2015年6月7日「神は結び合わせる」

201567日 聖書箇所:マルコによる福音書10112

「神は結び合わせる」


 

アダムとエバの創造物語


旧約聖書の創世記に、よく知られたアダムとエバの創造の物語があります。その中で、神さまは土から人(アダム)を造り、アダムのあばら骨の一部から女性を造ったという記述があります。

「アダムのあばら骨から女性が造られた」という表現に、女性を下に見る意識があるのではないか、という指摘があります。確かに、女性の中にはこのような表現を心外に思う方もおられることでしょう。


聖書は男性の視点から書かれている表現がたくさんあります。たとえば旧約聖書の律法の中には、はっきりと男性中心的、男性優位的な表現が数多く見いだされます。聖書の表現の中には男性中心的、男性優位的な要素が数多くあるということは、受け入れねばならないはっきりとした事実でありましょう。


一方で、聖書の中には男性と女性の「平等」を伝える表現もあります。先ほどの創世記でいうと、あばら骨から女性がつくられる直前に、このような記述があります。《主なる神は言われた。/「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」》(創世記218節)。

 《彼に合う助ける者》と訳されている語は、原文のヘブライ語では、「彼に向き合う助ける者」という意味です。「向かい合う者」という言葉が使われているところに注目したいと思います。つまり、「対等なパートナー」として女性が造られたということが示されています。


 このことから改めてアダムとエバの創造の物語を見てみると、また少し違って見えてくるかもしれません。確かに「あばら骨の一部から女性が造られた」ことが記されていますが、ここで男性の役割はむしろ受動的なものとして描かれています。


男性が深い眠りに落ちているとき、すでに女性は目覚めて立っています。女性の登場を受けて、アダムは男性としての自分を初めて意識します(創世記22123節)。この創造の場面においてはどちらかというと女性の方が主導権を握っているということができるかもしれません。


 創世記のこの部分に限っては言えば、男性と女性の「平等」を伝えることをはっきりと意識して書かれていることが分かります。ただし、先ほども言いましたように聖書には男性中心的な記述が数多く見られることもまた、動かし難い事実です。


 


父権制社会の中で


 古代イスラエルは、基本的に父権制社会でありました。女性は、家の長である男性に従順であることが当然とされていた社会でした。言葉は悪いですが、古代イスラエルにおいて女性は男性の「所有物」であり、基本的に社会的な人格を認められることはなかったようです。女性は成人するまでは父親のものであり、成人し結婚してからは夫のものとなる。そのように、女性は生涯、だれかの「所有」とされている状態を余儀なくされて生きていました(参照:絹川久子氏『女性たちとイエス 相互行為的視点からマルコ福音書を読みなおす』)。


 このような古代イスラエルの社会と、近代日本の社会は状況が似ています。日本では、明治時代以降にいわゆる「家」制度が確立されました。完全なる家父長制的な家族制度であり、女性は男性に従属すべきものとされました。

戦後、新しい憲法が作られ、明治以降の「家」制度は廃止されました。制度としては廃止されましたが、私たちはいまだ「家」制度に習慣的に囚われている部分が多いようにも思います。


 


向き合うパートナーとして


戦後新しく公布された日本国憲法の第24条は、結婚における《個人の尊厳》と《両性の本質的平等》を記しています。


憲法第24条《婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されねばならない。

配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない》。


日本国憲法で《個人の尊厳》という文言が出て来るのはこの第24条のみです。格調高いこの条文には、憲法の作成に関わったベアテ・シロタ・ゴードンさんという女性の尽力があったことが知られています。


この憲法第24条は、先ほど述べた創世記2章の人間観と響きあうものです。神さまは男性と女性を互いに「向き合うパートナー」として造られた。よって結婚は、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力によって維持されねばならない。


 


主イエスとファリサイ派の問答


 本日の聖書箇所であるマルコによる福音書10112節の中で、イエス・キリストはこの創世記の記述を引用しています。

 改めて、2節以下をお読みいたします。24節《ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。/イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。/彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った》。


 物語は、ファリサイ派の人々による問いから始まります。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか?」。ファリサイ派の人々は、主イエスがどのようにお応えになるかを試すためにこのような問いを発したようです。


