2015年5月31日「内に塩を、互いに平和を」

 

2015531日 聖書箇所:マルコによる福音書94250


「内に塩を、互いに平和を」


 

子どもの頃に見聞きした話


私たちは、子どもの頃に見聞きした話に深い影響を受けているものです。大人たちから聞かされた言葉が、不思議と今の自分の世界の見方に影響を与えている、ということがあります。


たとえば「お天道様が見ているよ」という言葉があります。お天道様とは太陽、または天を表す言葉ですね。たとえ人が誰も見ていなくても、天が私たちのすることを見ている。だから隠れて悪いことをしてはだめなのだということを子どもたちは学びます。このような言葉というのは、知らずしらず私たちの世界観や生き方に影響を与えているのではないでしょうか。


民話や昔話というのも、物語を通して道徳を教える役割を果たしてきたものです。代表的なものは、「悪いことをしたら罰が当たる」という考え方でしょう。悪いことをしたら必ず罰が当たるというのは、昔から世界中で普遍的に見られる考え方です。


 幼心にもっとも深い影響を与える話の一つに、「地獄」の話というのがあるのではないでしょうか。「悪いことをしたら、死んだ後に地獄に落ちる」という考え方もまた、世界中に普遍的に見られるものです。子どもたちにとって、地獄の話というのはもちろん怖いものです。こんなに恐ろしい目に会わないように、悪いことはしないでおこう、と思うことでしょう。人々が悪事を働かないようにという、いわゆる「抑止力」の効果を狙ってのことでしょう。ちなみに、地獄の話というのは、極楽の話とセットとなっています。


キリスト教においても、やはり天国と地獄という表現がなされることがあります。本日の聖書箇所にも、地獄という言葉が出てきます。神の前に、正しいことをした人は天国に行き、悪いことをした人は地獄に落ちるのだという教えは、西欧世界において、その教えは多大なる影響を及ぼしてきました。


 


恐怖によって他者を支配することの悪影響


ただし、聖書が本当に「地獄」という存在があることを語っているかは、議論が分かれるところです。私自身は、「地獄」というものは存在しない、という考えをとっています。何かこの地上とは別に地獄という場所があって、ゆるされない罪を犯した人が苦しみ続けているというのは「幻想」であると思っています。


地獄という観念自体は幻想でありますが、同時に、地獄の話が西欧の人々に与えてきた影響力と言うのは、事実として存在しているものでしょう。私たち日本に住む者が昔話で地獄の話を聞いて多大な影響を受けてきたように、キリスト教世界の人々は天国と地獄の話を聞かされることにより、大きな影響を受け続けてきました。その教えは、キリスト教世界の人々の世界観や生き方に知らずしらず影響を与え続けてきたことと思います。


私自身は、その影響力というのは、ネガティブな「悪い」影響力であったと考えています。恐怖心や不安をあおることによってその人の世界観や生き方に影響をもたらそうとする姿勢は、福音とはかけはなれている姿勢であるからです。イエス・キリストの伝えて下さった福音は、恐れではなく、喜びを原動力として私たちを動かしてゆくものです。


今までの歴史において、キリスト教会が地獄の恐怖によって人々の言動を抑制しようとしたのは、過った姿勢であったと私は考えています。恐れによって人々をコントロールしようとする考え方は、福音とは真逆のものであるからです。


キリスト教に限らず、現在も、さまざまな宗教団体において、恐怖や不安をあおることによって人々を支配しようとする教えが見いだされます。そのような教えは過った教えであるということができるでしょう。死後の裁きを過度に強調し、恐怖心を植え付けることによって私たちをコントロールしようとする教えには、私たちは注意深くある必要があるでしょう。


 


これらの小さな者の一人をつまずかせる者は


 そのことを踏まえた上で、では、本日のような聖書箇所を、私たちはどのように受けとめればよいでしょうか。


「地獄」と訳されている語は、原語のヘブライ語では「ゲヘナ」という言葉です。もともとはエルサレムの西南にある深い谷の地名でしたが、だんだんと「神の裁き」と結びついた言葉として用いられるようになってゆきました。暗い谷底のイメージと神による審判とが結び合わされていったのでしょうか。マルコによる福音書では、「消えない火」というイメージと結び合わされています。


マルコによる福音書94248節《「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼に首を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。/もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。/もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。/もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。/地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」》


 この聖書箇所で語られようとしている中心的なメッセージは何でしょうか。地獄の存在を強調することによって私たちに恐怖心を植え付け、そうして私たちの生き方を律しようとしているのではない、ということは先ほど述べた通りです。


 手足を切り捨てるなどのなんだかぎょっとしてしまうような表現は、古代世界特有の誇張表現であるということができるでしょう。もちろん実際にそうしろと言っているのではなく、より印象深くするために、そのような表現がなされているのです。


 ではこれら強烈な表現によって、この聖書箇所は何を伝えようとしているのでしょうか。冒頭にこのような言葉がありました。42節《わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は…》。


