2016年1月3日「ユダの裏切りと過越の食事」

201613日 聖書箇所:マルコによる福音書141021

「ユダの裏切りと過越の食事」

 

 

公現日

 

新しい年を迎えての最初の主日礼拝です。皆さんはこの三が日はどのようにお過ごしなったでしょうか。今年一年、皆さんの上に、主の恵みとお守りがありますようにお祈りいたします。

 

教会の暦に、「公現日」というものがあります。三日後の16日(水)が公現日に当たります。「公現」は「公に現れる」と書きます。イエス・キリストが人々の前に公に現れたことを記念する日です。伝統的に聖書箇所として挙げられるのは、幼子のイエス・キリストを東方の学者たちが訪ねる場面です(マタイによる福音書2112節)。クリスマス物語においてよく知られている、いわゆる「東方の三博士の訪問」の場面ですね。東方の学者たちは輝く星に導かれ、誕生したイエス・キリストのいる場所を探し当てました。

 

この公現日において重要なことは、イエス・キリストが、イスラエル民族ではない東方の学者たちの前に現れたというところです。聖書には「異邦人」という言葉が出てきますが、異邦人とはつまり、イスラエル民族以外の人々のことを指しています。私たち日本に住む者も、イスラエルの人々からすると、異邦人ということになりますね。異邦人である東方の学者たちの前に、イエス・キリストが公現した。すなわち、イスラエル民族のみならず、全世界の諸国民にイエス・キリストの光がもたらされたことを記念して公現日という日は定められています。

 

 

 

選ばれた民

 

 聖書を読みますと、「異邦人」という言葉がたくさん出てきます。私たちが普段用いる「外国人」という言葉と意味としては同じですが、ニュアンスは少し異なります。「外国人」という言葉は国籍の違いを問題にしていますが、聖書に出てくる「異邦人」という言葉は宗教の違いを問題としています。すなわち、異邦人には「異なる神を信じる人々」というニュアンスが込められていたのですね。ネガティブに言い換えれば、古代イスラエルの人々の目には、異邦人の人々は「偶像の神を信じる人々」という風に映っていたのです。

 

古代イスラエルの人々には、「自分たちこそは神さまによって選ばれた民なのだ」という強烈な意識がありました。「選民意識」ということもできるでしょう。神さまによって「選ばれていない人々」がすなわち「異邦人」の人々であったわけです。このような「選民意識」を、傲慢だと感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかしそれほどまでに熱烈に、イスラエルの人々は主なる神さまを信じ、神さまのみを愛していたのだということが言えるでしょう。一方で、旧約聖書の中には、そのような「選民意識」がはらむ危険性を指摘する言葉も同時に記されています。預言書やヨブ記などの書です。これら「選民意識」は熱狂的な愛国心、排他的なナショナリズムにつながってゆく危険性をもっています。自分たちが正しいと信じる世界に閉じこもり、周りが見えなくなってしまうのですね。

 

 

 

出エジプトという出来事

 

 イスラエルの人々にとって、自分たちが神さまから「選ばれた」ことを証しする、決定的な出来事がありました。それは、「出エジプト」と呼ばれる出来事です。かつてエジプトで奴隷であったイスラエルの人々を、神さまがモーセを通して救い出して下さった、という出来事ですね。よく知られている場面は、海が真っ二つに割れる場面です(出エジプト記142131節)。映画の『十戒』見た方はその場面を印象深く覚えてらっしゃるのではないでしょうか。

 

 この出エジプトの出来事は、イスラエルの人々にとっていわば宗教的な「原体験」に相当する大切な体験です。神さまが自分たちを愛し、選び、救いをもたらしてくださったことの「原体験」に相当する体験であったのですね。決して忘れてはならない出来事としてずっと語り継がれてきました。旧約聖書にも、この出エジプトの出来事を記念し忘れないための、さまざまな掟が定められています。

 

 出エジプトの出来事を記念し忘れないために、特に重要な掟とされたのが、過越祭について掟です。過越祭は、現在も行われ続けるユダヤ教の三大祭りの一つです。

 

過越祭において特に重要であるのは、祭りの期間に行われる「過越の食事」です(主エジプト記12111節)。その食事において、人々は焼いた子羊、苦菜、そして酵母を入れないパンを食べます。イスラエルの民がエジプトを脱出する前夜に行った食事を再現し、それを追体験するのです。この過越祭の期間は、イスラエルの人々において特に愛国心が高まる時期でもあったでしょう。自分たちが「神に選ばれたイスラエル民族である」ことを強く自覚する期間となったことと思います。

 

 

 

最後の晩餐

 

