2015年8月2日「平和を実現する人々は、幸いである」

201582日 聖書箇所:マタイによる福音書59

「平和を実現する人々は、幸いである」


 


平和聖日


花巻教会が所属する日本キリスト教団は、毎年8月の第一週の礼拝を「平和聖日」と定めています。平和を覚えて、共に礼拝をささげる日です。


8月には私たちが忘れてはならないさまざまな出来事があります。1945年の86日には広島に原爆が投下され、9日には長崎に投下されました。また同日、旧満州ではソ連軍が侵攻を始め、多くの日本人の住居と命が奪われました。また花巻では翌日の810日に空襲がありました(花巻空襲)。そうして815日、私たちの国は敗戦を迎えました。

本日、皆さんと共に平和を覚え、平和への想いを新たにしたいと思います。


 


「平和を実現する人々は、幸いである」


いまお読みしました聖書箇所は、イエス・キリスト御自身の言葉です。《平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる(マタイによる福音書59節)

私たち一人ひとりには、主イエスから、平和を実現するという使命が託されているということができます。


 平和にはまず、国家と国家との間の平和ということがあります。それはつまり「戦争をしない」という意味での平和です。敗戦から70年を迎える今年、私たちは決して戦争をしないことの決意を共に新たにしたいと思います。


 また、平和とは、ただ国家間に「戦争がない状態」のみを指すだけではありません。たとえ戦闘行為が生じていなくても、私たちの間に貧困や抑圧や差別などが生じていたとしたら、それは平和ではない状態であるということになります。


また、身近な人間関係で対立や不正があるとすれば、やはりそこでも平和が失われているということになるでしょう。


 私たちは国と国とが戦争をしないことの平和を祈り求めると共に、私たちの社会に、私たちのこの教会に、私たちの家庭に、それぞれの身近な人間関係に、平和が実現してゆくように祈り求めてゆかねばならないでしょう。


 


個人の尊厳


 私たちが平和を実現することの源となるのは、「個人の尊厳」ということです。「個人の尊厳」とは、「一人ひとりの個人が、かけがえなく、貴い存在である」ということです。聖書は、それは私たち自身がただそう考えているだけではなく、他ならぬ、神さまご自身の目から見てそうなのだ、ということを伝えています。


私たち一人ひとりが、神さまの目から見て、かけがえなく貴い、ということ。「かけがえがない」ということは、「替わりがきかない」ということです。一人ひとりが「替わりがきかない」存在であるからこそ、私たちは互いを尊重し合ってゆかねばなりません。神さまからの尊厳を、何よりも大切に守ってゆかねばなりません。私たちは自分で自分の尊厳を傷つけてはならないし、また誰かの尊厳を傷つけてはならないのです。


 神さまから与えられている尊厳をないがしろにしない。その決意が、私たちが平和を実現してゆくための土台となってゆくのではないでしょうか。


 


戦争の非人間さ


 個人の尊厳が失われてしまうその最たるものが、やはり、戦争です。戦争というものは、個人の尊厳という考えからもっとも遠いところにあるものです。「人間が替わりがきかない」存在であるという考えをもっていれば、戦争をすることができません。反対に、「人間は替わりがきく存在である」という価値観をもっていて初めて、戦争は行うことができます。たとえば、兵士であるAさんが負傷したら、では代わりにBさんを。Bさんが戦死したら、では代わりにCさんを、というふうに。人間を道具とすることで初めて成り立つのが戦争です。


哲学者のカントは、「人を目的のための手段としてはならない」と言いました。人間を「目的(=国家の存立)」のための「手段(道具)」とすることの最たる例が、戦争です。それはもっとも非人間的な行いであり、もっとも人間の尊厳をないがしろにする行為です。


 


罪責の歴史を踏まえて


 しかし、私たちの国の歩みを振り返ります時、私たちはそのもっとも非人間的な行為を行ってしまったという過去があります。私たちの国はかつて戦争を行い、国内外の多くの人々の尊厳を傷つけ、多くの人々の生命を奪いました。とりわけアジアの諸国の人々には、植民地支配と侵略によって、多大なる損害と苦痛を与えました。


私たちが所属する日本キリスト教団もまた、戦時下において、国家を批判するどころかむしろすすんで協力をしました。聖書の言葉を曲解し、戦争に協力することを正当化するために利用しました。「キリスト教の戦争責任」という問題については、また823日の礼拝後の学びの時間において詳しく取り上げたいと思います。


日本はかつて戦争を行い多くの人々の生命と尊厳を奪った。私たち教会も、その戦争に加担した。動かすことのできないこの罪を、私たちはいまはっきりと見つめることが求められています。この罪責の歴史を踏まえ、この歴史を十分に学ぶことなしに、私たちは前へと進んでゆくことはできません。


 


米軍基地の問題


 戦後、焼け跡の中から多くの人々の心にともされたのが「決して戦争はしない」という祈りでありました。事実、この70年間、日本は国家間の戦争を行うことはありませんでした。


