2016年1月17日「ペトロの離反の予告」

 

 

2016117日 聖書箇所:マルコによる福音書142731

「ペトロの離反の予告」

 

 

まことの羊飼い主イエス

 

『羊飼いの羊飼いよ』という讃美歌があります。私たちが用いている讃美歌21でしたら97番の讃美歌ですね。1番はこのような歌詞になっています。《羊飼いの羊飼いよ、主イェスよ。いまささぐる わが祈りに こたえたまえ、愛もて》。牧師の就任式や按手礼の際に歌われることが多い讃美歌です。昨年の1129日の行われた私の正教師就任式の際も、皆でこの讃美歌を歌いました。

 

この讃美歌の中では、イエス・キリストは《羊飼いの羊飼い》と呼ばれています。牧師が教会を導く「羊飼い」であるとすると、イエス・キリストはその牧師を導く「まことの羊飼い」であるというのですね。《羊飼いの羊飼い》であるイエス・キリストを、教会では「大牧者」と呼ぶこともあります。牧師はいわば教会を導く羊飼いの役割を託されているわけですが、まことの羊飼いはイエス・キリスト御自身であり、イエス・キリストに導かれることなくして牧師は立つことはできません。主イエスの前に、牧師もまた一匹の羊なのであり、常に支えが必要な一人の人間であることを、私自身いつも忘れないようにしたいと思っております。

 

 

 

痛みを隠してしまう自分

 

 私自身が気をつけたいなと思っているのは、弱く傷つきやすい自分を隠さないということです。それは言いかえれば、そのような自分を隠してしまうということをよくしてしまっていると自覚しているからでもあります。本当は心の中は痛みでいっぱいなのに、無理に笑顔を作って何でもないようにしてみせる、とか。時には、無理をしてでも大丈夫なそぶりを見せることも必要であるのかもしれません。しかしそのようなそぶりが恒常化してしまったとしたら、自分自身に対しても、教会の皆さんに対しても良くない結果となるでしょう。

 

 心の習性というものは急に変えられるものでもなく、時間をかけて少しずつ変えてゆくものでもあると思います。常に自分自身を振り返りながら、主と皆さんの助けを得ながら、変えてゆくべきところは変わってゆきたいと願っております。

 

 

 

イエス・キリストの磔刑像 ~すべてを差し出して

 

 皆さんはカトリック教会の会堂に入ったことはあるでしょうか。カトリック教会では礼拝堂にイエス・キリストの磔刑像が掲げられている教会があります。磔刑像とは、十字架におかかりになっているイエス・キリストの像のことです。教会によっては、かなりリアルに主イエスの姿を再現している場合もあります。見るだけで痛々しい磔刑像もあります。

 

これら像において、イエス・キリストは両手を大きく開き、十字架に磔にされています。多くの場合、イエス・キリストは腰に布を巻いているだけで、ほぼ裸に近い状態です。露わにされた脇腹には、兵士に槍で突かれた傷が刻まれています。

 

 ある時、私はこの磔刑像を見て、ハッとしたことがありました。十字架におかかりになっているイエス・キリストは、私たちに対してすべてを見せておられると思ったのです。十字架の主イエスは私たちに対して何も隠しておられないのだと感じました。

 

両手を大きく開き、その体の傷も、心の傷も、すべてを差し出して下さっている。そのときは特に、露わにされた脇腹とその脇腹の傷跡に、自分に訴えかけてくるものを感じました。すべてを差し出す主のお姿は、普段の私は何と対照的な姿であることかと思いました。

 

 先ほど、主イエスは《羊飼いの羊飼い》であるということを述べました。聖書はこの十字架の主をこそ、私たちの「まことの羊飼い」であると呼んでいます。十字架の主に、一般的に社会で言われるような力強いリーダー像は見出すことはできません。しかし一見無力な主こそ、私たちにとってまことの羊飼いです。私たちはこの主のお姿に導かれ、この主のお姿に学び続けなければなりません。

 

 

 

弟子たちの離反の予告

 

 本日の聖書箇所を改めてご一緒に見てみたいと思います。本日の聖書箇所は、弟子たちが主イエスのもとから離れ去ってゆくことが予告される場面です。それは主イエスが十字架におかかりなる前夜のことでした。ご受難はまさに目の前に迫っていました。

 

マルコによる福音書142731節《イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。/『わたしは羊飼いを打つ。/すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。/しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く。」/するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。/イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」/ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った》。

 

 主イエスは弟子たちがご自分を見捨てて逃げ去ってゆくことを、「羊飼いと羊」のイメージで表現されています。《わたしは羊飼いを打つ。/すると、羊は散ってしまう》。これはおそらく旧約聖書のゼカリヤ書からの引用(ゼカリヤ書137節)ですが、主イエスはここでご自分を「羊飼い」、弟子たちを「羊」とみなしておられます。これから羊飼いを打たれるであろう。すなわち、主イエスはこれから十字架におかかりなり、殺されるであろう。すると羊は散ってしまうであろう。羊が散ってしまうとは、弟子たちが主イエスを見捨てて去って行ってしまうことを意味しています。

 