ここでの《小さな者》とは、弱い立場にある人々のことが言われています。つまり、本日の聖書箇所の中心的なメッセージとは、「弱い立場にある人々の尊厳をないがしろにすることを、神さまは決してゆるされない」ということであると受け止めることができます。弱い立場にある人々を軽んじ傷つけることを、神さまは決してゆるされない。激しい怒りをもってのぞむのだということが言われています。


 


人間の尊厳をないがしろにする罪に対する鋭敏さ


 他者の尊厳をないがしろにすることはゆるされない。特に、弱い立場にある人々の尊厳をないがしろにすることはゆるされない。その尊厳を侵害することは、神さまに対して罪を犯すことになります。


それは神さまから見て、一人ひとりがかけがえのない存在であるからです。一人ひとりに神さまからの尊厳が与えられているのだから、私たちは互いに尊重し合ってゆかねばならない。


互いを尊重し合うというのは、私たちにとって自明のことです。国籍を超え、宗教を超えて、それは人類普遍の法則であるということができるでしょう。しかし本日の聖書箇所は、それが他ならぬイエス・キリストからの言葉として語られています。それがないがしろにされることが神さまの目から見て大きな罪悪であるかが、強烈な表現をもって記されています。


このような表現というのは、旧約聖書の預言書にも見られるものです。ゼカリヤ書にはこのような言葉があります。ゼカリヤ書7812節《「万軍の主はこう言われる。/正義と真理とに基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり/やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない。」/ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、/心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた。…》。


これら預言者の言葉には、人間の尊厳に対するすさまじいまでの鋭さが見られます。本日の聖書箇所を特徴づけているのも、人間の尊厳をないがしろにすることの罪に対する鋭敏さです。私たちの社会はいま、人間の尊厳に対するこれほどまでの鋭敏な感性をもっているだろうかと考えさせられます。私たちの社会はいま、この事柄についての感性がどんどんと鈍くなっていってしまっているのではないでしょうか。


身近なところでもそうですし、社会で起こっている事柄についてもそうです。たとえば私たちは、原発の放射能の問題、沖縄の基地問題について、だんだんと感性が鈍っていってしまってはいないでしょうか。弱い立場に立たされている人々が困窮し、その尊厳がないがしろにされていることに対し、私たちはだんだんと無感覚になってはいないだろうか。また私たち自身、自分たちの尊厳がないがしろにされていることに対し、無感覚になってはいないだろうかと自問させられます。


 


内に塩を、互いに平和を


 本日の聖書箇所は締めくくりとして次のような言葉が付されます。マルコによる福音書94950《「人は皆、火で塩味を付けられる。/塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」》。


 ここではまた新しいイメージが語られていますが、たとえとして用いられているのは「塩」です。塩は食べ物に「味付け」するために用いられます。また古代世界では、食べ物を「保存する」ために用いられていました。また塩は、古代イスラエルにおいては「契約」や「交わり」をイメージさせる言葉でもあったようです。主イエスは、《自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい》とおっしゃっておられます。


 ここでの「塩」が何を意味しているのか、はっきりとは分かりません。本日はこの「塩」を、「人間の尊厳に対する感覚」として受け止めたいと思います。私たちはいま、この「塩」を自分たちの内に取り戻してゆく必要があるのだと思います。私たちの間に平和を実現させてゆくためには、この「塩気」が必要です。人間の尊厳がないがしろにされることへの感受性を、私たちは取戻し、また、互いに育んでゆかねばなりません。


平和とは、戦争がない状態をのみを指すのではありません。平和学の分野においてはこれは「消極的な平和」と呼ばれているそうです。戦争が起きていないだけではなく、貧困や抑圧や差別などの社会構造における暴力もない状態、つまり、社会において一人ひとりの尊厳が確かに守られている状態が「積極的な平和」と呼ばれます。安倍内閣が「積極的平和主義」という言葉を用いていますが、それは平和学における元来の用い方とはまったく異なるもの、むしろ真逆のものであるということができるでしょう。まことの「積極的平和主義」とは、私たちが人間の尊厳を第一とし、互いに平和に生きてゆく道を模索してゆくことです。


 そのために、私たちが立ち還るべきは、イエス・キリストの福音です。イエス・キリストの福音は、私たちの内に「塩気」を――「人間の尊厳に対する感覚」を取り戻してくださるものです。キリストの福音は、神さまの目からみて、私たち一人ひとりがいかにかけがえなく貴いか、ということを伝えて下さっています。その福音は私たちに恐れではなく喜びを与え、不安ではなく安心感を与えてくださいます。この福音こそ、私たちの原動力、力の源です。


日々の慌ただしさの中で、塩気のない塩のように、人の痛みに対して鈍くなってしまっている私たちの心。石のように、人の苦しみに対して頑なになってしまっている私たちの心。その私たちの心が再び「塩気」を取戻し、私たちの心が再びやわらかになってゆきますよう、主に祈り求めてゆきたいと思います。そうして、私たちの世界にまことの平和を実現してゆくことができるよう、共に一歩一歩、歩んでゆきたいと思います。