2015年6月21日「永遠の命を受け継ぐには」

2015621日 聖書箇所:マルコによる福音書101722

「永遠の命を受け継ぐには」


 

「道」を求めて


「求道者」という言葉があります。「道を求める者」と書いて求道者ですね。教会では、洗礼(バプテスマ)を受けていない人を求道者と呼ぶこともありますが、一般的には一つの道を究めようとしている人や、真理を求め続けている人を求道者と呼んでいます。


 本日の聖書箇所には、お金持ちの一人の男性が登場しますが、この男性も求道者でした。神の救いに至る「道」を求める求道者です。福音書の記述を読んでいると、非常にまじめな人であったということが伝わってきます。


 当時のイスラエルの社会において、神さまの救いに至る「道」というのは、はっきりとしていました。それは、「律法を守ること」です。律法を守ることが神さまの救いに至る「道」であるというのが当時のイスラエルの人々の信仰でした。


律法というのは、旧約聖書に記されている神さまの掟です。モーセに与えられた十戒がその代表ですが、聖書には十戒だけではなく、たくさんの律法が記されています。


 本日登場する男性も、子どものときから律法を守ることを徹底して教えられてきた人であったようです。男性は律法を一生懸命に守って生きてきました。


しかし、この男性はそのような生き方に、どこか疑問が生じていたようです。律法を守ってはいるけれど、どこか満たされない自分を意識していたのでしょうか。もしくは本当に神さまの救いに至ることができるのか確認がもてなくなっていたのかもしれません。当時の社会においてこれが人の生きる「道」だとされていたことに、この男性は疑問を持ち始めていたようです。


 


悲しみながら立ち去った男性


 そのような中、男性はイエス・キリストのうわさを耳にしたのでしょう。素晴らしい人物がガリラヤからやってきている。神の国について権威ある教えを語り、不思議な力で病人を立ち上がらせ、悪霊を追い出している。男性は、この方なら自分に何か「答え」を与えてくれるかもしれないと思い、主イエスに会いに出かけました。


 マルコによる福音書101720節をお読みいたします。《イエスが旅に出ようとされると、ある人は走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」/イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。/『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」/すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った》。


 男性は主イエスのもとに走り寄り、ひざまずいたと福音書は記しています。この姿に、男性の切実な想いが表れています。男性は、「善い先生、神さまの救いに至るには何をすればよいでしょうか」と、ずっと解決されないでいる自分の問いを主イエスに投げかけました。


 主イエスは「なぜ、わたしを『善い』と言うのですか。神おひとりのほかに善い者はいません」とお答えになり、そして、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずです」とおっしゃいました。主イエスはあえて、律法を守ることが神さまの救いに至る「道」であるという、当時の一般的な答えをおっしゃいました。ここで例として挙げられている掟は、モーセの十戒の掟(第五戒から第十戒)です。


 男性は、「先生、そういうことはみな子どもの時から守ってきました」と答えます。そういうことは子どもの時から守って来たけれど、どこか心が満たされない。本当に自分が神の救いに至るのか確信が持てない。


 続けておっしゃった主イエスの言葉は、男性にとって驚くべきものでした。マルコによる福音書102122イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」/その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである》。


「持っているものを売り払い貧しい人々に施しなさい」という驚くべき言葉を受けて、男性は気を落とし、悲しみながら立ち去った、と聖書は記します。男性はたくさんの財産をもっていたからです。


 


律法を懸命に守ることによって


 主イエスにもとに懸命な想いで走り寄りつつ、しかし悲しみながら立ち去った男性の姿はなんだか気の毒にも思えるものです。主イエスは男性にどのようなことを伝えようとされたのでしょうか。


 男性は、自分自身の今までの生き方に疑問を持ちつつ、しかしいざその生き方を変えることを迫られたとき、その決断をすることができなかったようです。


 男性の今までの生き方というのは、律法を一生懸命守ることによって神さまの救いに至ろうとする生き方でした。それは絶えず自分を高め、上昇させて行こうとする生き方であった、ということができます。自分をどんどん高めてゆくと、いつかは天におられる神さまのもとへ行くことができるというイメージでしょうか。


 男性はたくさんの財産を持っていたと記されていますが、富というものも自分の価値を高める重要な要素に思えていたのでしょうか。男性は律法を守り、社会的な地位や富を確立してゆくことに懸命であったのだということが分かります。


 主イエスが示そうとして下さったのは、そのように自分を確立してゆくのとはまた別の「道」でした。


 


無条件の愛


 私たちが努力に努力を重ね、信仰的に、また社会的に立派な人間になれば神さまのもとに至ることができる、ということではない。神さまは天の高みから、私たちがそこに至るのを待っておられるのではない。そうではなく、神さまは私たちよりさらに低いところにおられる。そうしていますでに、私たちと共にいてくださり、私たち一人ひとりを支えて下さっている。私たちはいますでに、神さまと共にいる「道」を歩いている、主イエスはそのことを伝えて下さっています。


 私たちが立派な人間になるから神さまは私たちを尊重して下さるのではなく、いま“あるがまま”の私たちを神さまは受け入れ、尊重して下さっている。主イエスが伝えて下さっているのは、神さまのその無条件の愛です。


 


「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」


 その愛は、男性をすでに包んでいました。21節の冒頭に、《イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた》という言葉があります。《慈しんで》と訳されている語は、原文では「彼を愛して」という言葉です。主イエスは悩みを打ち明ける男性を、いますでに愛して下さっていたことが分かります。


 主イエスは、いまそこにある“あるがまま”の男性を、受け入れて下さっていた。けれども男性は自分にいますでに向けられているその無条件の愛に気づくことができなかったようです。


 それはこの男性だけではなく、周りにいる弟子たちも同様でした。主イエスの伝える「道」をそのときはまだ理解することができなかった。


 弟子たちが主イエスの伝える愛を理解することができたのは、主イエスが十字架にお架かりになったお姿を通してでした。主イエスはその十字架のお姿を通して、神さまがどこにおられるかを示してくださいました。神さまは遠く離れた天のかなたにおられるのではない。私たちよりさらに低きところから、私たちを支えて下さっている方である。“あるがまま”の私たちを受け入れ、ゆるし、愛して下さっている方であることを、弟子たちは知らされました。


 主イエスのもとから悲しみながら立ち去った男性も、その後、自分に向けられていた主イエスのまなざしの意味を思い出す瞬間があったかもしれません。いまここにいる自分が、そのままに、すでに愛されていたことに気が付いた瞬間が訪れたかもしれません。


 


主のまなざしと出会う


 神さまの愛は、あのときすでに男性に向けられているように、いま、私たち一人ひとりに向けられています。私たちがどのような人間であったか、どのような人間になるかは一切問われず、いま神さまは私たちを受け入れて下さっています。私たちは十字架の主イエスにまなざしを向ける時、この神さまの愛と出会います。


 私たちはただ、十字架の主にまなざしを向けるだけでよいのです。他には何も要りません。立派な信仰も、社会的な地位や富も必要とされていません。


十字架の主イエスに私たちのまなざしを向ける時、私たちを“あるがまま”に受け入れて下さっているまなざしと出会います。主イエスを通して、いま神さまは私たちにお語りになっています。「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)。