2015年9月27日「最も重要な掟」

2015927日説教 

聖書箇所:マルコによる福音書122834

説教題:「最も重要な掟


 

最も重要な掟 ~神を愛し、隣人を愛する


旧約聖書には、律法という神さまから与えられた掟が記されています。数多くの掟が記されており、ユダヤ教では旧約聖書には613もの掟が記されているとする解釈があるようです。数え方によっては、さらに多くの掟が記されているとすることもできるかもしれません。そのように旧約聖書にはたくさんの掟が記されているわけですが、では、それら掟の中で中心となる掟はどれなのか、という問いが生じます。


ユダヤ教では伝統的に、これら律法の教えは、二つの主題に集約できると考えてきました。それは、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」です。


本日の聖書箇所ではイエス・キリストが最も重要な掟について述べられています。主イエスのここでの言葉は、旧約聖書から大切に受け継がれてきたこの精神を踏まえたものであるということができます。


改めて、マルコによる福音書122834節をお読みいたします。《彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」/イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。/心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』/第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」/律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。/そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」/イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった》。


 


旧約の時代から受け継がれてきた精神


主イエスは旧約聖書の律法の中から、「神を愛すること」「隣人を愛すること」を端的に命じている掟を選び出され、最も重要な掟とされました。


主イエスが選ばれた第一の掟は、《イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。/心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい》です(2930節)。「神を愛すること」を教えるこの掟は、申命記645節に記されています。ユダヤ教では「シェマー」と呼ばれ、毎日唱えられている言葉です。イスラエルの人々にとっては幼い頃から毎日唱えている言葉であり、体に染みついている掟であるということができるでしょう。


主イエスが選ばれた第二の掟は、《隣人を自分のように愛しなさい》です(31節)。「隣人を愛すること」を教えるこの掟は、具体的にはレビ記1918節に記されています。


旧約聖書の時代から受け継がれてきたこの精神は新約聖書にも受け継がれ、キリスト教においてもやはり「神を愛し、隣人を愛すること」はキリスト者の生き方の根幹となるものとされてきました。


 


言葉と振る舞いの乖離


「神を愛し、隣人を愛する」という教えは私たちにとってなじみ深いものであると同時に、言葉だけのものになってしまう危険性が多々あるものでもあります。言葉としてはそれを熟知していても、実際に行動が伴っていないも私たちには多々あることでしょう。


 新約聖書のヤコブの手紙という書には、そのような信仰者の姿を批判する言葉が記されています。ヤコブの手紙289節《もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。/しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます》。どれだけ「隣人を愛する」ということを口で言っていても、実際の振舞いがそのことと相容れないものであるのなら意味がないとヤコブの手紙は厳しく批判します。この手紙が書かれた当時、教会の中には、「隣人を愛する」と言いながら実際には「人を分け隔てしている」人々がいたようです。言葉だけが宙に浮いたようになり、内実がそれに伴わないということは、私たち自身にも繰り返し起こっていることでしょう。


 


「隣人を、あなたと同じ人間として、大切にしなさい」


 本日は特に、最も重要な掟における第二の掟、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟に焦点を当ててみたいと思います。先ほども申しましたように、この掟はもともとは、旧約聖書のレビ記19章に記されている掟です。


該当の掟の部分をヘブライ語の原文から一度訳し直してみますと、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい」となります。「~のように」と訳した語は、「~として」と訳すこともできます。その場合、「あなたの隣人を、あなた自身として愛しなさい」という訳になります。英語で言うと、「like(~のように)」と「as(~として)」の違いですね。


「あなた自身のように」と訳すか、「あなた自身として」と訳すかはどちらも可能であるわけですが、本日は後者の解釈をとって、「あなた自身として」と訳してみたいと思います。この掟は元来、隣人を自分と「同じ人間として」尊重することの大切さが言われている掟であると考えるからです。レビ記19章の掟を私なりに訳してみますと、「隣人を、あなたと同じ人間として、大切にしなさい」となります。


