2015年6月14日「子どもを祝福する主イエス」

2015614日 聖書箇所:マルコによる福音書101316

子どもを祝福する主イエス


 

子どもを祝福する主イエス


本日の聖書箇所は、イエス・キリストが子どもを祝福する場面が記されています。子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福して下さっている主イエスの姿は、私たちの心をあたたかくしてくれるものです。


この出来事は、人々が子どもたちを主イエスのもとに連れて来たところから始まります。主イエスに子どもたちに触れていただき、祝福していただきたいと思ったのでしょう。弟子たちはそれが主イエスのお働きの邪魔になってしまうと思ったのか、子どもたちを連れて来た人々を叱りつけました。それを御覧になった主イエスは、お怒りになりました。人々を叱った弟子たちが、結果的には主イエスから叱られることになりました。


15節《子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。/はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない》。


そして、子どもたちを一人ひとり抱き上げ、手を置いて祝福されました。子どもたちはさぞ嬉しく思ったことでしょう。子どもたちの笑顔が目に浮かんでくるようです。また弟子たちの困惑した顔も……。


 


当時の「子ども」観


 本日の聖書箇所において、主イエスは子どもたちを前に、「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃいました(15節)。


 そもそも、当時のイスラエルの社会において、「子ども」とはどのような存在であったでしょうか。私たち日本に住む者が「子ども」と聞いて想像するイメージと、当時のイスラエルの人々が想像するイメージとは違っていたようです。聖書の時代のイスラエルの人々にとって、子どもとは「いまだ完全な人間になってはいない存在」とされていたようです。大人になって初めて一人前の人間になるのである、と。


なぜそうされていたのか。大きな要因として、「律法」が関係していたと考えられます。当時のイスラエル社会では、律法を守ることこそが何より大切なこととされていました。幼い子どもというのは当然、聖書に記されている律法を理解し、守ることはまだできません。よって、律法を守ることがまだできない子どもは完全な人間として受け入れられてはいませんでした。


 そのような時代状況を踏まえて本日の主イエスの言葉を改めて見てみると、それが当時の人々にとってどれほど驚くべき言葉であったかということが分かります。神の国とは、幼な子たちのように、律法を守ることが出来ないでいる者たちのものである、とおっしゃったのですから。


 聖書に記された律法を一生懸命守り、人々から信頼される人間になろうとしていた人々は仰天したことでしょう。主イエスの言葉は、人々の価値観をまさに180度ひっくり返そうとするものでした。


 


「正しい者」と「罪人」と


当時のイスラエル社会では、子どもの他にも、一人前の人間ではないと見做されていた人々がいました。職業などの事情によって、律法を守ることができずに生活していた人々です。たとえば、日雇い労働者、娼婦、徴税人、羊飼いや豚飼い、奴隷の人々がそうでした。これらの人々は律法を守らない――実際は、さまざまな事情によって守ることができない――ということで社会から「罪人」と呼ばれ、軽んじられていました。また、病いや障がいをもっている人々も、律法を守ることができない存在として、社会から遠ざけられていました。


そのような当時の価値判断に「否」を突きつけたのが主イエスであったことを、私たちはすでにマルコによる福音書を読むことを通して見てきました。律法を守る自分たちを「正しい者」とし、そうではない人々を「罪人」として軽んじる律法学者やファリサイ派の人々を、主イエスは痛烈に批判なさいました。「正しい者」ではなく、社会から「罪人」というレッテルを貼られ、偏見や差別を受けている人々を招くためにわたしは来たのだ、と主イエスはおっしゃいました(マルコによる福音書217節)。そうして社会から「罪人」とされている人々のもとを自ら訪ね、その人々の「友」となってくださいました。


 


「条件付き」の世界


 ファリサイ派や律法学者に代表される人々は、いったいどのような世界を生きていたのでしょうか。それは、「律法を懸命に守れば神さまは自分を受け入れてくださる」という世界であったのだと思います。それはいわば、「条件付き」の世界です。自分が律法を遵守すれば、自分が素晴らしい人間になったら、神さまは神の国に入れてくださる。当時のイスラエルの人々の多くが、「もし~ならば」という条件付きの世界を生きていました。


 私たちはもはや律法を遵守するということはしていませんが、しかしそれに共通する姿勢でいることは多いのではないかと思います。自分が素晴らしい業績を上げれば、周囲の人々は自分を認めてくれるようになる。自分が素晴らしい信仰をもてば、神さまは自分を愛してくれるようになる、心のどこかでそう考えてしまっている自分を見出すのではないでしょうか。「もし~すれば」「もし~できれば」……というふうに、私たちは知らずしらず、「条件付き」の世界を生きてしまっていることが多いように思います。「もしこの仕事でよい結果が残せたら…」「もしこのプレゼンがうまくいったら…」「もし売り上げが上がったら…」などなど。


