2015年7月26日「エルサレムに迎えられる」

2015726日 聖書箇所:マルコによる福音書11111

「エルサレムに迎えられる」



エルサレム入城


本日の聖書箇所から、物語の舞台がエルサレムへ移ってゆきます。イエス・キリストの受難と十字架への道がいよいよ本格的に始まってゆきます。マルコ福音書はこれから終盤のクライマックスへ向かってゆくことになります。


 今日の聖書箇所は、イエス・キリストのエルサレム入城の場面です。主イエスが小さなろばに乗ってエルサレムへ入ってゆくこの場面はよく知られているものです。アシュラム運動の普及に尽力された牧師の榎本保郎先生は「自分は、イエスさまを乗せる小さなろばになりたい」とおっしゃり、「小さなろば」を短くして「ちいろば」と呼んでいたことは有名ですね。


マルコによる福音書11111節《一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、/言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。/もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」/二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。/すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。/二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。/二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。/多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。/そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。/「ホサナ。/主の名によって来られる方に、/祝福があるように。/われらの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。/いと高きところにホサナ。」/こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた》。


 


人々の期待と主イエスの真意のずれ


 ろばは日本ではそれほど身近な動物ではありませんが、イスラエルでは古くから家畜として飼われていた身近な動物であったようです。庶民にとって身近な動物であったのがろばです。対して馬は、権力者や軍人たちが乗るものでした。


 イエス・キリストが馬ではなく、ろばでエルサレムへ入られた、というところにまず一つのメッセージがあるように思います。しかも、幼い子ろばに乗って、入られた。


馬に乗ると周囲の人々を見下ろす高さになりますね。対して、子ろばに乗っても、立っているときとあまり目線の高さは変わらないでしょう。せいぜい頭ひとつ分高くなる程度でしょうか。主イエスがあくまでその場にいた人々と同じ目線に立っておられることが分かります。そして主イエスはその後、私たちよりもさらに「低き」ところまで降ってゆかれることになります。十字架というもっとも「低き」ところまで。本日の物語はその序章です。


一方で、主イエスに同行していた人々は主イエスとは異なる捉え方をしていました。主イエスはこの後、イスラエルの王となるための栄光の階段を上ってゆかれるはずだと考えていたのです。人々は、主イエスに未来のイスラエルの王となることを切望していました。それは、同行していた人々が、道に服を敷いたりして子ろばに乗る主イエスを称賛した動作からも分かります。自分の来ていた服を道に敷く動作は、王を迎える動作であるからです。


 人々とは、未来の王の到来を前に、熱狂して歌いました。910節《ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。/われらの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ》!


 「ホサナ」は「私たちをお救い下さい」という意味のヘブライ語です。イスラエルを救う救世主が来てくださった、という人々の熱い想いが伝わってきます。


 しかし主イエスはここで一言も言葉を発されていません。人々が騒ぎ立つ中、主イエスご自身は沈黙を守っています。それは先ほど述べましたように、イスラエルの王となることが主イエスの目的ではなかったからです。マルコ福音書の中で、本日の場面ほど人々の期待と主イエスの真意のずれがはっきりと浮き彫りになっている場面もないでしょう。


 


民衆による抵抗・独立運動


 なぜ人々は主イエスにイスラエルの王の役割を期待したのでしょうか。そこには、当時のイスラエルが置かれていた時代状況が関係しています。


当時イスラエルは、ローマ帝国の支配下にありました。強大なローマ帝国の、いわば属国的な位置にありました。ヘロデ王を始めとする権力者たちはローマに従順であることで自分たちの保身を図ろうとしていました。その屈辱的な状況に民衆が不満を抱いていたことは言うまでもないでしょう。イスラエルの権力者たちはローマの権威を後ろ盾にして、民衆に幾重もの税を課し、農作物を搾取し、人々の生活を苦しめていました。だからこそ、人々は自分たちを救い出してくれる「メシア(救世主)」の到来を待ち望んだのです。


 主イエスが登場する以前にも、ローマへの抵抗・独立運動は繰り返し起こっていました(参照:山口雅弘『イエス誕生の夜明け ガリラヤの歴史と人々』、日本キリスト教団出版局)。けれどもそれら運動は成功することはありませんでした。イスラエルの民衆による抵抗運動は、強大なローマの軍隊に容赦なく鎮圧されてしまっていました。村々は焼かれ、多くの人々がローマ軍によって殺され、奴隷にされてゆきました。


 主イエスも当然、周りの大人たちから抵抗・独立運動のことを聞いてお育ちになったことでしょう。人々の生活の苦しみ、悲しみもつぶさに御覧になり、身に染みて理解していらっしゃったはずです。「私たちをお救い下さい!」という人々の祈りが、主イエスの心から離れなかったはずです。主イエスが小さなろばに乗ってエルサレムに入城された姿にも、それら人々の想いと「連帯する決意」が表れているように思います。


