2016年1月24日「ゲツセマネの祈り」

 2016124日 聖書箇所:マルコによる福音書143242

「ゲツセマネの祈り」

 

 

ゲツセマネの祈り

 

本日の聖書箇所は「ゲツセマネの祈り」と呼ばれる場面です。受難の道を歩んでゆかれる直前、イエス・キリストは弟子たちを伴い、ゲツセマネという場所で祈りをささげられました。このゲツセマネの祈りの場面は、新約聖書の中でもとりわけ私たちの心に強烈な印象を残すものです。主イエスの人間的な苦悩を、率直に記している箇所であるからです。恐れ困惑する主イエス。深い悲しみと苦しみの中で身もだえする主イエス。私たちとまったく同じ、一人の人間としての主イエスのお姿が、ここには生々しく刻まれています。

 

マルコによる福音書143242節《一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。/そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、/彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」/少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、/こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」/それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。/誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」/更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。/再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。/イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。/立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」》。

 

 

 

神と隣人との「断絶」の中で

 

33節を見ますと、弟子たちと共にゲツセマネを訪れた主イエスは《ひどく恐れてもだえ始め》られた、と記されています。《ひどく恐れて》と訳されている言葉は、原語では「ひどく驚いて」「驚愕して」という意味をもつ語です。その意味合いを活かして訳し直しますと、「主イエスはひどく驚いて、もだえ始められた」となります。この時、主イエスの内に何かが起こり、非常に驚愕されたのです。主イエスは弟子たちに訴えます。34節《わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい》。主イエスは一体、何に激しい衝撃を受けられたのでしょうか。

 

 マルコによる福音書はその理由をはっきりとは記していません。私なりに思うことは、主イエスはこの時、「父なる神とのつながりが絶たれた」という感覚に陥られたのではないか、ということです。より激しい表現の仕方をしますと、神から「見捨てられた」という感覚です。愛してやまない父なる神から、自分は「見捨てられた」! その想いが魂を貫き、主イエスは驚愕されたのではないかと私は受けとめています。

 

 神の独り子である主イエスが、突然、神との「断絶」を味わわれた。愛する父から見捨てられ、この地上に独り投げ出されているような感覚になられた。主イエスが何を問いかけても、もはや愛する父は何もお答えにならない。光は失せ、深い暗闇が主イエスを包み込んでいる。その悲しみ、その絶望感の中で、主イエスは身もだえされ始めたのです。

 

 父との断絶を味わう中で、もはや主イエスにとって頼みの綱となるのはそばにいる弟子だけであったでしょう。主イエスは傍らにいる弟子たちに懇願します。《わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい》。唯一の光は弟子たちの存在でしたが、しかし弟子たちは主イエスの悲しみを理解せず、まどろみに陥り眠り込んでいっていました。弟子たちは間もなく、主イエスを見捨てて逃げ去ってゆくことになります。主イエスの最後の望みの光は失われました。

 

 愛する神から断絶され、愛する人々からも断絶された恐ろしい暗闇の中で、主イエスは祈りをささげられます。36節《アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように》。

 

 ここでの《杯》とは、これから起こる受難を意味し、そして十字架の死を意味しています。主イエスにとって、その死が、神と隣人から「見捨てられた」中での死であることが、何よりの激しい苦痛であったのではないでしょうか。事実、主イエスは十字架の上で、絶叫して息を引き取られます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(1534節)――。

 

 このゲツセマネにおいて、主イエスはこの苦しみが自分から過ぎ去るようにと懸命に祈られました。しかし、「自分が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と。

 

主イエスはこの祈りを、「神が共におられる」という信頼の中で祈られたのではありませんでした。そうではなく、「神が自分と共におられない」という欠乏感の中で、激しい渇きの中で、この祈りを祈られたのです。沈黙し続けている神に向かって、自分の問いかけに何も答えない神に向かって、もしかしたらもはや自分の前には「存在しない」のかもしれない神に向かって、この祈りを祈り続けられたのです。《しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように》。そうして主イエスは、ただ独りで、十字架に向かって歩んでゆかれました。愛する神が不在の中で、愛する友が不在の中で、十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩んでゆかれました。それでもなお、主イエスを十字架へと向かわせたもの、それは父なる神への愛であり、人々への愛に他ならなかったでしょう。