「愛する」ではなく、「大切にする」と訳したのは、ここでは相手を「好きになる」「愛する」という感情というよりも、隣人に対する具体的な態度、行為が問われていると考えるからです。極端なことを言えば、いまは相手のことが好きになれなくてもよい。たとえいまは相手のことを好きになれなくても、それでも、相手を「自分と同じ人間として」尊重すること、敬意をもって接すること、公正に接することがここで問われているのだと思います。少なくとも、相手を不平等に扱ったり、相手の人格を攻撃したり、相手の尊厳を傷つけようとするということはしない。


私たちの心の中にある感情は、急に無理やり変えることはできません。いまは好きになれない相手を無理に「愛そう」と自分自身に強制することは不可能なことですし、またすべきことではないでしょう。主イエスは私たちにそれを強制されることはないでしょう。

ただし、その相手を「自分と同じ一人の人間として」尊重することはできます。それはいますぐにでも、実行しようとしれば実現可能なことです。


 


「自分と同じ人間として」見ることができない現実


 と言いつつも、私たちの普段の生活を顧みます時、周囲にいる人々を「自分と同じ人間として」見ることができていないことが多いことを思わされます。目の前にいる人もまた自分と同じように人格をもち、神さまからの尊厳をもち、自分と同じように悩み喜びながら生きているという当たり前のことを忘れがちになってしまいます。周囲の人々が自分にとって「敵」のように見えたり、人格のない「モノ」のように見えたり、理解不能な「宇宙人」のように見えてしまう時もあるかもしれません。私たちはなかなか、目の前にいる人を「自分と同じ人間として」尊重することは難しい。人を分け隔てしてしまうのが私たちの現実です。


どうしたら私たちは、いま目の前にいる隣り人を、「同じ一人の人間として」見ることへと立ち還ることができるでしょうか。


自分ひとりの力だけでは難しいかもしれません。だからこそ私たちは教会に集い、神さまからの語りかけに共に耳を傾けています。私たちだけは成し遂げることが難しい事柄に対して、イエス・キリストは私たちと共に成し遂げていってくださいます。


 


「わたしの目にあなたは価高く、貴い」


 主イエスはいま、この「私」にどのようにお語りになっているでしょうか。主イエスが私たち一人ひとりにいつもお語り下さっていること、それは「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」ということです(イザヤ書434節参照)。


 主イエスはこの「私」を、一人の人間として受け入れて下さっています。のみならず、価高く貴い、かけがえのない存在として見つめ、尊重して下さっています。イエス・キリストと向かい合う時、私たちはその真実を知らされます。自分の目に、いかに自分が価値のない存在のように思えても、神さまの目から見て、「私」という人間は、かけがえのない、いとおしい存在であるのです。私たちが立ち還るべきは、この主イエスのまなざしです。私たちは礼拝において、この主のまなざしと出会います。事実、いま私たちはこの主のまなざしの中に迎え入れられています。私たちはいま、「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」という主の言葉を聴いています。


 


主のまなざしに立ち還り


 この主のまなざしに私たちのまなざしを合わせてみる時、世界はまたまったく違って見えてきます。この主のまなざしと共に、周囲の人々を見てみるとどうでしょうか。その人々が「自分と同じ神に愛された人間」であるということが分かります。主のまなざしに私自身のまなざしを合わせてみたそのとき、隣人はまったく新しい存在として見えてくることでしょう。その人は恐ろしい「敵」ではなく、人格のない「モノ」でもなかった。私と「同じ一人の人間」であるのだ、と。神さまの目から見て、かけがえのない、いとおしい、「一人の人間」であるのだ、と。


 目からウロコが落ちるようなその発見は一瞬のことであるかもしれません。気が付くと、私たちはまた普段の私の意識に戻っています。相手を「同じ人間として」なかなか見ることができない普段の自分に戻っています。そのときは、また、主イエスのまなざしに立ち還ればいいのでしょう。何度でも、私たちは立ち還ってゆくことができます。その繰り返し、積み重ねが、「神を愛し、隣人を愛する」歩みへと私たちを導いてゆきます。


 どうぞ主に助けを求めたいと願います。私たちが主のまなざしに立ち還ってゆくことができますように。主が私たちをかけがえのない存在として見つめて下さっているように、私たちも互いをかけがえのない存在として見つめ、具体的に尊重し合ってゆくことができますように。