。


 


「信じます。信仰のないわたしをお助けください」


改めて、20節以下をお読みいたします。人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転げ回って泡を吹いた。/イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。/霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」/イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」/その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」》。


父親が主イエスに助けを求める言葉で、印象に残る言葉があります。《信じます。信仰のないわたしをお助けください》24節)。父親は信仰のない無力な自分自身を自覚し、その自分をまるごと主イエスの前に投げ出しました。神の国の力に無力な自分自身を委ねることが、「信じる」ということであることが、ここで示されています。私たちが神の国の力に全幅の「信頼」を置き、自分自身の存在を委ねる時、私たちの内に神の国の力が及び始めます。


神の国というのはどこか遠いところにあるのではなくて、私たちの「すぐ手の届くところ」にあります(ルカによる福音書1721節)。私たちがイエス・キリストの前に無力な自分を差し出す時、そこに神の国の力が満ち始めます。私たちの力の源は私たち自身にではなく、神さまのもとにあります。神さまが力の源泉である限り、私たちの力は枯渇し切ってしまうことはありません。


 


尊厳がないがしろにされることへの「否」


25節以下をお読みいたします。《イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」/すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。/しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。/イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。/イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた》。


主イエスは私たちの悪霊の力に対して、はっきりと「否」を述べられました。《ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな》25節)


主イエスは、私たちの尊厳がないがしろにされることを、決しておゆるしになりません。はっきりとそれに「否」を唱えられています。イエス・キリストの神の国のご支配の前に、悪霊はそこにいることが耐え得ず、少年の内から出て行きました。


 


復活の命の中を


悪霊が出て行った少年はまるで死んだようになり、多くの人々が「死んでしまった」と言いました。しかし、主イエスが手を取って起こされると、少年は立ち上がりました。ここで使用されている「起こされる」「立ちあがる」という言葉は、イエス・キリストの「復活」の意味に使われることもある言葉です。少年は主イエスを通して、復活の命の中を新しく生きるようになりました。それまでの、まるで死者のような状態から、活き活きとした命の中を生きる状態へと変えられたのです。


それは言い換えれば、主イエスを通して少年に主体性が取り戻され、神さまからの尊厳が回復されたということです。主イエスの宣べ伝える神の国の福音は、私たちに再び立ちあがる力を与え、復活の命の中を生きるようにと促します。少年は物も言えず耳も聞こえない状態から解放され、自分らしく生きる在り方へとその第一歩を踏み出してゆきました。


 


「福音の力にあなたの全身を委ねなさい」


主イエスは、私たち一人ひとりが主体性を取戻し、まことの意味で自由になってゆくことを願っておられます。私たち一人ひとりが自分の人生を主体的に、活き活きと生きてゆくことこそ、主イエスが願ってくださっていることです。


神の国の支配はかつてガリラヤから始まり、いま、私たちの足元にも及んでいます。主イエスの祈りにいまこそ、私たちの祈りを合わせてゆかねばなりません。


今年2015年、私たちは敗戦から70年目を迎えます。戦争中、まさに私たちは「ものも言えず、耳も聞こえない」状態に陥りました。一人ひとりの主体性が奪われることの恐ろしさを経験しました。人々から主体性を奪おうとする力の恐ろしさ、またその力にいつの間にか取り込まれ、その力に加担してしまっていることの恐ろしさを経験しました。


敗戦の焼け跡の中から立ち上がって行った人々に与えられた日本国憲法は「個人の尊厳」ということを掲げていました。本日53日は憲法記念日でもあります。戦争によって失われてしまうものこそ、個人の尊厳です。この68年、一人ひとりの尊厳が守られるために、数多くの人々によって懸命なる働きがなされてきました。


しかし一方で、この度の2011311日の震災と原発事故は、私たちの社会が個々人の尊厳に対する認識が不十分であったことを突きつけました。戦後、私たち日本に住む者がいかに人間の生命と尊厳をないがしろにし続けて来たか、ということが露呈した出来事でした。主体性と尊厳をないがしろにする力にいつの間にか取り込まれ、その力に加担してしまっていたことが突き付けられた出来事でした。それは第二の「敗戦」の経験だった、ということができるかもしれません。


これほどの大きな経験をし失敗を経験した私たちであるのに、私たちの社会はいままた再び過去へと逆戻りしてしまおうとしています。「何ごともなかったかのように」して、私たちの社会はさらに生命と尊厳をないがしろにする方向へと突き進んでしまうのでしょうか。私たちはいまこそ、この流れを食い止める必要があります。神の国の祈りに、私たちの祈りを合わせてゆかねばなりません。神の国の祈りへと心の向きを変え、一人ひとりの生命と尊厳がまことに大切にされる社会を目指して立ちあがるよう、私たちは招かれています。


今こそ主イエスの呼びかけに共に耳を傾けましょう。「時は満ち、神の国は近づいた。心の向きを変え、福音の力にあなたの全身をゆだねなさい」(マルコによる福音書115節)