2016年1月1日「見よ、それは極めて良かった」

201611日(金)新年礼拝説教

聖書箇所:創世記12631

 

「見よ、それは極めて良かった」

 

 

 

今年は申年

 

新しい年のはじめに、皆さんとごいっしょに神さまに礼拝をささげることができますことを、感謝いたします。今年一年、皆さんの上に、主の恵みとお守りがありますようにお祈りいたします。

 

今年は干支では申年ですね。昨年は羊年でした。羊は聖書とも関係が深い動物です。聖書には数えきれないほど羊が出てきます。まさに聖書を象徴する動物であるということができますが、では、猿はどうでしょうか。

 

聖書に猿が登場するのは、二カ所だけです。旧約聖書の列王記上10 22節と歴代誌下9 21節です。船に乗せる貴重な動物として、一瞬、猿が登場します。羊に比べて、猿は聖書にはほとんど登場しないと言ってよいでしょう。

 

しかしキリスト教の歴史では、猿は別の文脈の中でよく登場します。進化論をめぐる議論においてです。

 

 

 

進化論をめぐって

 

私たちは猿と共通の子孫から分かれ、進化して現在に至っているという進化論の考えは今では周知のものとなっています。しかし、進化論が普及し始めた当初、キリスト教会はこの考え方に仰天し、激しく否定しました。聖書の創世記は、天地創造の際に神さまが初めの人間としてアダムとエバを創造された、と記されているからですね。聖書にはっきりとそう記されているにも関わらず、進化論者はそれを否定し、あろうことか、「人間が猿から生まれた」と主張している、許し難い冒涜だ、ということで教会は激しく反発しました。正確には進化論は「人間は猿から進化した」主張しているのではなく、「人間は猿と共通の祖先である類人猿から枝分かれし、進化して現在の姿になった」ことを言っているわけですが、進化論が創世記の記述とは異なることを主張していることは確かです。

 

進化論は現在は多くの人に常識として受け入れられている考えですが、しかし、いまも進化論を否定するクリスチャンの方々もいます。聖書の記述を文字通り受け止めるという信仰ゆえ、進化論は受け入れられないという考えですね。最近の調査では、アメリカでは6割の人が進化論を受け入れているけれども、4割の人は進化論を受け入れていないという結果になったそうです。アメリカでは現在も半数近くの人が進化論を否定しているという結果は、日本に住む人々にとっては驚きに感じられるかもしれません。

 

進化論をめぐる問題にはその人の聖書の読み方や信仰の問題が関わっていますので、その分難しさがあります。デリケートな問題でもあり、互いに配慮が必要な場合もあるでしょう。私自身はどうかと言いますと、進化論を受け入れています。むしろ、人間の進化について非常に関心をもっておりまして、自分なりに研究をしています。私の中では、キリスト教の信仰と進化論とは矛盾するものではありません。

 

 

 

創世記をどう受け止めるか

 

 改めて、創世記の記述を見てみましょう。神さまによって人間が創造された場面です。創世記12627節《神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」/神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された》。

 

 この有名な箇所を、私たちはどう受け止めたらよいでしょうか。この箇所では確かに、「神は猿から人を創造された」(!)とは書かれていませんね。そうではなく、「神は御自分にかたどって人を創造された」と書かれている。

 

 この創世記の箇所は、人間がどのように誕生したか、人間の起源についての「科学的な事実」を記しているわけではありません。この箇所は、人間とはそもそもどのような存在なのか――少し難解な言葉で言いますと、「人間の本質」について記している箇所であると私は受け止めています。

 

創世記において重要であるのは、それが神さまとの関係性の中で語られている点です。神さまの目から見て「私たち人間はどのような存在であるのか」について語っているのが、本日の聖書箇所です。

 

 

 

神さまの目から見た人間の「平等」

 

 では、本日の聖書箇所は、神さまの目から見て、人間はどのような存在であると証言しているのでしょうか。それは、《神は御自分にかたどって人を創造された》という一文によく言い表わされています。神は御自分に似せて、御自分のかたちに人を創造された。それほどまでに、人間という存在が神さまの目からみて貴い、ということがここで言われています。

 

この創世記の記述は、当時としては非常に革命的なものでした。古代オリエント世界では、一国の王が「神」と等しい存在とみなされていたからです。王様こそ神の「似姿」、神の「像」が刻まれた存在である。国民はこの王を崇拝し、忠実に仕えねばならない。そのような考え方が当たり前である時代にあって、ここでは、一人ひとりの人間に等しく神の「像」が与えられているのだということが宣言されています。

 

それは、神さまの目から見ると「王も奴隷もない」ということを宣言しているということでもあります。神さまの目から見ると、王様や奴隷という身分の差は本来存在しない。一般の人々であっても、たとえ奴隷という身分の人であっても、神さまから見れば、神の「像」が与えられている貴い存在である。神さまの目からみた人間の「平等」について宣言しているのですね。人間について、まったく新しい世界観を提示している箇所だということができるでしょう。いわば、古代の「人権宣言」と受け止めることができる、記念碑的な箇所であると言えます。

