2015年8月23日「権威についての問答」

2015823日 聖書箇所:マルコによる福音書112733

 

「権威についての問答」

 

 

 

「権威」という言葉

 

本日の聖書箇所には「権威」という言葉が出てきます。イエス・キリストの言葉と振る舞いに対して、何の権威でそのようなことをしているのか、と祭司長たちや律法学者たちが問う場面です。

 

私たちは普段の生活において、どのような場面で「権威」という言葉を使っているでしょうか。ある分野の第一人者のことを、「その分野の権威」と表現することがあります。または、人々を服従させる在り方を「権威主義」という言葉で呼ぶこともあります。権威という言葉は、よい意味にも使われますし、またはどちらかというと否定的な意味で使われることもあるでしょう。

 

 何に権威を感じるか、ということは人それぞれ異なるでしょうが、共通していることは、私たちは権威を感じる対象に対して、従順になる傾向があるということです。たとえば有名大学の教授というだけで権威を感じ、その人の言うことをそのまま受け取ってしまう、などということが起こりがちです(ただし最近はそのような傾向は減少しているでしょうけれど……)。

 

 身分制度が存在していた昔の時代は、それがさらに顕著であったことでしょう。たとえば江戸時代であったら、もっとも権威があったのは徳川幕府ですね。徳川家のシンボルは「三つ葉葵」の紋でした。水戸黄門のテレビシリーズでは、この紋が記された印籠を見せて、「控えおろう! この印籠が目に入らぬか!」と言うのが有名ですね。印籠を見た人々は皆、徳川家の権威を前に、「ははーっ!」とひれ伏します。

 

 この場面はあくまでテレビドラマでありますが、私たちの普段の生活においても、相手に権威を感じた瞬間、その関係性には上下関係が生じるということがあると思います。権威をもっている相手が上、自分が下、という関係性ですね。つまり、権威は、「支配」ということと関わりがあるようです。権威は人を従わせ、人を支配するものでもあるのですね。

 

 

 

権威についての問答

 

イエス・キリストが生きておられた時代、イスラエルの人々の間で権威をもっていたのは、祭司長、律法学者といった人々でした。これら人々は最高法院という議会を形成し、宗教的な事柄のみならず、政治的な事柄についても絶大な権限を持っていました。絶大な権威があると同時に、最高法院はイスラエルの人々の生活を支配していました。

 

先週の礼拝では、主イエスが神殿で最高法院の人々を批判した場面をごいっしょに読みました。最高法院の人々は自分たちの権威を利用して人々を支配し、民衆から金品を搾取していました。主イエスはこれら指導者たちのあり方、社会のあり方そのものを厳しく批判されました。その意志表示として、主イエスは境内の両替人の台などをひっくり返すという象徴的な振る舞いをなさいました。主イエスの言動を目にした最高法院の人々は、主イエスを殺す計画を立てた、と記されていました。

 

本日の聖書箇所は、そのような緊迫した状況の中で、主イエスと一行がエルサレム神殿を再び訪れるという場面です。最高法院の議員である祭司長、律法学者、長老たちは早速主イエスのもとにやって来て問い詰めます。

 

マルコによる福音書112728節《一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、/言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」

 

 祭司長、律法学者、長老たちが問題にしたのは、権威についてです。彼らは主イエスに対し、「あなたは何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問い詰めます28節)。暗に伝えたいのは、「最高法院の議員である私たちの許可もとらず、あなたは何を勝手なことをしているのか」ということでしょう。神殿のすべてを支配しているのは自分たちなのだ、という自負心が、言い換えれば、高慢さが見え隠れしています。

 

 しかし最高法院の人々が忘れてしまっていたことがあります。それは、神殿のまことの支配者は神さまであるということです。まことの権威者は神ご自身である。祭司長も律法学者もその神の権威に仕え、奉仕する者に過ぎないのに、そのことを忘れ、自分たちの肩に権威があると思い違いをしてしまっていたのです。

 

 

 

「人間が人間を支配することを認めない」

 

「まことの権威があるのは神お一人である」というのは、古代イスラエルの時代から一貫して伝えられている根本的なメッセージです。主なる神さま以外の何ものにも、まことの権威を認めない。どのような人間に対しても権威は認めない。たとえ国王であっても、権威は認めない。この古代イスラエルの考え方は、王制に絶対的な権威が帰されていた古代オリエントの世界にあっては、非常に革新的な考え方でした。エジプトやオリエントの国々では、王こそ神であり、神の子でありました。そのような考えが常識である中で、旧約聖書は「どのような人間に対しても権威は認めない。まことの権威があるのは主なる神お一人である」と宣言したのです。

 

 それは言い換えれば、「人間が人間を支配することを認めない」という考え方です。国の頂点にいる王であっても、ユダヤ教の頂点にいる大祭司であっても、人間が人間を支配することを認めない。まことの支配者は神お一人であるからです(参照:上村 静氏『旧約聖書と新約聖書――「聖書」とはなにか』、新教出版社、2011年、67頁)

 

 

 

預言者という存在

 

 最高法院の人々はその根本的な真理を失ってしまっていたわけですが、そのようなことは古代イスラエルの歴史においても、繰り返し起こってきました。気がつけば、神ではなく人間に絶対的な権威が帰されてしまう状態に陥ってしまう。そのような状態が繰り返し起こりましたが、その都度、その現実に警鐘を鳴らす人々が登場しました。それが、「預言者」と呼ばれる人々でした。