主イエスは問いに直接はお答えにならず、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されました。ファリサイ派の人々は、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えます。


旧約聖書の律法の中には、男性が女性を離縁することができる法が定められていました(申命記241節)。律法においては、離婚は認められていました。ただしそれは《両性の本質的平等》に基づいているものではなく、男性の側に一方的な権利が帰せられた内容のものでした。男性にとって何か気に入らないことがあると、それがささいなことであっても、離婚の原因になり得るものでした(参照:絹川久子氏、同書)。


 ファリサイ派の返答を受けて、主イエスはおっしゃいます。5節《イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。…」》。主イエスは不平等なこの掟をよしとはされていないことが伺われます。


 


相手の尊厳をないがしろにする一方的な離縁はゆるされない


そうして、主イエスはおっしゃいます。69節《しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。/それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、/二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。/従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない》。


9節の言葉は、伝統的には離婚を禁止する言葉であると受け止められてきました。マルコによる福音書の元来の文脈においては、離婚を禁止する言葉であるというよりも、男性による「一方的な」離婚を禁ずる言葉であったのだと受け止めることができるでしょう。つまり、主イエスはここで男性と女性の不平等を問題にされているのです。それは主イエスが生きておられたイスラエルの社会の現実でもありました。


主イエスがそれを深刻な問題にされるのは、神さまの目から見て、私たちは本質的に「平等」であるのだからです。それぞれが、神さまの目にかけがえのない存在であるからです。神さまから尊厳が与えられた個人と個人が結び合わされたのであるから、一方的な想いで相手を離縁してはならない。


そのことを伝えるため、主イエスはここで創世記の記述を引用されています(創世記127節、創世記224節)。天地創造の初めから、神さまは男性と女性を「向かい合うパートナー」として造られた。よって、私たちは相手の尊厳をないがしろにするような一方的な離縁をしてはならない。そう主イエスは戒めておられるのだと思います。


 


双方の誠実さをもって


 家に戻ってから、弟子たちは主イエスとファリサイ派との問答について、改めて尋ねます。弟子たちには、主イエスの真意があまり理解できなかったのかもしれません。


1012節《家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。/イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。/夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」》。


当時のイスラエルの社会では、妻が夫を離縁する権利があるとはみなされていなかったようです。しかし主イエスはここにおいても、男性と女性を「平等」に語っています。結婚と離婚に関しては、男性も女性も平等な権利をもっている。と同時にそれは、男性も女性も共に結婚生活に誠実である責任があるということでもあります。どちらかが一方的に相手に誠実であったり、一方的に相手に尽くしたりするのではなく、男性と女性の双方の誠実さがあって、結婚は成り立ってゆくものであることを主イエスは伝えておられます。


 


尊厳をもった人間と人間が向かい合って生きる


神さまの目から見た「人間の尊厳」と、神さまの目から見た「人間の本質的平等」。これが、主イエスが伝えて下さる福音の本質にあるものです。

神さまから尊厳を与えられた個人と個人が「向かい合い」、共に対等な存在として支え合ってゆくこと、それが人が生きてゆくことである、ということを主イエスは伝えて下さっています。


神の国の福音においては、男性と女性の区別さえも、本質的なものではなくなります。そこにおいてはもはや人種の区別はなく、身分の区別はなく、男性と女性の区別もありません(ガラテヤの信徒への手紙328節)。


近年はキリスト教会の中でも同性婚を認めるか否かが議論となっていますが、イエス・キリストの福音に基づくと、それは当然認められるべきものとなります。大切なことは、「人間」と「人間」が向き合い、相手に神さまからの尊厳を認め、互いに助け合って生きてゆくことであるからです。私たちが互いに尊厳を認め合い、支え合って生きてゆくところに、神さまの愛は実現されてゆきます。


 


パートナーなるイエス・キリスト


 またそして、神さまは私たち一人ひとりに、生涯「向かい合うパートナー」を与えて下さいました。イエス・キリストその方です。

主イエスは私たちと向き合い、神さまからの尊厳を見出してくださっています。主イエスはいつもあなたと向き合い、支えて下さっています。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)。


どうぞ私たちがこの主の愛に誠実でいることができますように、お祈りをおささげいたしましょう。