2015年9月6日「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」

201596日 聖書箇所:マルコによる福音書121317

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」

 

 

 

よく知られたイエス・キリストの言葉

 

本日の聖書箇所には、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というよく知られたイエス・キリストの言葉が出てきます。私たちがいま読んでいる新共同訳聖書の前の、口語訳聖書では、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と訳されていました。カイザルとは、ローマ皇帝のことです。

 

「皇帝のものは皇帝に」。この言葉はことわざのように、「物事を、ふわさしいところに戻す」という意味で用いられることもあります。日常生活の中で使用されることのある聖書の言葉の一つですね。

 

このイエス・キリストの言葉をどう受け止めるかについては、さまざまな解釈があります。ある人は、この主イエスの言葉に、「政教分離」の考えを読み解きます。政治的な事柄と宗教的な事柄を切り離して考えるという、政教分離の考えをそこに読み取るのですね。政治の問題は政治の問題、宗教の問題は宗教の問題として切り離して考える。この解釈においては、主イエスは条件付きで、ローマ帝国の権威を認めておられるということになります。「条件付き」と言いますのは、ローマ帝国の権威があくまで主なる神さまの権威の下にある限り、という意味です。ローマ皇帝の権威が神さまの権威のよりも上に立とうとする時は、その時ははっきりと「否」と言わねばならないことになります。

 

一方で、いや、この主イエスの言葉は国家の権威に従順であるべきことを言っているのではなく、反対に、権力者たちを暗に批判している言葉なのだ、と読み解く人もいます。「皇帝のもの」というのはローマ皇帝への人頭税を意味し、「神のもの」とは、エルサレム神殿への神殿税をはじめ搾取される一切のものを意味しているのだと捉えます。主イエスはここで、政治的・宗教的な搾取のシステムを批判しているのだ、という解釈です(田川建三氏)

 

本日の主イエスの言葉は、このようにさまざまな読み取り方が可能な言葉です。この主の言葉はそもそもはどのような文脈で語られたものであったのか、まずご一緒に見てみたいと思います。

 

 

 

納税についての問い

 

主イエスの言葉じりを捉えて陥れようとして、ファリサイ派とヘロデ派の人々がやってくるところから、本日の物語は始まります。彼らはまず主イエスを持ち上げて、次のように言います。《先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです》(14節)。

 

主イエスが人の顔色をうかがうことはせず、自分の信念を貫いて行動しているということを、あえてここで確認しています。次に用意している問いに主イエスが正直に答えるようにと、あらかじめ牽制をするという意図もあるのかもしれません。

 

 その上で、彼らは主イエスに問いかけました。《ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか》。

 

 ここで問題にされている「税金」とは、ローマ帝国に納める税金のことです。当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国はイスラエルの人口調査を実施し、町によっては、登録された者すべてに「人頭税」と呼ばれる税金を課していました。所得に関係なくすべての人に一律に課されるこの税金は、イスラエルの人々に大きな負担を強いていました。

 

経済的な負担であるのはもちろんのこと、この課税はローマへの従属を想い起こさせるものであり、精神的な屈辱を与える制度でもありました。なぜイスラエルの人々がローマへの従属を耐えがたく思っていたか。その一因として、ローマ皇帝が自らを「神」としていたことがあります。

 

当時のローマ皇帝は自らを「神」と名乗り、人々が皇帝を崇拝することを求めていました。皇帝を礼拝することは、イスラエルの人々にとっては、「神ならぬものを神とし、礼拝する」という最も重い罪、「偶像礼拝」の罪に当たりました。

 

本日の物語に登場するファリサイ派の人々はローマ皇帝への納税を信仰の問題として捉え、税を納めることに関しては否定的でした。信仰者として、ローマ皇帝に納税をすることは否定する、という考え方ですね。対して、ヘロデ派の人々はこれを政治的な事柄として捉えていました。イスラエルが生き残ってゆくためにはローマ皇帝に従順である必要があるとし、税を納めることを肯定する、という考え方です。

 

この両者が主イエスを捕らえるために結託し、主イエスに問いを投げかけたのです。《皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか》。

 

 もしも主イエスがローマ皇帝への人頭税を「納めるべきではない」と言ったら、ローマに対して反乱を企てる者として、ヘロデ派の人々が告発するつもりであったのでしょう。

 一方で、もしも主イエスが「納めるべきだ」と言ったら、偶像礼拝を承認する者として、ファリサイ派の人々が告発するつもりであったのでしょう。

 

 どちらの返事をしても、主イエスにとっては不利な結果となることが予想されます。主イエスを陥れるのにうってつけの話題として、彼らはこの問いを投げかけたのでした。

 

 

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」

 

 主イエスは、ファリサイ派とヘロデ派の人々がご自分を陥れるためにこの話題を持ち出したことを見抜かれて、おっしゃいました。15節《イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」》。

 

「イエス」か「ノー」かのどちらかの返事を期待していたファリサイ派とヘロデ派の人々は意外に思ったことでしょう。不可思議に思いながらも、彼らは主イエスの指示通り、デナリオン銀貨を持ってきました。

 

デナリオン銀貨とはローマ帝国の貨幣のことですが、そのコインの表面には皇帝の肖像と「神であるアウグストゥスの子、ティベリウス・カエサル・アウグストゥス」という言葉が刻んでありました。ローマ皇帝は「神」であるということが、貨幣にも記されてあったのですね。