 

神さまの目から見て、「すべての人が生まれながらに平等であり、価値がある」ことを宣言しているのがこの箇所です。たとえ私たちの目から見て自分自身に価値がないように思えても、ある人のほうが秀でているように見えても、神さまの目からみて、一人ひとりの人間は等しく大切な存在である。その真理が高らかに宣言されている箇所として私は受け止めています。

 

 

 

天賦人権説

 

「天賦人権説」という考え方があります。人権というものは一人ひとりの人間に、天から生まれながらに与えられているのだという考えです。人権思想や民主主義の形成において、その基盤となってきた考えですが、この考えのルーツの一つとしてあるのが聖書であり、この創世記の箇所であるということができるでしょう。

 

神さまが私たち一人ひとりを等しく、大切な存在として創って下さった。神さまが与えて下さったその生まれながらの権利を奪ってはならない、ということになります。 そこには例外はありません。神さまが万人を等しく大切な存在だとおっしゃっているから、私たちは互いにその生まれながらの権利を守ってゆかねばならない、という考えですね。この考えが、私たちの生きる社会から不平等や差別を無くしてゆくための確固たる土台となってゆきます。

 

この「天賦人権説」は、たとえばアメリカ合衆国の独立宣言1776年)に見いだされます。《われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、創造主によって、奪うことのできない一定の天賦の権利が与えられており、そのなかに生命、自由および幸福追求の含まれることを信ずる》。またこの考え方は、現在の日本国憲法にも受け継がれています。日本国憲法第13条にはアメリカ独立宣言の「生命、自由および幸福追求」という言葉が受け継がれています。また第97条には《この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に耐へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである》と記されています。

 

このように、創世記1章の記述は私たちにとって非常に大切な箇所であり続けています。それは科学的に正しいか否かということを超えて、天という視点から見た「人間存在の平等」を宣言している箇所として、私たちにとって大切な御言葉であり続けているように思います。

 

ちなみに、自民党の憲法草案は「天賦人権説」を否定しています。自民党憲法草案においてもちろん人権の重要性そのものが否定されているわけではありませんが、「天賦人権説」は斥けられています。「天賦人権説」は西欧のキリスト教思想に基づくものだから、自分たちはそれを受け入れるつもりはないという考えでしょうか。驚くべきことに、現行憲法の第97条も、自民党憲法草案においては全文削除されています。自民党憲法草案がいかに危うさを含んでいるかがこの一点からも分かります。

 

 

 

神さまの目から見た人間の「かけがえのなさ」

 

 本日の聖書箇所でもう一か所、私たちにとって大切な御言葉があります。31節《神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である》。この箇所は、神さまはお造りになったすべてのものを「極めて良い」ものとして祝福して下さっているということを語っています。そこには、例外はありません。たとえ私たちの目から見て「悪い」ものであると思えようとも、神さまの目から見て、私たち一人ひとりは「極めて良い」ものです。

 

 であるのならば、私たちは「自分が自分であること」にもっともっと誇りをもっていいのであり、無理やり自分ではない他の誰かになろうとする必要はないのだ、ということが分かります。神さまの目から見て、私たち一人ひとりは生まれながらに、かけがえなく、貴い。創世記のこの神さまの祝福の言葉は、私たち一人ひとりの存在の「かけがえのなさ」を宣言しています。生まれながらに与えられている神さまからの「尊厳」を宣言しています。

 

神さまは初めから、あなたをかけがえのない存在として創って下さった。「替わりのきかない」存在として創って下さった。そして誕生したあなたを「良い」と祝福して、抱きしめて下さった。私たちはいまも、その神さまの祝福の中を生きています。

 

私たちは確かに過ちを犯し、罪を犯す存在です。であるとしても、私たちは存在そのものを「極めて良い」ものとして祝福されています。

 

 

 

創世記のメッセージを心に刻んで

 

 私たちの生きる社会はいま、格差や不平等が当たり前のようになり、また個々人が「替わりのきく」存在とされてしまっている現状があります。私たちの社会の中であふれているのは、「自分なんてどうでもいい」、「自分の替わりなどいくらでもいる」という無数の悲しみの声、失望の声です。国の政策はこの状況をさらに悪化させる方向へ進もうとしています。内に外に、近くに遠くに、「人間の大切さ」ということがどんどんと見失われつつあるのが、現在の私たちの社会です。

 

 であるからこそ、私たちはいま再び、創世記に込められたメッセージを私たちの内に新たにしてゆくことが求められています。神さまの目から見て、私たち一人ひとりは「平等」な存在であること。神さまの目から見て、私たち一人ひとりは「かけがえなく」貴い存在であるということ。イエス・キリストはその真理を私たちに伝えるため、私たちのもとへやって来てくださいました。

 

新しい年の初めの今朝、創世記のメッセージを私たちの心に刻みたいと思います。