 

 

 

暗闇の経験

 

主イエスのこの言語を絶するゲツセマネの経験と比べるべくもありませんが、この主の苦しみをほんのかすかに、自分なりに実感することができた経験があります。牧師になろうと決めて、神学校に入学してからのことです。神学生になってしばらくして、私は「神さまとのつながりが絶たれた」という感覚に陥ったということがありました。

 

それでは、神学校に入る前までは、むしろ「神さまがいつも共におられる」という感覚でいました。どんなときも、神さまが共にいて下さるのだという心の平安がありました。自分の内に満ちていたその感覚が、だんだんと消えて行ってしまったのです。光が失われ、天が暗くなってゆく、という感覚と言いましょうか。神さまと自分がかたく結ばれているという感覚があった分なおさら、その断絶の感覚は自分に苦痛を与えるものでした。

 

そしてさらに、隣人とのつながりも絶たれてゆく、という感覚に陥ってゆきました。愛する人とのつながりも絶たれてしまった。自分が断絶の闇に取り囲まれ、大地の上に、ただ独りで投げ出されているような感覚になりました。自分の内に、欠乏感と渇きが貫いているのを感じました。

 

私たちには、時にこのようなことが起こるようです。洗礼を受けてクリスチャンになってから、暗闇に包まれるという経験をする人もいるでしょう。私のように、献身してから、暗闇に包まれるという経験をする人もいるでしょう。信仰を持ちながら、同時に、深刻な神の不在感に苦しむ経験をするということが、信仰者の人生には起こり得るのです。このような「暗闇の経験」(詩編8819節)というものは、誰もが、多かれ少なかれ経験するものではないかとも思います。

 

 

 

十字架のキリストと結ばれて

 

 そのような経験をしている中、私は自分が「十字架のキリストと結び合わされている」と感じた瞬間がありました。神とのつながりが絶たれ、人々とのつながりが絶たれたその暗闇の中で、自分がイエス・キリストと一緒に十字架にかかっているように感じたのです。十字架に磔にされた自分の背後で、主イエスが共に十字架におかかりなっているように感じました。

 

主イエスは私の背後で、私と共に苦しみ、共にうめいてくださっていました。「渇く」と叫ぶ私と共に「渇く」と叫んでくださっていました。その時私は、深い慰めを感じました。いまだそこには差し込む光もなく、自分を包んでいるのは暗闇でありましたが、この暗闇の中に恩寵があるように感じました。

 

 

 

マザー・テレサの知られざる苦悩

 

そのような経験をした次の日の朝、神学校で同じ寮生であった友人がふと、ある修道女の話をしてくれました。その修道女の方は、貧しい人びとや病気の人々のために、自分の生涯をささげた方です。その方はいつも人々にやさしく微笑みかけ、多くの人々に愛を与え続けた方でした。彼女を慕い、彼女の信仰に心打たれた人々が世界中から集まってきました。

 

その方の死後、彼女が霊的な指導者の神父に宛てた手紙が公にされたことを友人は教えてくれました。その手紙の中には、周りの人々は知ることがなかった彼女の内面が率直に記されていたそうです。そこには、彼女が自分の内に秘めていた深い苦悩が綴られていました。「自分は神がいるということが、いま信じられません」、「私はもう、神に愛されていません」、「主イエスがいなくなってしまいました」、「見捨てられ、自分は独りぼっちです」、「すべてを投げ出したい」、「私の心には信仰がありません。愛も信頼もありません。あまりにもひどい苦痛があるだけです」、「私はもう祈れません」……。深い暗闇を経験する中で、それでも彼女は何と50年間、貧しい人々や病気の人々のために働き続けたのです。この方が、皆さんもよくご存じのマザー・テレサです。

 

