2015年8月9日「いちじくの木をめぐって」

20158月9日 聖書箇所:マルコによる福音書1112142025

「いちじくの木をめぐって」


 


いちじくの木に八つ当たり!?


本日の聖書箇所は、新約聖書の中でも一風変わった箇所です。お腹が減ったイエス・キリストがいちじくの木を見て、実がなっていなかったので、その木を枯らした、という場面です。いちじくの木はまだ実のなる時期ではありませんでした。空腹のあまり、いちじくの木に八つ当たりをした(?)ようにも読めてしまう箇所です。


もちろん、マルコによる福音書は主イエスが八つ当たりをしたという意味で、この場面を記しているのではありません。いちじくの木を通して、ある事柄を象徴的に表わそうとしているのだと考えられます。実のならないいちじくの木というのはある事柄の象徴なのですね。


 


聖書におけるいちじく


皆さんはいちじくの実はお好きでしょうか。庭にいちじくの木が生えているという方もいらっしゃるかもしれません。現在日本ではそれほど頻繁に食されるわけではありませんが、甘くておいしいですよね。実の中の、あの小さなツブツブした種の触感が独特です。パレスチナ地方では昔もいまも、いちじくは大切な植物であるようです。実はそのまま食されるだけではなく、乾燥させてお菓子や保存食としても用いられました。また干したいちじくは腫物や皮膚の病いを直すための薬としても利用されることがあったようです(列王記下207節)


いちじくは聖書の中でも重要な植物の一つです。旧約聖書の創世記から新約聖書の黙示録に至るまで、繰り返しいちじくが登場します。


聖書の中で、一番はじめに名前の出て来る植物が、いちじくです。創世記の、アダムとエバが自分たちが裸であることを知り、腰を葉っぱで覆う場面があります。アダムとエバが腰を覆ったその葉っぱがいちじくの木の葉でした(創世記37節)。エデンの園の知恵の樹の実は「りんご」というイメージが一般的ですが、アダムとエバが腰を覆ったのがいちじくの葉であることから、知恵の樹の実は「いちじく」であるとする伝承もあるそうです(参照:H&A・モルデンケ『聖書の植物』奥本裕昭編訳、八坂書房、1981年)


古代イスラエルではかようにいちじくというのは大切な植物でした。ぶどうの樹と並んで、いちじくの樹は価値の高い植物とされていたのですね。とりわけ人々に愛されていたのは、初なりのいちじく、つまりその年に初めになったいちじくの実です。


旧約聖書のミカ書には神さまご自身が初なりのいちじくの実が好物であるという言葉も出て来ます(ミカ書71節)。初なりのいちじくの実には「価高く、最上のもの」というイメージが伴うわけですが、神さまの言葉の中に初なりのいちじくが出て来る場合、それは「イスラエル民族」を指していることがあります。つまり、神さまの目から見て「価高い」もの、という意味で初なりのいちじくのイメージが用いられているのですね。《荒れ野でぶどうを見いだすように/わたしはイスラエルを見いだした。/いちじくが初めてつけた実のように/お前たちの先祖をわたしは見た》(ホセア書910節)


このように神さまにとって「価高い」存在として、イスラエルに初なりのいちじくの実のイメージが用いられているわけですが、旧約聖書では同時に、イスラエルの民が堕落してしまっている現状を、初なりのイチジクの実がない状態、とも表現されています。ミカ書712節《悲しいかな/わたしは夏の果物を集める者のように/ぶどうの残りを摘む者のようになった。/もはや食べられるぶどうの実はなく/わたしの好む初なりのいちじくもない/主の慈しみに生きる者はこの国から滅び/人々の中に正しいものはいなくなった》。


 


「イスラエル社会」の象徴としてのいちじく


 これら聖書におけるいちじくのイメージを踏まえて、改めて本日の聖書箇所を見てみると、不可解に思える部分も少しずつ理解がでてきてくるように思います。改めて、マルコによる福音書111214節をお読みいたします。《翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。/そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなっていないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。/イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた》。


 先ほどの聖書におけるいちじくのイメージから、ここでのいちじくの木とは、他ならぬイスラエルを象徴しているのだと受け止めることができます。


主イエスはガリラヤから、エルサレムへやって来ていました。イスラエルの中心地であり、エルサレム神殿があるエルサレムにやってきたわけですが、そこで主イエスが見いだしたのは、実がならないいちじくの木でした。つまり、主イエスの目から見て、イスラエルの社会は堕落してしまっていた。実のなっていないいちじくの木の姿に、その事柄が暗示されています。


主イエスはエルサレムに来て、どの点に失望されたのでしょうか。それは、エルサレム神殿を中心とした当時のイスラエル社会の在り方そのものであった、ということが示されています。


エルサレムに着いた主イエスはまず神殿の境内に入られ、辺りの様子を見て回られました1111節)。主イエスがそこで目にされたのは、神殿の境内で商売をし、不正な利益を上げている人々の姿でした。祈りの場である神殿が、民衆から財産を搾取する場となっていたのです1115節)。それは神殿だけの話ではなく、当時のイスラエルの社会の構造そのものが、そのような不正な搾取の構造となってしまっていました。


 それを目の当たりにされた主イエスが行ったのが、いわゆる「宮清め」の出来事、神殿で両替人の台などをひっくり返す、という出来事でした。神殿での出来事については来週詳しく取り上げたいと思いますが、この神殿での衝撃的な出来事を挟み込むようにして記されているのが本日のいちじくの木のエピソードです。