 

このローマ貨幣はイスラエルでは、神殿に持ち込むことが認められていませんでした。皇帝を「神」とするような貨幣を聖なる神殿に持ち込むことは冒瀆的であると考えられていたのでしょう。よって人々は、神殿に納税するためには、神殿の境内にてローマ貨幣をイスラエルの古代の貨幣へと両替しなければなりませんでした。エルサレム神殿の境内に両替人がいたのはそのためです(マルコによる福音書1115節)

 

1617節《彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、/イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った》。

 

主イエスは彼らが持って来たデナリオン銀貨を指して、「これは、誰の肖像と銘か」とおっしゃいます。彼らは「皇帝のものです」と答えます。そうして、主イエスはおっしゃいました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」――。

 

 

 

人間存在についての問い

 

「皇帝のもの」とは、ローマの貨幣のことを意味しています。ローマ貨幣には皇帝の「像」が刻まれている。つまりローマ貨幣は皇帝のものであるのだから、それは皇帝に返したらよい。主イエスはここでユーモアをもって、また皮肉をもって、そのようにお答えになりました。

 

 では、ここで新しく言及されている「神のもの」とは何でしょうか。それは、私たち人間のことです。主イエスはすべての人間が等しく「神さまのもの」であることを想い起こさせようとしておられます。すべての人間が「神さまのもの」であるその証拠は、一人ひとりに神の「像」が刻まれているということです。

 

創世記127節)は《神は御自分にかたどって人を創造された》と語っています。神さまご自身の「像」が、私たち人間には刻まれているというのですね。ローマの貨幣にはローマ皇帝の「像」が刻まれていましたが、私たち人間には、神さまご自身の「像」が刻まれている。主イエスはローマの貨幣を引き合いに出しながら、そのことをこそ、思い出させようとしておられます。

 

ファリサイ派とヘロデ派の人々は「納税をどう捉えるか」について問いかけましたが、主イエスは「人間をどう捉えるか」ということが根本的に大切な問題だと考えておられたことが分かります。そのことから、あらゆることを見つめ直すべきことを求めておられます。

 

 

 

「人間が人間を支配することは許されない」

 

 私たち人間は「神さまのもの」であるということ。神さまの「像」が刻まれた存在であるということ。それは言い換えれば、「人間が人間を支配することは許されない」ということです。たとえローマ皇帝であっても、神さまの「像」が刻まれている人間を、支配することは許されない。すべての人間は「神さまのもの」であるというこの視点をもって、主イエスはローマ皇帝の権威をはっきりとしりぞけておられることが分かります。その意味で、主イエスはここでもっとも根本的な仕方で、ローマ帝国の権威を否定しておられるということになります。ローマ皇帝への納税を肯定しているように見せかけながら、「人間が人間が支配し、搾取している」という当時の社会の構造そのものを批判されたのです。

 

 

 

天賦人権説

 

「天賦人権説」という考え方があります。すべての人は神さまによって平等に創られているのであり、すべての人が幸福に生きてゆく権利があるとする考えです。人権というものは一人ひとりの人間に、生まれながらに天から与えられているのだという考えで、近現代の人権思想の基盤となってきた考え方です。本日の主イエスの言葉は、その生まれながらの人間の権利を指し示して下さっているもの、と受け止めたいと思います。

 

 神さまは一人ひとりの人間を「神さまにかたどって」創って下さった。神の「像」が刻まれた存在として、かけがえのなく貴い存在として創って下さった。だからこそ、私たちは相手の生まれながらの権利を奪ったり、互いに傷つけあったりしてはなりません。

 

 ローマ皇帝が何であるか。ローマの貨幣が何であるのか。あなたたち人間は、神さまの「像」が刻まれた存在ではないか。すべての人間が、そのような存在であるではないか。主イエスは私たち一人ひとりに、その誇りを取り戻させようとして下さっています。そのことをもって、あらゆることを見つめ直してゆくべきことを教えて下さっています。

 

 当時のイスラエルの人々が直面していた問題は、ローマ皇帝への納税の是非の問題でした。私たちもまた現在、さまざまな問題に直面しています。是非が問われている問題もさまざまにあり、またすぐに是非を判断することが難しい問題もあるでしょう。いずれにしましても、私たちはいま目の前にある課題に向かい合うにあたり、一人ひとりが「神さまのもの」であるという真理に常に立ち還らねばなりません。一人ひとりに神の「像」が刻まれているということ、神さまの目から見てかけがえなく貴いのだということ、そのことを土台として、あらゆることを問い直してゆかねばなりません。

 

 

 

「あなたはわたしの愛する子」

 

 ローマの貨幣には皇帝の「像」と「皇帝は神の子である」とする言葉が刻まれていました。私たち一人ひとりには、神さまご自身の「像」と、そして、「あなたはわたしの愛する子」という神さまご自身の言葉が刻まれています。

 

主イエスは私たちに神さまの「像」を取り戻させるため、「あなたはわたしの愛する子」という神さまの言葉を刻みこむため、私たちのもとにやってきてくださいました。私たちはいま、イエス・キリストを通して、私たちの存在を貫く神さまご自身の声を聴いています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」111節)。いま共にこの声を心に刻み込み、ここからそれぞれの場所へと派遣されてゆきたいと思います。