 けれどもこの70年、私たちの国がまことに「平和」な国であったと言えるかというと、決してそうは言えないことと思います。


「戦争がない」という意味での「平和」は保たれてきましたが、その「平和」という目的のために、沖縄の人々に米軍基地を押し付けてきました。日米安保体制に基づき、沖縄に永続的に米軍基地を押し付けることによって、本土の「平和」は保たれてきたのです。替わりに沖縄には米軍基地が集中し、アメリカが世界各地で戦争を行うための拠点となりました。沖縄の人々の生命と尊厳を犠牲にすることよって成り立ってきたのが、この70年間の「平和」でありました。本土の「平和」という「目的」のために、沖縄をその「道具」として犠牲にしてきた。そのことを思います時、この70年の「平和」とは、まことの「平和」ではなかったと言わざるを得ません。


しかも多くの国民はその構造に無知であり、無関心でした。私自身もその一人です。基地問題の深刻さに気が付いたのは、2011311日の震災以降のことです。私自身、自分の過ちを悔い改め、私たちの国にまことに平和が実現してゆくための最重要問題として、米軍基地の問題を考え続けてゆきたいと思っています。また基地あるのはもちろん、沖縄だけではありません。全国に米軍基地は存在しています。この国にいまだ存在する米軍基地の問題をどう考えてゆくか、いまを生きる私たちのもっとも大切な課題の一つです。


 


原発の問題


 また、私たちの国は敗戦からこの70年、経済的な「繁栄」という「目的」のために、自らと他者の尊厳をないがしろにしてきた部分がありました。「一人ひとりの生命と尊厳が守られること」よりも、「個々人の利益の追求」を優先させてきてしまったのです。


私たちは自分自身の「主体性」を一部放棄し、自分たちの命に関わる事柄を政治家たちに委ねてしまいました。その結果起こったのが、2011年の原発事故でありました。


私自身、原発事故が起こるまで、原発の危険性について考えたこともありませんでした。原発について無知でありました。神学生であった4年間は東京に住んでいましたが、東京に住みながら、福島第一原発で作られる電力をただ無自覚に享受していました。それはいま振り返ると、自分と他者の生命と尊厳に責任をもたない態度であったと思います。


あの大事故は日本に住む私たち一人ひとりに心の向きを変えることを迫る出来事でしたが、しかし、私たちの国は再び原発を再稼働しようとしています。ニュースでは九州電力の川内原発が今月の11日以降に再稼働されるとも報じられています。福島第一原発の処理はいまだ収束のめどもつかず、またいま現に放射能の影響によって人々の、とりわけ子どもたちの健康が損なわれている報告がなされているのも関わらず、です。

これら判断の背後には、人々の生命よりも自分たちの都合や利益を優先するという、という考えが見いだされます。つまり、人間の尊厳についての感覚が麻痺してしまっている状態です。私たちがいま喫緊に取り戻すべきは、人間の尊厳についての感覚です。


 


「一人ひとりの生命と尊厳を第一」としてくださった主イエス


 イエス・キリストの福音は、「神さまから見て、一人ひとりがいかにかけがえなく、貴いか」ということを伝えてくださっています。神さまからの尊厳を、徹底して私たちに伝えて下さっているのが、福音です。


 私たち花巻教会はこの一年、マルコによる福音書をご一緒に礼拝の中で読み進めてきました。マルコ福音書を通して私たちに伝わって来るもの、それが「一人ひとりの生命と尊厳を第一」としてくださった主イエスのお姿です。

主イエスは民族や国家の栄光よりも、個人の尊厳を大切にされました。律法を守ることよりも、人間の命を守ることを優先なさいました(マルコによる福音書316節)。神さまからの生命と尊厳が確保されることを第一の「目的」としてくださいました。


私たちが常に立ち還るべきはこのイエス・キリストの福音です。私たちはこの福音にこそ根ざし、そこからいまこの現実を正しく見つめ、発するべき言葉を発し、行動を起こしてゆきたいと願います。


いまの政治の状況を見ますと、私たちが進むべき方向とは反対の方向へと向かおうとしています。辺野古に基地を新設し、沖縄に基地がさらに永続的に置かれる方向へ進めようとしています。

また、「他国と戦争はしない」という一線だけは守ってきたこの国の方針さえも変えようとしています。政府は、憲法九条を解釈改憲し、集団的自衛権を認める法案を強行採決してしまいました。集団的自衛権をたとえ限定的にであっても認めるということは、アメリカと共に「他国に侵略的な先制攻撃ができるようになる」ということです。明らかに憲法に違反する法案が、いま通されようとしています。


このような状況であるからこそ、いま私たちはイエス・キリストの福音に立ち戻り、平和を実現してゆくために共に働いてゆきたいと願います。またこのような危機的な状況であるからこそ、個人の尊厳への祈りが私たちのうちにともされてゆくということがあるでしょう。事実、いま多くの人々の内に、個人の尊厳への願いがともされ始めているように思います。いま日本各地で行われている主体的なデモ活動もその一つでありましょう。個人の尊厳への願いは、国を超え民族を超え、思想を超え宗教を超え、あらゆる人の共通の願いです。


どうぞ私たちが、神さまから与えられている「生命と尊厳を第一とする」社会を実現してゆくことができますように。私たちがそれぞれ与えられた場で、そのための具体的な行動を起こしてゆくことができますように、共に祈りを合わせてゆきたいと願います。