 


徹底した「非戦」の思想


 主イエスは人々の願いを汲み取りながら、人々と固く連帯しながら、けれども同時に、人々の期待を超えてゆくかたちで、その後の道を歩まれてゆきました。


主イエスのご意志は、どの点においてイスラエルの人々の捉え方と異なっていたのでしょうか。まず一つとして、主イエスにおいて、徹底した「非戦」の思想が見られる点で異なっていると思います。主イエスは抵抗の手段としてであっても、戦争・戦闘行為を一切容認しておられなかった。主イエスは武力に対して武力で抵抗するという行動そのものを放棄しておられました。福音書を読んでいると、主イエスの言動は、徹底的に「非戦」の思想で貫かれていることが読み取れます。


主イエスが子ろばに乗ってエルサレムに向かわれた姿にも、その精神が表れているのかもしれません。馬は軍隊によって戦闘行為のために用いられるものでもあったからです。「軍馬」というものですね。あえて子ろばに乗るということは、自ら武装を解除し、戦闘行為を放棄するという意思表示でもあったのかもしれません。


当時、ローマに対して抵抗・独立運動をするということは、必然的にローマ軍と戦闘を行うことを意味していました。当然、多くの人の命が失われることが予測されるでしょう。主イエスはある目的のために誰かの命が犠牲になることをお認めになりませんでした。


 


徹底した「生命尊重」の思想


当時はイスラエルにも、国や民族のために戦死をするのであれば、それは栄誉の戦死である、という考えがありました。犠牲がむしろ推奨され、賛美される風潮がありました。しかし主イエスはこのような言葉を残してらっしゃいます。《人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。/自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか》(マルコによる福音書83637節)


たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失っては何にもならない。民族的な栄誉よりも、命こそが何よりも大切なものだ。沖縄の《命(ぬち)どぅ宝(=命こそ宝)》という言葉にも通ずる言葉です。


つまり、主イエスの「非戦」の精神の根底には、「一人ひとりの生命を第一とする」視点があるということが分かります。命の捉え方において、主イエスは当時の人々と一線を画しておられたのだと考えます。


主イエスは徹底して生命を大切になされるからこそ、あらゆる戦争・戦闘行為をお認めにならない。民族の栄誉のためであっても、命を失うことをお認めにならない。「イスラエルを取り戻す」ためであったとしても、誰かの命が失われることがあってはならないのです。


主イエスは人々の苦しみ、悲しみをつぶさに御覧になりながら、「一人ひとりの命が守られることこそが何より大切である」とのお考えを独自に育んでいかれたのではないかと想像します。


 


「個人の尊厳」を取り戻すために


 このように、命をこそ第一とするときに現れ出るのは、「個人の尊厳」という捉え方です。主イエスの福音において完全なかたちで実現されているのが、「個人の尊厳」です。


当時のイスラエルの人々が追い求めていたのは「イスラエルの栄誉」でした。「イスラエルの栄誉」が取り戻されれば、自分たちは苦しみから解放されると考えていました。しかしその栄誉を取り戻すために大勢の人の命が奪われ、尊厳が傷つけられるとしたら、その行為は本当にすべての人にとっての救いとなるのでしょうか。国家や民族のために戦う限り、誰かがそのために犠牲になるのであり、その時点で、「個人の尊厳」自体が消え失せてしまいます。


 主イエスは「イスラエルの栄光を取り戻す」ためにエルサレムに来られたのではありませんでした。そうではなく、私たち一人ひとりの「個人の尊厳を取り戻す」ために来られたのです。主イエスの宣べ伝えられた神の国とは、「私たち一人ひとりに神さまからの尊厳が確保されている場」のことを言います。その神の国の実現のため、主イエスは小さなろばに乗って、これから十字架への道を歩み出そうとしておられます。


 


平和の王なるキリスト


 主イエスがこの先着こうとしておられるのは宮殿の王座ではありません。十字架という王座です。そこには一切の武器はなく、敵対はなく、暴力や差別もありません。平和の王であるキリストは、あらゆる武装を解除されたお姿で、そこにおられます。私たちの目にはもっとも無力で無残に見えるお姿でそこにおられます。


 私たちの目にもっとも無力に見えるこの方のうちにこそ、私たち一人ひとりの尊厳を取り戻してくださる神の力があります。このお方に私たち一人ひとりのまなざしが立ち還るとき、私たちは「個人の尊厳」を取り戻すための、確かな力が与えられてゆきます。この力は《海から海へ、大河から地の果てにまで》及び、事実、いま私たちのもとへ届けられています。


 最後に、本日のエルサレム入城の出来事を預言する言葉として長らく読み継がれてきた旧約聖書の言葉をお読みします。ゼカリヤ書9910節《娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ》。