2016年1月10日「主の晩餐」

2016110日 聖書箇所:マルコによる福音書142226

「主の晩餐」

 

 

宗教と儀式

 

 私たちが生きているこの世界には、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、神道などさまざまな宗教があります。これら宗教において不可欠な要素としてあるのが、「儀式」というものです。どの宗教も、何らかの儀式というものを持っています。

 

どうして宗教において儀式が重要とされるのでしょうか。宗教というものは神や仏という「目には見えないもの」を対象としていますね。「目には見えない」ということは、見方を変えれば、そもそもそれらが実際に存在しているのか実証することは難しい、ということになります。「目には見えないものは、自分は基本的には信じない」という方も多いことでしょう。宗教的な儀式というものは、これら「目には見えないもの」を人々の「目に見えるもの」にする営みであるということができるでしょう。さまざまな儀式を通して、「目には見えない」神仏の存在や働きかけを人々が実感できるようにするのですね。また、「目には見えない」存在とコミュニケーションをとる方法が儀式です。

 

 

 

「目に見える」神さまの恵み ~洗礼と聖餐

 

キリスト教の代表的な儀式というと、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。私たちが属するプロテスタント教会が特に重んじてきた儀式は、「洗礼」と「聖餐」です。この二つはあわせて「聖礼典」と呼ばれます。洗礼式と聖餐式もやはり、「目には見えないもの」を「目に見えるもの」にする儀式です。ここでの「目には見えないもの」とは、私たち一人ひとりに注がれている「神さまの恵み」です。

 

神さまの恵みというものは、私たちの目には見えません。私たちに向けられている神さまの恵みは、基本的には目には見えないし、耳で聴くこともできないものです。神さまの恵みは、神さまの愛と言い換えることもできます。

 

中には、神さまの恵みを五感で感じ取れるという方もいらっしゃるかもしれません。しかしそのような方はごくわずかでありましょう。多くの人は神さまの恵みを五感で感じ取るということはありません。目には見えないこの神さまの恵みを、私たちの目に具体的に見えるようにするのが聖礼典という儀式です。

 

たとえば洗礼式では、その目に見える具体的なものとして、水が用いられます。花巻教会では洗礼槽に全身を浸かるというやり方をしていますが、その儀式を通して、その人に示された神さまの大いなる恵み――「キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生きる」(ローマの信徒への手紙64節)という恵みが目に見えるかたちで具体的に示されるのですね。

 

聖餐式もまたそうです。聖餐式で用いられるものはパンとぶどう酒(液)です。聖餐式においては配られるパンは十字架の上で裂かれた「イエス・キリストの体」、ぶどう酒は流された「イエス・キリストの血」を表わしています。パンとぶどう酒はもちろん「目に見えるもの」です。聖餐式では人々はそれに触れ、味わうということをします。またパンとぶどう酒の香りを嗅覚で感じ取っているでしょう。まさに視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五感を通して、具体的にイエス・キリストの恵み、神さまの愛を味わうのが聖餐式なのですね。

 

五感というものは、私たちの記憶と強く結びついているものです。私たちは運ばれてきた料理の匂いや味によって、昔の記憶を想い起こすということがあります。またラジオからふと流れてきた音楽を聴いて、青春時代の記憶がみずみずしく甦るということもあるでしょう。また私たちは写真を見ることによって、忘れていたその瞬間のことを思い起こします。聖餐式では五感を総動員して、イエス・キリストの恵み、神さまの愛を想い起こすようにと促します。

 

理想を言うと、聖餐式がなくても、いつも神さまの愛を感じ取ることができればそれにこしたことはないのかもしれません。イエス・キリストの恵みと神さまの愛を一瞬たりとも忘れることはない、という人にとっては聖餐式は必要はないかもしれません。けれども私たちはすぐに忘れてしまうという性質をもっています。そのような弱い私たちのために、聖餐式は与えられているのだ、と教会は受け止めてきました。私たちが弱さゆえに神さまの愛を忘れていても、パンとぶどう酒を味わうことを通して、それを思い出すことができるのだ、という捉え方ですね。そして聖書は、イエス・キリスト御自身がこの二つの儀式を私たちに与えて下さったのだと証言しています。

 

 

 

過越の食事

 

 本日の聖書箇所は、聖礼典の一つ、「聖餐式」の起源となっている箇所です。イエス・キリストは十字架におかかりになる前の晩、弟子たちといわゆる「最後の晩餐」を行われました。その最後の食事の席において主イエスご自身が行われた儀式、それがいまも行われ続けている聖餐式のルーツとなっています。

 

 この最後の晩餐の食事は、もともとは、ユダヤ教の重要な儀式である「過越の食事」と結びついているものでした。過越の食事とはユダヤ教の三大祭りの一つである過越祭の最初の夕べに行われる食事のことを言います。この過越の食事は各家庭で行われますが、いつもの食事とは異なる、儀式的な食事です。いわば、食事を伴った家庭礼拝であるということができます。ユダヤ教の各家庭では家長が司式者となり、『ハガダー』という式次第に基づいて、過越の食事を行います。ユダヤ教の人々は、いまもこの食事を大切に守り続けています。

 

