2015年6月28日「人にはできないことも神にはできる」

2015628日 聖書箇所:マルコによる福音書102331

「人にはできないことも神にはできる」


 

神と人間の約束の物語


聖書という書は、皆さんもよくご存じのように「旧約聖書」と「新約聖書」から成り立っています。「旧約」「新約」の「約」は、「契約」「約束」の「約」です。この名称からも分かりますように、聖書という書物は、「約束の書」であるということができます。それはわたしたち人間同士の約束ではなく、神と人間の約束です。神さまがわたしたち人間に与えてくださった約束が、歴史の中でどのように実現していったかを記した書物が聖書です。


その約束は、イスラエル民族の祖先アブラハムにさかのぼります。旧約聖書『創世記』に記されるアブラハム物語から、神と人間の約束の物語がはじまります。


 


アブラハムへの神さまからの約束


少しごいっしょに、アブラハムと神さまとの出会いを振り返ってみたいと思います。

 それはアブラハムが75歳のときでした。妻のサラとの間には子どもはおらず、近親者で若い者は、甥のロトだけでした。当時の価値観においては、子孫が続いてゆくということが決定的に重要なこととされていました。アブラハムは思っていたことでしょう。(自分が死んだら、われわれ一族は、もうこれで終わりだろう……)。失意の日々を過ごす一人の人間に、ある日、神が現れ、言われたのです。


《あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。/わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。/地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る》(創世記1213


 将来への希望が失われていたアブラハムに、神さまから約束が与えられました。驚くべきことに、後継ぎもいないアブラハム一族が、この先大いなる国民となるというのです。これが、イスラエル民族のはじまりとなりました。アブラハムはいったいこの先何が起こるのか分からないままに、しかし主の約束の言葉に従って、カナンの地へ向けて出発しました。アブラハムにとって、神さまからのその約束は自分に「子孫の繁栄」を約束するものとなりました。


 そして、アブラハムがカナンの地にたどり着いたとき、主なる神が現れておっしゃいました。《あなたの子孫に、この土地を与える》(創世記127節)


アブラハム一族が偉大な国民となる約束の「保証」として、このカナンの地をアブラハムの子孫に与えると神さまはおっしゃいました。

子孫が繁栄してゆくための欠かせない条件として、豊かな土地を確保するということがありました。豊かな土地が与えられていることが、豊かな生活を育んでゆくことの基礎となります。カナンの地が与えられることが、アブラハムの一族が主から祝福され、大いなる国民となることの、「保証」となりました。


ご一緒にアブラハム物語を振り返ってみましたが、聖書の約束の物語は、失意のなかにいた一人の人間からはじまっていった、ということが分かります。もうすべては終わったと失意の底にいたアブラハムに、神さまからの約束は与えられました。人間の目から見ると希望が見えない状況のただ中に、神からの新しい一歩が示されました。「わたしたちの人生は死によって終わるものではない」という希望がアブラハムに示されたのです。


 


祝福の証し ~子孫繁栄と豊かな土地


アブラハムの物語において重要な要素となっているものとして、「子孫の繁栄」と「豊かな土地」ということがあります。アブラハムの一族が大いなる国民になってゆくこと、カナンの地がその子孫たちに与えられること、それをイスラエル民族は神さまの約束として信じ続けてきました。

このことを踏まえて、本日の聖書箇所を読んでみたいと思います。


 マルコによる福音書102327節《イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」/弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。/金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」/弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。/イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神にはなんでもできるからだ。」》。


「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」という主イエスの言葉を聞いて、弟子たちは驚いた、と福音書は記しています。弟子たちがなぜそんなに驚いたのかには、先ほど述べましたアブラハムへの神さまの約束の言葉が関わっているのだと思います。当時、財産があるということは、とりわけたくさんの土地をもっているということを意味していたでしょう。豊かな土地がたくさん与えられているということは、それだけ神さまからの祝福を受けているということの証しとなりました。そのような考えが一般的である中で、主イエスは「財産のある者は神の国に入ることは難しい」とおっしゃったので、弟子たちは衝撃を受けたのでしょう。


 さらに主イエスはおっしゃいます。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。らくだが針の穴を通るということは、もちろん不可能なことです。主イエスは「不可能である」ことをユーモラスに示すたとえとして、これを語られたのでしょう。らくだが小さな針の穴を通るという、どうかんがえても不可能なことよりも、さらに不可能なこと、それが財産のある人が神の国に入ることだというのです。


弟子たちはますます驚いて、「それでは、いったい誰が神の国に入ることが出来るのか」と互いに言い合います。神さまの祝福を受けている財産のある人が神の国に入ることが難しいというのであれば、ではいったい誰が神の国に入ることができるのか……?


