2015年7月12日「人の子は仕えるために」

2015712日 聖書箇所:マルコによる福音書103545

 

「人の子は仕えるために」

 

 

静かにささやく声

 

旧約聖書の列王記上に印象的なエピソードが出て来ます。預言者のエリヤが主なる神さまと出会ったときのエピソードです(列王記上191112節)

  

神の御前に立とうとするエリヤの前に、突然、激しい風が起こります。その風は山を裂き、岩を砕くほどでした。しかし、《風の中に主はおられなかった》と聖書は記します。今度は大地を揺るがす地震が起こります。しかし《地震の中にも主はおられなかった》と聖書は記します。地震の後に、さらに炎が立ち上がります。しかし、《火の中にも主はおられなかった》。

それら激しい現象の後に、エリヤの耳に《静かにささやく声》が聴こえました。それが、エリヤに語りかける神の声でした。

  

このエリヤのエピソードは、何か私たちの心を捉えるものがあります。神さまと出会う瞬間というのは、私たちは一般に何かドラマチックな場面をイメージするかもしれません。たとえば激しい風が起こったり、地震が起こったり、火が起こったり。けれどもこのエリヤのエピソードにおいては、それら私たちの目を引く現象の中に神はおられなかった、と記されています。そうではなく、むしろ何の物音もしないような沈黙の中、《静かにささやく声》を通して神さまはエリヤと出会ったと聖書は記しています。

 

エリヤが聴き取ったその声というのは、私たちが心の耳を澄まさないと聴こえてこない声であるのかもしれません。たとえば私たちが心を忙しくしていたり、また私たちが力強いものや華やかなものをばかり追い求めてばかりいては、聴こえてこない声であるのかもしれません。私たちは普段の生活において、力強い言葉や華やかな言葉の方につい意識がいってしまいがちです。エリヤのエピソードによると、力強い言葉や華やかな言葉の中に神はおられない時がある、ということになるでしょう。激しい風のように、人々を圧倒する言葉であったとしても、その中に神はおられない、ということもあるでしょう。地震のように人々の心を揺るがす言葉であったとしても、神はおられないということもあるでしょう。炎のような熱い言葉の中にも、神はおられない。そうではなく、沈黙の中に、《静かにささやく声》として、神はおられる……。

 

であるとすると、私たちは普段、どれだけこの《静かにささやく声》に心の耳を澄ますことができているだろうか、と考えさせられます。神さまを熱心に呼び求めているつもりで、実際にはむしろ、神さまの《静かにささやく声》に耳を塞いでしまっていることが多いであろうと思うからです。

 

 

 

隣り人の「声にならない声」

 

 もう少し、この《静かにささやく声》ということについて、考えてみたいと思います。私たちは日々の生活のどのような場面で、この神さまの声と出会うのでしょうか。

 

 たとえば、礼拝堂で一人静かに祈っていて、この声と出会うのでしょうか。もちろん、そのようなことも起こり得るでしょう。

 

 ただ、それよりもはるかに多く、私たちは他者との関係において、この声と出会うのだと思います。なぜなら、私たちの「声にならない声」がある場所に、神さまがいつも共にいてくださるからです。

 

 私たちの生きる社会は、「声にならない声」「声にできない声」であふれています。私たちの内に外に存在しているそれら小さな声は、しかしほとんどの場合、大きな声や、にぎやかな会話の中でかき消されてしまっています。本日のエリヤのエピソードは、私たちの内に外に無数にあふれる声にならない声の中にこそ、神さまが共におられることを伝えてくれているように思います。

 

 神さまが共にいてくださる場所、それは、私たち一人ひとりの内の、「言葉にならない呻き」があるところです。そこにこそ、神さまは共にいてくださいます。他者の「言葉にならない呻き」を私たちが聴こうとする時、私たちは私たちに語りかける神の《静かにささやく声》に出会います。

 

 

 

“霊”自らが言葉に表せないうめきをもって

 

 私たちはそれぞれ、自分自身の内にもまた「言葉にならない呻き」を持っています。自分でも言葉にうまくできない気持ちを持っています。

 

パウロのよく知られた言葉に、《わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです》という言葉があります(ローマの信徒への手紙826節)

 