 ユダヤ教徒の人々はこの食事を毎年行うことによって、神さまの恵みを改めて思い起こしていたのですね。ユダヤ教徒の人々にとって、特に繰り返し思い起こすべき物語がありました。それは、旧約聖書に記されている「出エジプト」の物語です。出エジプトは、かつてエジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を、神さまがモーセを通して救い出して下さった出来事ですね。この物語は、神さまがイスラエルの民をいかに愛して下さっているかを示しています。神さまがその愛ゆえにイスラエルの民を選び、約束を結び、エジプトから救い出して下さったことを示す出来事です。ユダヤ教徒の人々にとって、いわば「愛の原体験」とも呼べる出来事が、この出エジプトなのですね。過越の食事はこの「愛の原体験」を想い起こし、決して忘れないようにするための儀式です。

 

『ハガダー』の中には、印象的な次の文章が記されています。《すべての世代において、人は自分自身があたかもエジプトから脱出したかのごとく見なさなければならない》(『ハガダー〔過越祭の式次第〕』、49頁、ミルトス、2010年)

 

 

 

十字架を記念して ~過越の食事から聖餐式へ

 

この過越の食事において食卓に並べられるのは、酵母を入れないパン三枚、焼いた子羊、苦菜、ぶどう酒などです。酵母を入れないパンは「種なしパン」とも呼ばれる平べったい、ナンのような形をしたパンです。これは、出エジプトの前夜、急いでいたので生地を発酵させる時間がなかったという旧約聖書の記述が由来となっています(出エジプト記1239節)。過越の食事は、エジプトでの最後の食事の再現でありました。

 

十字架におかかりになる直前、主イエスが12人の弟子たちと行ったのが、この過越の食事でありました。主イエスが裂いて弟子たちに配られたパンとは、平べったい種なしパンであったのですね。

 

改めてマルコによる福音書142226節をお読みいたします。《一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」/また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。/そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。/はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」/一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた》。

 

主イエスはこのとき、種なしパンを取り、賛美の祈りを唱え、それを裂いて弟子たちに配られました22節)。これは過越の食事において家長が行う伝統的な所作です。しかしその後におっしゃった言葉は従来の式次第にはない、まったく新しい言葉でした。《取りなさい。これはわたしの体である》。

 

また主イエスはぶどう酒の杯を取って、感謝の祈りを唱えて、弟子たちにお渡しになりました23節)。この動作自体は過越の食事において家長が行う伝統的な所作でしたが、やはりそこにまったく新しい言葉が加えられます。《これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である》。

 

弟子たちはどのような反応を見せたでしょうか。マルコによる福音書には弟子たちの反応は記されていないので想像するしかできませんが、困惑したか、もしくは仰天したか。弟子たちは主イエスの言動の意味を理解できないまま、命じられるままにパンと杯に与ったのではないかと思います。

 

主イエスのこの象徴的な所作は、御自身の十字架の死を指し示すものでした。裂かれたパンは十字架の上で裂かれる御自身の体であり、ぶどう酒は十字架の上で流される御自身の血でありました。

 

こうして過越の食事はまったく新しい意味をもった食事となりました。出エジプトを記念する食事ではなく、主の十字架を記念する食事となったのです。私たち教会はこの新しい食事を聖餐式として受け継いできています。

 

 

 

あなたを愛するゆえに

 

主イエスはご自身の血は、《多くの人のために》流される血であるとおっしゃっています。《多くの人》とはつまり「非常にたくさんの人」ということですが、ここにはこの後主イエスを裏切るユダも、主イエスを「知らない」と否認するペトロも、主イエスの前から逃げて行った弟子たちも含まれています。他ならぬ、私たち一人ひとりが含まれていると受け止めることができるでしょう。『ハガダー』の一文を言い直すなら、《すべての世代において、人は自分自身があたかも主の十字架に立ち会ったかのごとく見なさなければならない》。

 

まず第一に、ここでの《~のために》という言葉は、私たちの罪責を指し示しています。主イエスを悲惨な死に追いやったのは私たち人間の罪責です。他ならぬ私たちの無知のゆえであり、私たち内にうずまく暴力のゆえです。主イエスは私たち《多くの人》の罪責の「ために」殺されたのだ、ということを私たちは思い起こさねばなりません。十字架を想い起こすたび、神の子を死に追いやるようなことを私たちは二度と繰り返さないという想いを新たにすることが求められています。

 

しかしだからこそ、《~のために》のもう一つの意味が私たちに迫ってきます。そのような愚かな私たちの「ために」主イエスは十字架にかかってくださった。ご自分を死に追いやった私たちを赦し、私たちのためにご自分の命を捨てて下さった。聖書はそれほどまでに神さまが私たちを「愛して下さっている」ということを語ります。

 

すべては、あなたのために。あなたを愛するゆえに。あなたが囚われの状態から解放され、自由に、喜びをもって生きていってほしいがために。そしてあなたが復活の命に結ばれてゆくために。

 

主の十字架は、私たち一人ひとりに対する神さまの愛が示されている場所です。十字架の出来事こそは、私たちの「愛の原体験」です。聖餐式は、この「愛の原体験」を想い起こし、決して忘れないようにするための儀式です。

 

 

 

「わたしはあなたと共にいる」

 

 そして、私たちが主の愛を想い起こす時、主は私たちと共におられます。十字架の愛は過去の出来事であるのみならず、いま・この瞬間、私たち一人ひとりに現実に注がれています。イザヤ書4345節《わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。/恐れるな、わたしはあなたと共にいる》。

 

主は十字架におかかりなったお姿で、いま、ここにおられます。たとえ目には見えなくても、主はあなたと共におられます。あなたに絶えず恵みを注ぎ、愛を注いでくださっています。主イエスによって示された神の愛からは、どんなものも私たちを引き離すことはできません(ローマの信徒への手紙839節)

 

どうぞいま、この主の愛にご一緒に応えてゆきたいと願います。