2015年9月13日「復活についての問答」

2015913日 聖書箇所:マルコによる福音書121827

「復活についての問答」

 


 

「子孫の繁栄」こそが大切!?

 

本日の聖書箇所では、イエス・キリストとサドカイ派の人々との問答が記されています。サドカイ派とはユダヤ教の中のグループの一つであり、祭司や貴族階級で構成されていました。当時のユダヤ社会において最も権力をもっていた最高法院と密接な関係をもっていたグループです。

 

このサドカイ派の人々は「復活」を認めていませんでした。人間の命は一度限りのものであり、死んで後の世界があるとは捉えてはいなかったようです。サドカイ派の人々は旧約聖書の創世記から申命記までの「モーセ五書」と呼ばれる書を聖書として信奉していましたが、確かに、モーセ五書には「復活」についての言及は見られません。人間の命が有限なものであることを前提として、モーセ五書は記されています。

 

旧約聖書のモーセ五書が繰り返し語るのは、「子孫の繁栄」ということです。その背景にあるのは、たとえ個人が亡くなっても子孫が続いて行けば、大きな意味で、個々人はそこに生き続けてゆくのだという考え方です。死んで自分という存在は消えてしまっても、自分の家の名は残ってゆく。そのことによって、「死は終わりではない」という希望をもつことができたのでしょう。イスラエルの人々は古代より、「子孫の繁栄」こそが大切なことと捉えてきました。またそこに神さまのイスラエルへの祝福と約束があると信じ続けてきました。サドカイ派の人々はその伝統的な価値観を固く受け継いでいる人々であったということができます。

 

 

 

復活についての問答

 

 最高法院の人々は、主イエスを捕らえようと様子を伺っていました。サドカイ派の人々が主イエスのところにやってきたのは、背後に最高法院の働きかけがあったと予測されます。サドカイ派の人々は何とか主イエスを陥れようとし、「復活」を巡る議論を投げかけました。

 

マルコによる福音書121823節《復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところに来て尋ねた。/「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。/ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、後継ぎを残さないで死にました。/次男がその女を妻にしましたが、後継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。/こうして、七人とも後継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。/復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」》。

 

サドカイ派の人々の問いにおいて踏まえられているのは、モーセ五書の『申命記』に記されている律法です(申命記2556節)。その律法には「妻が夫に先立たれ、子どもがいない場合、夫の兄弟との子どもを残さなければならない」との内容が記されていました。「その家の名を、イスラエルの中に存続させてゆくため」です。

 

その律法に従って七人の兄弟の妻になった女性は、復活する時には誰の妻になるのでしょうか、とサドカイ派の人々は問います。このたとえは極端なものであり、現実にはほぼ起こり得ないことでしょう。現実味のない仮想の事例を用いて「復活」信仰を嘲笑おうとする意図が見え隠れしています。ある人はこのサドカイ派の人々の設問について、《机上の想定であって、生きた人間を考えない彼らの心の内が見て取れる。…あり得ない冷酷な空想だけが連ねられる》と言っています(徳善義和氏。『説教黙想 アレテイア マルコによる福音書』より)

 

サドカイ派の言葉からは、彼らの思考は頭の中だけで完結しており、「生きた人間」を考えてはいないことが伝わってきます。特にこの質問においては、女性に対しての差別的な内容を含んでいます。彼らの言葉からには女性に対しての配慮がまったく欠けており、語弊のある表現をあえて用いますと、彼らが女性を「子孫存続」のための「道具」であるかのように捉えていることを感じさせます。

 

 

 

「子孫の繁栄」よりも「個人の尊厳」を

 

サドカイ派の発言を受けて、主イエスはおっしゃいました。2425節《あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。/死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ》。

 

主イエスはサドカイ派の人々に対し、「あなたたちは思い違いをしている」と語ります。聖書を熟知していると自負していたであろうサドカイ派の人々に対し、主イエスは「あなたがたは聖書も神の力も知らない」とおっしゃいました。続けて主イエスが語った言葉に注目したいと思います。《死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ》。

 

当時、世界の終わりの日に、人間は「天使に等しい存在となる」という考え方があったようです。主イエスの言葉もそれを想起させるものですが、主イエスがサドカイ派の問いを踏まえた上で、この言葉を発せられているところが重要です。復活においては、もはやめとることも嫁ぐこともない、つまり「子孫を残す」「残さない」は問題とはならない。それとは一切切り離されて、天において女性は「天使のように貴い存在」となる。

 

主イエスはサドカイ派の人々が最重要課題としている「子孫の繁栄」よりも大切なことがあることをここで提示してくださっているのだと思います。そのもっと大切なこととは、「個人の尊厳」です。

 