 主イエスは実が見当たらないいちじくの木に対して、《今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように》おっしゃいました。それはエルサレム神殿を中心とする当時の社会の在り方の「終わり」を宣言する言葉であった、ということができるでしょう。もうこのような腐敗した状況であっては、もはや実は結びえない。


 


根元から枯れていたいちじく


いちじくの木のエピソードの後半部をお読みいたします。112021節《翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。/そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、ご覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」》。


 翌朝早く、主イエスと弟子たちの一行は通りがかりに、いちじくの木が根元から枯れているのを見ます。主イエスが「終わり」を宣言したいちじくの木は、その言葉どおりに根元から枯れてしまいました。たとえ枝葉が枯れてしまっても、根が生きていたら、木はまた枝葉を生やすでしょう。しかし根元が枯れていたら、木はもはや再生することはできません。根元から枯れてしまったいちじくの木、それが当時のイスラエルの現状でありました。根本から変わらない限り、イスラエルの再生の道はありえない。主イエスはその現実を率直に指し示されていたのだ、と受け止めることができます。


 


「神さまからの尊厳」の象徴としてのいちじくの実


 イスラエルの社会が根本的に見失っていたものとは、本日はそれを、「私たち一人ひとりに与えられている神さまからの尊厳」、と受け止めたいと思います。


「尊厳」とは、言い換えれば、その人の「かけがえのなさ」ということです。神さまからの尊厳とは、神さまから見て、私たち一人ひとりがかけがえなく貴い、ということ。それがイスラエル社会において見失われてしまっていました。


旧約聖書のイザヤ書には《わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している》というイスラエルに向けての神さまの言葉があります。この神さまの愛に応え、私たちが互いを「価高い」ものとして尊重し合うということが、神さまが私たちに願っておられることです。


冒頭で、初なりのいちじくの実は「価高い」ものの象徴であるということを述べました。本日はこのいちじくの実を、「神さまからの尊厳」の象徴として受け止めたいと思います。


 


いちじくの実が消えた社会


私たちが互いを価高いものとして尊重し合う時、私たちの社会はいちじくの実をみのらせます。その初なりのいちじくの実を、神さまは喜んで収穫してくださいます。


一方で、私たちが互いに傷つけあい、互いの存在をないがしろにするとき、私たちの社会からいちじくの実は消えてゆきます。その様子を、神さまは悲しまれます。当時のエルサレムの社会は、そのような状態でした。街の中の至る所で、神さまからの尊厳が見えなくされている。その尊厳がもっとも確保されている場であるべき神殿が、もっともそうではない場所となっている。神殿で、宗教的な指導者たちは貧しい人びとから金品を搾取している。また神殿にて犠牲の献げ物をささげることばかりに専念し、神殿の周りで困窮し助けを求める人々のことを顧みることはない。イエスはその現状を御覧になり、深く悲しまれました。


 


福音に立ち還り


 別の福音書では、エルサレムに近づいて都を見た主イエスが涙を流された、ということ記しています。ルカによる福音書194142節《エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、/言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない」。》。


主イエスはエルサレムが近い将来、自ら滅びを招くであろうことを見抜かれていました。「もしこの日に、エルサレムが平和への道をわきまえていたなら……」。神さまからの尊厳をないがしろにする社会は、いつか自らを悲惨な状況へと至らせるでしょう。そうならないように、平和への道をわきまえてほしい。涙を流しながら、主イエスはそう痛烈に願って下さっています。


 私たちが平和への道を歩く、その土台となるのが神の国の福音です。福音とは、私たち一人ひとりに神さまからの尊厳を取り戻してくださる、神の力です。主イエスはその福音を伝えるため、私たちのもとへ来てくださいました。私たちはいま一度、この福音に立ち還ることが求められています。


私たち一人一人が、神さまから見て価高く貴いのだということ。誰一人として、決してないがしろにされたり、失われてはならないのだということ。私たちがそれを心に刻む時、平和への道が開かれてゆきます。


この福音を、私たちの社会の「土台」とし、私たちの社会の「根(根元)」としてゆかねばならないでしょう。この福音が根元にあるかぎり、その木は枯れ果てることはありません。たとえ枝葉が失われても、幹が切り落とされても、再び若枝を生えい出させるでしょう。


 


尊厳の実を結ばせる社会を目指して


主イエスは最期に次のようにおっしゃいました。112225節《そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。/はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。/だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。/また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」》。


ここで主イエスはここで神さまへの「信頼」と他者との「和解」ということを教えて下さっていますが、《祈り求めるものはすでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる》という一節があります。


神さまからの尊厳ということは、私たちが祈り求めている目標です。と同時に、すでに実現している現実でもあります。イエス・キリストを通して、すでに私たち一人ひとりはかけがえなく、貴い存在である。それがまことの現実です。


それがまことの現実であるからこそ、私たちは互いを尊重し合う社会を少しずつ実現してゆかなければなりません。私たちの間にいちじくの実を結ばせてゆかねばなりません。私たちの間から初めて実ったその果実を、神さまは最上の贈りものとして喜んでくださるでしょう。


共に神さまからの尊厳の実を結ばせてゆくことができるよう、共に歩んでゆきたいと思います。