 主イエスのこの予告に対して、弟子のペトロは反論します。《たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません》。これはその時は、ペトロにとっては心からの言葉であったのかもしれません。しかし、主イエスはおっしゃいます。《はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう》。この驚くべき言葉を受けて、ペトロはさらに力を込めて言い張ります。《たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません》。他の弟子の皆も、ペトロと同じように誓いました。「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。

 

 その後実際に起こったことは、福音書が記す通りです。ペトロは主イエスを「知らない」と三度否認し、弟子たちは主イエスを見捨てて逃げ去ってゆきました。ここに、私たちの率直な姿が示されています。

 

 

 

ペトロの過ちの記憶

 

 本日の場面では特に、弟子のペトロにスポットが当てられています。ペトロは12弟子の中でもリーダー的な存在であり、後に、エルサレムの原始キリスト教会の中心的な指導者となってゆく人物です。人々を率いる、「羊飼い」の立場にあった人物です。その人物の大きな過ちのエピソードを、ここで福音書はあえて記しています。ペトロは主イエスの前で「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったのにも関わらず、人々から問い詰められると「そんな人は知らない」と否定しました。一番弟子であるペトロが、愛する主を見捨てたのです。本人からすると、恥ずかしくていたたまれない記憶、消し去りたい記憶であろうと私たちには思えます。そんな過去を暴露すると、教会の人々からの信用を失ってしまうのではないかと思います。しかし福音書はあえて記しています。

 

ある人は、このエピソードはペトロ自身が人々に話したことなのではないか、と捉えています。主イエスを否認したのはペトロしか知らないわけであるから、それが福音書に記録されているのは、後にペトロ自身が告白したからであろう、と。もしもそうであるとしたら、なぜペトロはあえてそれを人々に告白したのでしょうか。

 

 一つには、懺悔の気持ちというものがあったでしょう。自分の過ちを告白しないではいられないという気持ちがあったのかもしれません。しかし、それだけではなかったでしょう。そもそも、それだけなら、ペトロは自分を責めこそすれ、再び立ち上がってゆくまことの力は与えられなかったことと思います。

 

 

 

復活の主との出会い

 

主イエスの死から三日目に、ペトロはよみがえられた主に出会いました。そして復活の主との出会いを通して、真実を知らされました。主イエスを裏切り、主イエスを「知らない」と言ってしまった自分を、主イエスは「ゆるしてくださっていた」という真実です。主イエスはすべてをゆるし、十字架におかかりになった。それほどまでに、自分を愛して下さっていた。主イエスのその愛を知らされたからこそ、ペトロたちは再び立ち上がる力を得ていったのだと思います。福音書があえてペトロの失敗を記すのも、この出来事を通して神の愛が示されると信じていたからだと思います。

 

 

 

すべてを「ゆるす」神の愛 ~あなたは必ず再出発できる

 

主イエスの磔刑像を再び思い起こしてみましょう。十字架におかかりなっている主イエスのお体には、痛々しい無数の傷がつけられています。脇腹には大きな傷口があります。これら傷は、他ならぬ私たちの罪悪、過ちによってつけられた傷です。

 

しかし主イエスは両手を開き、その痛む傷を私たちにお見せになっています。隠すことなくお見せになっているということは、主イエスは私たちをすでに「ゆるしてくださっている」ということの表れです。そしてこの傷口から、神の愛はわき出でています。すべてを「ゆるす」神の愛は私たち一人ひとりの存在を包み、私たちの傷口を包み、癒してくださいます。

 

主イエスを裏切ったというペトロの過去の傷をあえて福音書が記すのも、その傷口を通して、主から「ゆるされている」という恵みが湧き出ていると信じていたからでしょう。ペトロはその傷を想い起こすたび、やはり心に鋭い痛みを感じたでしょうが、同時に、そのような自分がそれでもゆるされ、生かされていることの恵みを想い起こしたことでしょう。

 

 本日の聖書箇所の中で、主イエスはあらかじめペトロたちにおっしゃっていました。28節《しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く》。十字架の死で終わりなのではなく、その後に起こる復活をも予告されていたのですね。よみがえった羊飼いは再び羊たちをガリラヤへ導いてゆくだろうことが約束されています。裏切りという傷を経験した後、ペトロたちが再び立ち上がり、主イエスの忠実な羊として歩んでゆくことを予告して下さっていたのです。

 

 私たちはさまざまな過ちを犯します。時に、自分では立ち直れないと思うくらい大きな過ちを犯してしまうこともあります。主イエスはそれら過ちをただ黙認しておられるのではありません。私たちが真実にそれら過ちを悔い改め、もはやそれを二度と繰り返さないようにと願っていてくださいます。私たちにその再出発の力を与えて下さるのが、すべてを「ゆるす」神の愛です。それは「生きよ」と叫ぶ神の愛と呼んでもよいかもしれません。十字架におかかりなった主イエスはご自分の傷口を示しながら、私たちに「生きよ」と叫んでおられます。どれほど過ちを犯そうとも、過ちを繰り返し犯そうとも、主の愛に立ち還る時、あなたは必ず再出発できるのだ、と。

 

よみがえられた「まことの羊飼いなる」主イエスはいま、私たちの目の前におられます。私たちを導き、私たちと共に歩むため、目の前で待ってくださっています。どうぞいま共にこの主の後に従ってゆきたいと願います。