2015年7月19日「盲人バルティマイをいやす」

2015719日 聖書箇所:マルコによる福音書104652

「盲人バルティマイをいやす」



イエス・キリストとバルティマイとの出会い


本日の聖書箇所には、イエス・キリストとバルティマイという人物との出会いが記されています。舞台となっているのはヨルダン川の西岸にあるエリコという町です。エリコは現在はパレスチナ自治区の一つ「ヨルダン川西岸地区」と呼ばれる一帯にあります。イエス・キリストと弟子たちはエルサレムへ向かう途中、このエリコに立ち寄りました。


旅の目的地であるエルサレムでは、ユダヤ教の三大祭りの一つである過越しの祭りが行われようとしていました。エリコの町にもエルサレムへ巡礼に行こうとする人々が立ち寄っていたことでしょう。


巡礼者たちの耳には、「ナザレのイエス」がこの町に来ているといううわさが届いていたことと思います。病いを癒し、悪霊を追い出す驚くべき権能を持っているこの方が、イスラエルの新しい王となってくださる人物ではないか。一部の人々はそのような熱い期待を寄せていたようです。当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配下にありました。人々はイエス・キリストに、イスラエルの独立を取り戻す政治的な救世主の役割を期待していました。


主イエスと弟子たちがエリコを出て行こうとされた時、大勢の群集も一緒について行ったと福音書は記しています(46節)。未来の王となるかもしれない人物とぜひいっしょにエルサレムへ向かいたいという気持ちもあったのかもしれません。人々は気持ちが高まり、一種の興奮状態にあったであろうと想像できます。そのような中、道端に座っていたバルティマイはイエス・キリストと出会いました。


マルコによる福音書104652節《一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群集と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。/ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。/多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。/イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」/盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。/イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。/そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った》。


 


個人から発される小さな声


 福音書は、バルティマイが目が見えなかったことを記しています。自分で働くことができないので、バルティマイは道端に座り人々から金品をもらって何とか生活をしていました。当時は当然、社会福祉という概念自体がありません。バルティマイは社会から十分なサポートを受けることもなく、困難な状況の中を生きることを余儀なくされていたことが伺われます。


 バルティマイは、目の前を通り過ぎようとする行列の中に「ナザレのイエス」がおられると聞くと、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び始めました(47節)。


 バルティマイはすでに主イエスのことを何らかのかたちで知っていたのでしょう。誰かから主イエスについての知らせを聞いていたのかもしれません。バルティマイはこの方なら、自分を理解して下さる、自分を癒してくださると直感していたのでしょう。


人々はバルティマイを叱りつけて黙らせようとしましたが、バルティマイはますます大声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました(48節)。


 バルティマイのこの声というのは、イスラエルへの愛国心、民族愛に燃える人々にとっては異質なものとして聞こえたでしょう。人々が「イスラエル全体」のことを想っている中、バルティマイは「私という個人」から声を発しているからです。「ダビデの子よ、このわたしを憐れんでください」とバルティマイは訴えました。大勢の人々が主イエスを「政治的」な救世主として捉えていたところを、バルティマイはこの「私」の救世主として捉えたのです。


 愛国心が燃え上がる機運の中で、この声はいわば「空気を読まない」声として響きました。「全体」が盛り上がる中で発される個人的な声というのは、せっかく盛り上がっている空気を壊してしまうからです。だから人々は「黙れ」と言って、「個人」から発されるその「小さな声」をかき消そうとしました。しかしバルティマイは、人々から「黙れ」と言われようと、叫び続けることを止めませんでした。そしてそのバルティマイの声は、はっきりと主イエスの耳に届きました。


 主イエスは足を止められ、「彼を呼びなさい」とおっしゃいました(49節)。


 


「個人の尊厳」への願い


 すると、場の空気が一変しました。主イエスがバルティマイを「呼べ」と言ったことにより、人々のバルティマイに対する態度が一変しました。おそらくこの時初めて、そこにいた人々はバルティマイを「一人の人間」として認識したのでしょう。それまでは、道端に座る彼を、人格をもった「一人の人間」として見えてはいなかったのだと思います。彼に「バルティマイ」という名があることも知らなかったかもしれません。