 


新しい約束


 主イエスは、そのような弟子たちの姿をじっと見つめて、おっしゃいました。「人間にできることではないが、神にはできる。神はなんでもできるからだ」。

 この主イエスの言葉は、かつて父祖アブラハムと神さまとの出会いの場面を想い起こさせます。すべてをあきらめていたアブラハムに、神さまは約束を与えてくださいました。神さまに不可能なことはない、ということを示してくださいました。主イエスもここで改めて、人間の目には不可能と思えることも、神さまには可能であるとお語りになりました。


 主イエスはかつて神さまがアブラハムに約束をお与えになったように、弟子たちに新しい約束をお与えになろうとしています。それは、「永遠の命の約束」です。かつてアブラハムに与えられた「子孫繁栄の約束」は、主イエスを通して、新しく「永遠の命の約束」となりました。


マルコによる福音書102831節をお読みいたします。《ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。/イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、/今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。/しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」》。


 この後半部では、土地だけではなく、家族とのつながりを一度絶つということが言われています。「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てる」ということは、つまり、「子孫繁栄」の可能性を断つということを意味しています。イスラエルの人々の今までの価値観からすると、それこそ絶対にあってはならないことであったでしょう。


主イエスはここで、家族がどうでもいいとか家族を大切にしなくていいとおっしゃっているのではない、ということはもちろんのことです。そうではなく、「子孫繁栄」に最大の望みを置くイスラエルの人々の価値観を、新しいものへと変えようとしてらっしゃるのだと思います。イスラエルの人々の心を、「永遠の命」という新しい約束へ向け変えようとしているのです。


「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という言葉は、いままさに人々の間に大転換が起ころうとしていることが示唆されているのでしょう。


 


永遠の命の約束 ~死は終わりではない


 アブラハムに与えられた約束と、私たちに新しく与えられた約束とは、どこが同じで、どこが異なっているのでしょうか。


 共通しているのは、「わたしたちの人生は、死によって終わるものではない」というメッセージです。アブラハムにとっては、それは「子孫の繁栄」を意味していました。アブラハム個人が死んでも、その子孫が神の祝福の中で繁栄し続ける限り、アブラハムもまた大きな命の中を生き続けるということになったでしょう。


 主イエスがおっしゃっている新しい約束もまた、「死は終わりではない」ということを語っています。ただしそれは、「子孫の繁栄」によるものではもはやありません。「わたし」という個人が死んでもなお、その「わたし」が神さまの命の中を生き続ける、というのが「永遠の命の約束」です。「わたし」という存在は、死ぬと消え去ってしまうものではない。生きる者も死んだ者も、大いなる命の中を生き続ける。それをわたしたち教会は、“永遠の命”と呼び、大切な約束として、信じ続けてきました。


 


イエス・キリストこそ永遠の命


 ただ、私たちは永遠の命というものがどういうものか分からなくなることがあります。私たちは夢幻のようなことを信じているに過ぎないと思う時もあります。死という圧倒的な現実を前にして、「永遠の命」という言葉が何か空々しく思える時もあります。


けれどもこの2000年間、教会はこの永遠の命を希望とし続けてきました。さまざまな苦難を経験し、悲惨な経験をしながら、しかしこの希望のともしびは途絶えることはなかった。ということは、そこには何か言葉だけではない、確かなものがあったのだろうと思います。その「確かさ」なしに、2000年間もこのことを生きる希望にすることはできなかっただろうと思います。


 私たちにとって、この永遠の命の約束を「確かなもの」とするものは、何なのか。それは、イエス・キリスト御自身です。


ヨハネの手紙一520節の言葉には次の言葉があります。《私たちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です》。イエス・キリストこそ、永遠の命であるとヨハネの手紙は語ります。


主イエスは、十字架につけられ、死んで、葬られました。わたしたちとまったく同じように、死を経験されました。その主イエスが、三日後に、神によって復活させられました。人間は死によって終わるものではないということを、神さまは御子を通して、わたしたちに示してくださいました。


 


「わたしはここにいる。わたしは復活であり、命である」


永遠の命なるイエス・キリストは、私たちから何か離れたところにおられるのではありません。私たちといつも共にいて、私たちに語りかけて下さっています。「私は復活であり、命である」(ヨハネによる福音書1125節)


私たち自身は、死の現実を前に、失意の中で座り込むことしかできなくなります。その私たちと共に座り込んで、共に悲しんで下さっている方、それがイエス・キリストです。主イエスは私たちと共にうめき、悲しみ、共に涙を流してくださっています(ヨハネによる福音書1135節)。私たちのすぐ近くにいて下さり、まるで私自身のようになって、共に悲しんでくださっている方。この主イエスが永遠の命であると聖書は記します。


主イエスは私たちに絶えず語りかけてくださっています。「わたしはここにいる。わたしはここにいる。私は復活であり、命である」。

いつも共におられるこの方が永遠の命であるからこそ、私たち教会はこの2000年間、「永遠の命の約束」を確かなものとして信じ続けることができました。


いまご一緒に、永遠の命なるイエス・キリストの語りかけに心を開きたいと願います。「わたしはここにいる。わたしはここにいる。私は復活であり、命である」。