 

 日本語訳の聖書では「言葉」を「預かる」と書いて預言者と言いますね。神の意志を代弁して伝える活動をした人々です。有名な預言者としては、イザヤ、エレミヤなどの人物がいます。

 

預言者たちに共通しているのは、「まことの権威があるのは神お一人である」というイスラエルの信仰の原点に立って、常に言葉を発していることです。目の前にある現実は、それとは真逆の現実でした。王制が人々を支配し苦しめる現実、宗教的な指導者たちが人々を支配し苦しめる現実。預言者たちはそのような現実に対峙し、それを厳しく批判しました。たとえ相手が王であろうと祭司であろうと容赦はありません。「まことの支配者は神お一人である」ことを忘れた国はいつか滅びると、厳しい審きの言葉を伝えました。

 

 古代イスラエルにはこのように、国家権力と対峙し、その権威を批判・相対化する預言者という存在がありました。けれども、いつしかその預言者の伝統は途絶えていってしまいました。特にエルサレム神殿を中心とする国家体制が確立していったからは、その精神が途絶えてしまったのです。そうしてイスラエルは、「人間が人間を支配する」ことが当たり前の社会になってゆきました。その不条理な社会の構造の頂点にいたのが、最高法院の人々でありました。

 

 

 

洗礼者ヨハネ ~預言者の再来

 

 そのことを踏まえた上で、改めて最高法院の人々の問いに対する主イエスのお答えを見てみたいと思います。「あなたは何の権威で、このようなことをしているのですか」という彼らの問いに対して、主イエスは次のように問い返されました。

 

2930《イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。/ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」》。

 

 主イエスは問いに直接にはお答えにならず、洗礼者ヨハネのことを引き合いに出されました。洗礼者ヨハネはヨルダン川で「悔い改め」の洗礼を人々に授けていた人物ですが、主イエスがここでヨハネの名前を挙げているのは、このヨハネがまことの預言者であったからです。

 

 洗礼者ヨハネはいわば、旧約の預言者の再来でありました。ヨハネはかつての預言者たちのように、国家権力を痛烈に批判し、また神殿のあり方を痛烈に批判しました。人々はヨハネの内に、あの伝説的な預言者たちの精神が体現されているのを見て取り、ヨハネを熱烈に支持しました。ある人々はヨハネを、旧約の最大の預言者である「エリヤの再来」と信じました615節)

 

しかし、最高法院の人々はヨハネの言葉を無視し、またヘロデ王の息子であるヘロデ・アンティパスは自分を批判するヨハネを捕らえ、首をはねて殺してしまいました61429節)。権力者が預言者の命を奪ってその口を封じるという悲劇が起こってしまいました。

 

 主イエスはここで預言者ヨハネの名を挙げることによって、まことの預言者の言葉を受け入れなかった最高法院の人々の罪責を指摘しているのだと受け止めることができます。

 

 また主イエスの問いは、最高法院の人々の内に葛藤を生じさせました。3133節《彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。/しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。/そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」》。

 

 ヨハネの洗礼が「神からのものであった」と認めれば、ではなぜヨハネを信じその言葉を受け入れなかったのか、と問われることになります。一方で、「人からのものに過ぎない」と言えば、ヨハネをまことの預言者であると支持している周りの民衆が黙ってはいないでしょう。答えにつまった彼らは、「分からない」と答えます。すると主イエスも、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」とお答えになりました。

 

 

 

神のご支配 ~一人ひとりがかけがえなく貴い存在として

 

これらの言葉から、主イエスが洗礼者ヨハネを高く評価し、御自身もヨハネから預言者の精神を受け継いでおられることが伝わってきます。しかし、主イエスは預言者以上の方でありました。マルコによる福音書は、主イエスを「神の子」であると証ししています11節、1539節)。預言者であったヨハネは、主イエスの道を整え、その道筋をまっすぐにする存在でした125節)。ヨハネは主イエスを指し示しながら、「まことの権威があるのはこの方である」「この方こそまことの支配者である」と証しました。預言者とは、まことの権威を「指し示す」存在です。神の御子イエス・キリストは、まことの権威を「体現する」存在です。そこに、決定的な相違があります。

 

主イエスが体現して下さっているそのまことの権威。主イエスはそれを「神の国」という言葉で呼んでおられます。「神の支配」とも訳すことができる言葉です。

 

主イエスが現して下さった神さまの権威のあり方とは、人間を力づくで従わせたり、強制的に支配するようなものではありませんでした。そうではなく、私たち一人ひとりをあるがままに受け入れ、かけがえのない存在して尊重して下さるものでした。

 

一人ひとりに神さまからの尊厳が与えられている場、それが神の国であり、神のご支配のあり方です。イエス・キリストによって実現されている神の国の福音は、私たちを不条理な人間の支配から解放してくださる力であり、私たちをまことの自由へと導いてくださる力です。私たちに主体性を回復させる力、一人ひとりがかけがえのない「私」として生きてゆくことができるように、励まし勇気づけてくださる神の力です。

 

「人間が人間を支配することを認めない」、なぜなら、「まことの権威があるのは神さまお一人である」からです。そして、「神さまの目から見て、一人ひとりがかけがえなく貴い存在である」からです。

 私たちはいまこの根本的な真理に立ち還り、目の前の現実に対峙する「預言者」としての役割を取り戻してゆきたいと思います。