人間は、子孫を残してゆくだけの存在ではない。「子孫繁栄」に最大の価値を置く考え方においては、女性はその目的のための「道具」のような存在とされてしまう危険性があります。もちろん、命のバトンを未来へとつないでゆくことは大切なことであり、貴いことです。けれども、そのこととは切り離されて、無条件に、「わたし」という存在が神さまの目から見て「かけがえなく、貴い」ことを知ること。それ第一に重要なことである。主イエスはそうおっしゃってくださっているのだと本日は受け止めたいと思います。サドカイ派の人々は、その何より大切なことを、いまだ理解していなかったのです。

 

 

 

「個人の尊厳」を踏まえた「復活」信仰

 

一人ひとりが神さまの目から見て、かけがえのない存在であるということ。だからこそ、主イエスは「復活」ということをお語りになります。一人ひとりの存在が決して失われてはならないからこそ、「永遠の命」ということをお語りになります。主イエスのおっしゃる「復活」信仰とは、神さまの目から見た「個人の尊厳」を踏まえた「復活」信仰であるということができるでしょう。

 

《死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ》――。主イエスはこの言葉をもって「子孫繁栄」という束縛から、女性たちを解放してくださいました。そして、すべての人間における「個人の尊厳」を宣言してくださいました。

 

 旧約聖書の創世記には、神さまはご自分に「かたどって」人間を創造されたことが記されています。神さまに「かたどって」、神さまに「似せて」、人間は造られた。「天使のようになる」という主イエスの言葉は、この創世記の記述をも、私たちに思い起こさせます。私たちは創造の始まりから、そのような尊厳を、神さまから与えられているのです。

 

 

 

アブラハム、イサク、ヤコブは「いま生きている」

 

 私たち人間が「天使のような」本来の輝きを取り戻すこと、尊厳の光を回復すること、それはこの世界の終わりの日に実現されることなのでしょうか。いまはまだその日は来ないのでしょうか。

 

 主イエスご自身は、それを、「遠い未来」のこととは考えてはおられなかったようです。未来に実現することはなく、「いま」、いまこの時実現するべきこと捉えておられました。ご自分を通して、一人ひとりが本来の輝きを取り戻す時がいま到来しようしている。主イエスはまもなく到来しようとしているこの時と場を「神の国」と呼ばれました。

 

 115節《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》――。

 

 主イエスは「神の国」がいま到来しつつあるものであることを、続く2627節で指し示しておられます。2627節《死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。/神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている》。

 

 主イエスがここで引用しておられるのはサドカイ派の人々が引用したのと同じモーセ五書の中の『出エジプト記』の一節です(出エジプト記36節)。主なる神が燃える柴の間から、モーセに向かって《わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である》とおっしゃった際の言葉です。

 

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言う表現は、伝統的にはイスラエルの「子孫の繁栄」を象徴ものとして受け止められてきたことと思います。アブラハムとその子孫が神さまの約束によって繁栄してゆく、という捉え方ですね。

 

 対して、主イエスはここで新しい解釈の仕方を提示しておられます。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表現は、彼らが「いま生きている」ことを示しているのだと主イエスは捉えておられます。死んでいる存在には、神さまはこのような言い方をなさらない。神がこのような表現をなさったのは、アブラハム、イサク、ヤコブという個人がいまもなお、神のもとで「生きている」からであると、と。《神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ》――。

 

 アブラハム、イサク、ヤコブに代表される個々人はいますでに、「神の国」において、天使のように本来の輝きを取り戻した存在として「生きている」。神さまから見てかけがえのない存在である個々人は、決して死をもって消え去ることなく、いまも神さまの命の中を「生きている」。その「神の国」がこの地上に到来しようとしている「いま」、あなたがたもその天使の一員に加わる。主イエスはそう伝えて下さっています。主イエスは「遠い未来」ではなく、「いま」、私たち一人ひとりに神さまからの尊厳の光を取り戻そうと願って下さっています。

 

 

 

「未来」ではなく「今」!

 

 かつてガリラヤの地で、エルサレムで、「神の国」の到来を祈り求めてくださった主イエス。その主イエスの祈りはいまも、私たちの間にともされています。《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》――。

 

主イエスはいまも、私たちに語りかけておられます。私たちが神さまからの尊厳の光を取り戻して、共に生きてゆくことができるように。私たちが互いに互いを、神さまの目から見てかけがえのない存在として見つめながら生きてゆくことができるように。

 

私たちのいま生きている社会の現実は、主イエスの祈りとはかけ離れた状況にあります。神さまからの尊厳がないがしろにされ、人間が「替わりのきく」存在として軽んじられている状況があります。国家が打ち出しているさまざまな政策は、人間の生命と尊厳を軽視しているという共通項があります。原発の再稼働、辺野古への基地移設、安保法制など、私たちの生命と尊厳の侵害につながる政策が次々と進められようとしています。このような状況の中にあるからこそ、私たちは「いま」、主イエスの祈りに私たちの心を向け変えてゆく必要があります。

 

いまこそ、主イエスの祈りに私たち自身の祈りを合わせてゆきましょう。一人ひとりに、神さまからの尊厳の光が取り戻されますように。「未来」ではなく「いま」、私たちがそれを実現してゆくために、共に歩み出してゆきましょう。