パウロ自身もまた、自分の内には「言葉に表せない呻き」があるのだと語っています。その呻きゆえに、自分自身は、どう祈るべきかを知らないほどである、と。けれども、その自分の「言葉にならない呻き」を神さまは知っていてくださる。神の霊ご自身が、「言葉にならない呻き」をもって私たちを執り成して下さっている、とパウロは語っています。

 

私たちの内に外に存在する「言葉にならない呻き」に耳を傾ける時、私たちはそこに共におられる神さまに出会ってゆくのだと思います。


 

 

人の子は仕えるために

 

 本日の聖書箇所のイエス・キリストの言葉というのも、私たちにとって、一つの《静かにささやく声》であるでしょう。力強い言葉や華やかな言葉を求めていた弟子たちの耳には、本日の主イエスの言葉は聴こえていなかったことが記されています。

 

 本日の聖書箇所において、弟子のヤコブとヨハネが主イエスの前に進み出て、願います。《栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください》(マルコによる福音書1037節)。ヤコブとヨハネはこれから主イエスがイスラエルの王になること考えていました。この世界の王となる主イエスの両隣に自分たちを置いてほしいと思っていたようです。

 

 ヤコブとヨハネのこの願いを耳にした他の十人の弟子たちは憤慨します41節)。憤慨したということは、他の弟子たちも腹の中では同じことを考えていたのだ、ということが言えるでしょう。弟子たちは、イスラエル民族への思いや、自身の名誉や権力への想いに心が囚われてしまっていました。弟子たちはその「熱心さ」のあまり、《静かにささやく声》を聴き取る心の耳を失ってしまっていたようです。

 

そのような彼らに対し、主イエスはおっしゃいました。《あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、/いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。/人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである4344節)

 

主イエスはご自分が人々に仕えられるためではなく、仕えるために来たのだ、とおっしゃっています。大勢の臣下を従え軍勢を率いる王様ではなく、むしろすべての人に仕える僕として来たのである、と。これはまさに弟子たちのまなざしの方向をひっくり返すような言葉であったでしょう。けれども心が「熱心さ」で支配された弟子たちは、すぐにはこの言葉のまことの意味を理解することはできませんでした。

 

 


十字架の主を通して

 

 弟子たちがこの言葉の意味を理解したのは、イエス・キリストの十字架を通してでした。弟子たちは、十字架の主を通して、神自身の《静かにささやく声》と出会いました。

 

主イエスは十字架の上で、「言葉にならない呻き」を発されました。私たちすべての者の「言葉にならない呻き」を受けとめて下さり、それをご自身の叫びとしてくださいました。そしてその呻きが神ご自身の声であることを弟子たちは理解しました。

 

そこにおられるのは、人々から見捨てられたかのような無残な主の御姿です。そのもっとも悲惨で、みじめで、「低き」ところ。そこに、神はおられることを神ご自身が現してくださいました。

 

かつて預言者のイザヤは語りました。《わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。/乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。/見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。/彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。/彼は私たちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。/彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。/彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。/彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた》(イザヤ書5315節)

 

 主イエスは私たちのすべての痛み、病いをその身に負ってくださいました。そのことを通して、私たちの傷がいやされ、私たちが新しい命の中で生きるようになるためです。主は十字架におかかりなったお姿で、「生きよ」と私たちに語り続けて下さっています。

 

 

 

「声にならない声」に耳を傾けて

 

 私たちがまなざしを十字架の主に向け直すとき、私たちは《静かにささやく声》と出会う道が開かれてゆきます。

 

神はもっとも低きところにおられる。私たちの「言葉にならない呻き」と主は共にいてくださいます。このもっとも低きところにこそ、神ご自身のまことの権威があります。神さまからの命の光があります。

 

私たちが互いの「言葉にならない呻き」に耳を傾けるということは、この十字架の主イエスの叫びに耳を傾けるということにつながっています。私たちは互いの呻きを聴きあうことによって、十字架の主と出会います。

 

 私たちの日々の生活の中で、私たちは十字架の主イエスに出会います。弱くされ、小さくされた人々のところに主はおられます。人間の「声にできない呻き」があるところ、そこに主は共におられます。私たちと共に呻きながら、しかし私たちに「生きよ」と語り続けて下さっています。神さまからの、生きる力を与え続けて下さっています。

 

主が共におられることを信じ、私たちもまた自らの「声にできない声」を発してゆきたいと願います。そして、互いの「声にならない声」に耳を傾け続けてゆきたいと願います。