 しかし私たちはもちろん、いつもその条件を満たすことができるわけではありません。自分に高い条件を課す人ほど、その条件を満たすことができない自分を見出すことでしょう。そうするとだんだん自分自身を価値がない人間のように思うようになります。


ですので、自分によりさらに条件を満たしていない人を見つけ出し、その人を見下すことによって優越感を得ようとしてしまうのでしょう。しかしその優越感によっては、私たちは本当には癒されることはありません。


いま多くの人々が、「条件付き」の世界を生きる中で、自分に価値を見出すことができず苦しんでいるように思います。自分自身に価値を見いだすことができないとき、私たちは心に非常な渇きを覚えます。


 


「無条件」の世界


「条件付き」の世界と対照的であるのは、「無条件」の世界です。私たちが何か素晴らしい業績を上げるからではなく、素晴らしい人間になるからではなく、ただ“あるがまま”に自分という存在が受け入れられている世界です。


私たちは幼な子であったとき、そのような経験をしたことでしょう。両親の腕の中で安心して眠った経験。自分の存在をそのままに受け止めてもらった経験。私たち大人にとっては、それはもはや遠い昔の記憶でしかないのでしょうか。いいえ、そうではありません。


主イエスが「神の国」と呼んだのは、他でもない、この「無条件」の世界のことを指しています。私たちがこの神の国にまなざしを向ける時、幼な子の時に経験した「無条件」の世界を再び経験します。


 神の国においては、いま私たちがこうして「生きていること」こそが、もっとも価値あることとなります。その人がいま「存在し、生きていること」そのことが、最上の価値となります。神の国においては、私たちは存在し、生きているだけで、「よい」――。主イエスはこの神の国が、いま私たちの足元に到来しつつあるとおっしゃいました。


私たちはこの無条件の世界に出会ってこそ、生きる力を得るのではないでしょうか。再び立ち上がってゆく力を得るのではないでしょうか。無条件の世界に支えられてこそ、私たちは自らの弱さや過ちを受け入れることができるようになってゆきます。より自分らしい自分へと成長してゆくことができるのだと思います。


 


神の国のまなざし


 神の国のまなざしが切実に求められているのは、大人の社会の間だけではなく、子どもたちにおいてもそうです。子どもたちもやはり、「もし~ならば」という「条件付き」の世界を生きることを余儀なくされています。「もし試験でよい成績をとれば…」「もしクラブで良い結果を残せば…」。何かそのような条件を満たして初めて自分は価値ある人間になれる、周囲の大人たちから愛される自分になれる、そう思い込んでしまっていることが多いように思います。そうして周りの友人たちを「友」ではなく、勝たねばならない「競争相手」として見るようになっていってしまいます。


もちろん、一生懸命勉強したりクラブ活動に打ち込むことは大切なことです。しかしたとえ自分が何もできなくても、勉強もできずクラブで良い結果が残せなくても、それでも自分を「よし」としてくれる存在がいるかいないかが、子どもたちにとっては何より重要なこととなるでしょう。「もし~するなら」という「条件付き」ではなく、「無条件」で自分を受け入れてくれている存在への信頼が育まれてこそ、子どもたちは活き活きと成長してゆけるのだと思います。より自分らしい自分へと成長してゆけるのだと思います。


私たちはいま、神の国のまなざしを、私たちの生きる「土台」として取り戻してゆくことが求められているのではないでしょうか。


 


私たち自身が幼な子として


改めて、主イエスの言葉をお読みいたします。15節《子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。/はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない》。


主イエスはここで子どもたちの素直さや純真さを評価してこうおっしゃっているのではない、ということは今まで述べてきたことかわ分かります。律法を守ることが出来ない、何か素晴らしい働きをするからではない、主イエスは幼な子たちを“あるがまま”に受けとめ、慈しんでくださいました。


私たちもまた、自分で自分に課している「条件」を一度手放してみた時、いま・ここに神の国の福音があることに気づいてゆきます。「律法をきちんと守る人でなければ、神の国に決して入ることが出来ない」というのは、私たちの幻想であったのです。私たちは神の国に、“あるがまま”に、「無条件に」、招かれています。


私たち自身が、神の国において幼な子のような存在です。他でもない、私たち自身が、幼な子であるのです。


主イエスは連れて来られた子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福してくださいました。そのように、主イエスはいま私たち一人ひとりをその腕で抱き上げ、祝福して下さっています。

「あなたがいま・ここに居ることこそが尊い。あなたが存在し、生きていてくれることが、何よりの価値である」。