 人々はバルティマイの方へやって来て、言います。「安心しなさい。立ちなさい。あなたを呼んでいる」(49節)。


バルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がって主イエスのところに行きます(50節)。脱ぎ捨てた上着というのは、バルティマイが人々から金品をもらうための入れ物として用いていたものだと思われます。バルティマイは自ら、その上着を投げ捨て、主イエスの前に進み出ました。


主イエスは目の前に立つバルティマイに、「あなたはわたしに何をしてほしいのですか」と問いかけます。バルティマイは「先生、見えるようになりたいのです」と答えました。それは言い換えれば「人間らしい生活をしたい」という心の底からの願いであったでしょう。


それまでバルティマイは、人間としての尊厳がないがしろにされた生活を強いられてきました。周囲から人格をもった「一人の人間」として認められることがありませんでした。自分の意思をもって自分の人生を選び取ってゆくことができませんでした。


「目が見えるようになりたい」というバルティマイの言葉は、「個人の尊厳」への心の底からの願いに基づいているということができると思います。主イエスは、バルティマイの内にあるその個人の尊厳への願いを、何よりも貴いものとして高く評価されました。


 バルティマイのその願いを受けて、主イエスは言われます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。


 


主イエスの力への信頼


ここでの「信仰」とは、「信頼」と言い換えることもできる言葉です。バルティマイの信頼が、バルティマイを救った。それはもちろん主イエスに対する信頼ですが、本日の物語に即して言えば、私たち一人ひとりに尊厳を取り戻してくださる主イエスの力への信頼、ということができます。


そしてその「信頼」こそが、神の御心に適うものでありました。主イエスがなそうとしておられたこと、それは「国家」であるイスラエルに栄光を取り戻すことではありませんでした。そうではなく、一人ひとりに「個人」に尊厳を取り戻すことでした。イスラエル全体ではなく、一人ひとりの個人の救いをこそ、主イエスは成し遂げようとして下さいました。


大勢の人々が愛国心に燃える中、バルティマイ一人が、主イエスの真意を理解したのです。それはバルティマイが人々から差別され、ないがしろにされている状態にあったからこそであったのかもしれません。自分が大切にされていない状態にあったからこそ、主イエスと出会いを通して尊厳が回復されることの願いが心の底からほとばしり出た。他の人々は愛国心に燃えるあまり、その願いがいまだ埋もれたままだった、ということになるでしょう。


 


「一人の人間」としてのバルティマイへ


「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。

 主イエスはバルティマイにおっしゃいました。すると、バルティマイは再び見えるようになりました。一つの奇跡が起こったわけですが、しかしここで言い表わされている根本的なことは、バルティマイの尊厳が取り戻されたということです。人格をもった、主体性をもった「一人の人間」としてのバルティマイが取り戻されたということです。


 バルティマイは、エルサレムの道へ向かう主イエスの後に従ってゆくことを選び取ります。バルティマイは、主イエスの弟子となりました。バルティマイのまったく新しい生き方が始まってゆきました。


 


イエス・キリストの福音に根ざして


 先日の16日には、安保法制が衆議院を通過しました。この度の与党の振舞いは、私たちの国が民主主義と言いながら、いかにそれが根付いていなかったかが露呈した出来事でもありました。民主主義の根本原理の一つは、「個人の尊厳」です。一人ひとりがかけがえのない存在であり、一人ひとりが主体性をもっていきる権利があるということ。それが土台となって初めて、民主主義というものが形づくられてゆくのだと思います。


 1946年に公布された日本国憲法は、「個人の尊厳」を宣言していました(憲法第13条、25条)。しかし、それがこの69年、まことには私たちの社会の土台とはなって来なかったということを、私たちはいま痛感させられています。今こそ、私たちは、個人の尊厳を取り戻してゆくべき時にいます。


 そのための力であるもの、それがイエス・キリストの福音です。イエス・キリストの福音は、神さまの目から見て、いかに私たち一人ひとりが尊い存在であるかを伝えて下さいます。私たちを大勢の中の一人ではなく、かけがえのない一人として、捉えていてくださいます。大勢の中から、バルティマイの声を聴きとどめて下さったように。バルティマイを立ち上がらせ、その尊厳を取り戻して下さったように。いまその福音の力は、私たち一人ひとりの力となってくださっています。


 今こそ私たちはこの福音の力に根ざし、共に一歩一歩歩んでゆきたいと願います。