揺るぎない信仰者というマザー・テレサのイメージとあまりに異なったこれら手紙は、関係者のみならず、世界中にショックを与えました。これら手紙は『Come Be My Light』という一冊の本にまとめられ出版されますが、出版に先立って、その内容が2007年のタイム誌でも取り上げられ話題にもなりました。2014年には『Come Be My Light』の日本語訳が出版されましたので(『来て、わたしの光になりなさい!』女子パウロ会)、お読みになった方もいらっしゃることと思います。

 

マザー・テレサは生涯、死の直前まで、自分の内の暗闇と向かい続けてきたわけですが、しかしその受け止め方がだんだんと変わって行ったようです。当初は、なぜ自分にそのようなことが起こったのか理解できず、非常な混乱の中にいました。主イエスから召命を受けて、修道院を離れてインドのカルカッタで貧しい人びとのために働こうとした矢先に、深い暗闇がマザーを襲ったのです。それまでは、マザーの内には常に「主が共におられる」という喜びに満ちた感覚があったそうです。まるで恋人のような、婚約者のような親密な結びつきを主イエスに感じていたそうですが、そのつながりが突然、絶たれてしまった。神の臨在を感じることができる者であったからこそ、神の不在がよりはっきりと分かるのです。その渇きが耐え難く感じられるのです。

 

 マザー・テレサはこの出来事が一体何を意味しているのか、生涯を通して、懸命に考え続けました。霊的な指導者と手紙をやり取りする中でだんだん見出して言ったことは、自分は十字架のキリストと結びつくため、このような暗闇のただ中に召されているのだ、ということです。マザーは、自分は、暗闇のただ中に召されているのだということを理解したのです。

 

十字架の主イエスと結びつくことによって、私たちには、いま現実に暗闇のただ中にいる人の苦しみと結びつく道が開かれてゆきます。マザーは自身が暗闇になることによって十字架の主イエスの苦しみと結びつき、そしていままさにカルカッタの道端で死んでいこうとする人々の苦しみと結びついて行ったのです。

 

 

 

暗闇の中を生きる私たちすべてと結びつくため

 

 私は友人からマザー・テレサの手紙のことを聞いて、さまざまなことが腑に落ちた気持ちになりました。マザーがなぜ暗闇を経験せねばならなかったのか。この度の経験を通して、自分なりに少しではありますが、理解できた気持ちになりました。そして、改めて、私は主イエスのあのゲツセマネの祈りを、主イエスの十字架の道行きを想い起こしました。

 

 主イエスは、いままさに神と人々から見捨てられ、絶望の中で孤独に死んでゆく人々結びつくために、ゴルゴダの丘で十字架にかかってくださいました。自分自身が暗闇となり、神の不在に苦しみ、人々から裏切られ、すべてから見捨てられて絶望して死んでゆくことによって。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と十字架の上で絶叫することによって。そのことを通して、暗闇の中を生きざるを得ない私たちすべてのものと結びつく道を開いてくださいました。私は十字架の主と一つに結ばれた自分の内から、神の愛が溢れ出ていることを感じました。

 

 

 

暗闇の恩寵

 

私たちはその人生の中で、それぞれゲツセマネに立ち会う瞬間があるでしょう。生きている限り、私たちは深い暗闇に向き合わざるを言えない瞬間があるでしょう。その暗闇の中で、いまは復活の光を見出すことができなくても、しかし、暗闇のただ中に、十字架の恩寵の光があります。いまだ苦しみは苦しみとしてあり続けているのだとしても。いまだ私たちを包むのは暗闇であるのだとしても。「暗闇の恩寵」というものがこの世界にはあるのであり、それが私たちにとっては十字架のキリストです。

 

暗いゲツセマネ。ここには誰もいません。神さえもおられません。暗闇の中、ただ、十字架にかけられた主イエスだけが、私と共におられます。私たちは、この主の愛によって生かされています。何ものも、どんなものも、主イエスが結んでくださっているこのつながりから私たちを引き離すことはできない(ローマの信徒への手紙83839節)のだと私は信じています。