 本日の聖書箇所を改めてご一緒に見てみましょう。本日の聖書箇所は「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。「最後の晩餐」と言うと、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵が有名ですね。出エジプトを記念する過越の食事を主イエスは弟子たちと共にとっていました。その過越の食事が、主イエスと弟子たちとの最後の食事となりました。主イエスが十字架にかかられる前の晩、弟子たちと食事をした最後の晩餐が行われたのが、この過越しの食事においてであったのですね。

 

過越の食事において、12人の弟子の一人であるユダが、主イエスを祭司長や律法学者たちの手に「引き渡す」ことが予告されます。マルコによる福音書141821節《一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」/弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。/イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。/人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」》。

 

マルコによる福音書は、なぜユダが主イエスを祭司長たちの手に引き渡すことを考えたのか、その理由についてははっきりと記していません。

 

 

 

ユダという人物

 

 ユダは、キリスト教においても大きな謎であり続けている人物です。このユダという人物をどのように受け取ったらいいのか、私たちは困惑し続けています。ユダという人物を取り上げた作品もさまざまあります。

 

日本では、太宰治が『駆け込み訴え』という短編を書いています。ユダの一人称で、その内面が告白されるという作品です。太宰は、実はユダは主イエスの一番の理解者であったという風に描いています。そして他の男性の弟子の誰よりも、主イエスに心酔し、主イエスを愛していた。しかしだからこそ、だんだんと胸のうちに激しい嫉妬、憎しみが生じるようになった。ここには太宰治自身のイエス・キリストに対する愛憎半ばする想いが投影されています。太宰治はこの作品を口述筆記で一気に語ったという説話が残っていますが、読む私たちの心に切実なものをもって迫ってくる作品です。

 

 私も、ユダが弟子の中で特別に悪人であったという風には思いません。むしろ太宰が描くように、主イエスに心酔し、熱心に主イエスに従っていた人物であったのではないかと思います。けれども、だんだんと主イエスに失望し、主イエスの後についてゆくことができなくなった。ユダが思い描く主イエスの姿と、実際の主イエスの姿とにずれが生じて行ったのです。

 

ユダは一体、主イエスに何を期待し、何に失望していったのでしょうか。

 

 

 

熱烈な愛国者ユダ

 

 ユダの抱えていた課題は、いまを生きる私たちにも通じる課題であると思います。それは、「愛国心」「ナショナリズム」という課題です。ユダは、熱烈な愛国者であり、民族主義者でありました。イスラエルは「神に選ばれた民族である」ことを強烈に意識する人物であったのです。愛国者であるという点においては、ペトロや他の弟子たちもそうであったでしょうが、ユダはその中でも飛びぬけて熱烈な愛国者であったのではないかと考えられます。

 

当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にありました。いわば属国的な位置にあったわけですが、そのような状態が熱烈な愛国者であるユダにとってはいかに耐え難い、屈辱的なことであったかは想像できることです。ユダは主イエスに、イスラエルの独立を取り戻してくれる「政治的な救世主」の役割を期待していたのです。主イエスこそは未来のイスラエルの王であり、そして自分はその右の席につくのだと夢見ていたのかもしれません。

 

 しかしだんだんと、主イエスにそのつもりがあるのか疑わしくなってきました。政治的なリーダーになろうとする素振りが一向にないのです。民衆と共にローマに対して蜂起をする素振りがまったく見られない。どころか、自分はもうすぐ人々の手に引き渡され、殺されるのだと予告する(マルコによる福音書103234節)。「王となるべき人物が死んでしまったら、一巻の終わりではないか」。だんだんとユダの中に不安、不信感などの否定的な想いがわき上がって来たのでしょう。

 

本日の聖書箇所の直前に記される、ベタニアで主イエスが香油を注がれた日に、ユダの中で何かが爆発したようです。それはちょうど、過越祭が間近に迫る時でありました。過越祭の期間は、イスラエルの人々の中で特に愛国心が高まる時期でありました。どんどん自分の中で膨れ上がってゆく愛国心と、主イエスの現実の態度とのずれに、ついに耐えられなくなったのでしょうか。ユダはもはや主イエスのもとにとどまることに耐え得ず、主イエスのもとから離れてゆくことを選択しました。そして、主イエスを裏切って、主イエスを迫害する側に回ってゆきました。

 

 

 

個人の尊厳を取り戻すこと

 

 主イエスが願っておられたのは、イスラエルの再興ではありませんでした。主イエスは神の国の建設を志しておられました。この神の国とは、国家ではなく、「一人ひとりに、神さまからの尊厳が確保されている場」です。「イスラエルの栄誉を取り戻す」のではなく、「個人の尊厳を取り戻す」ことこそ、主イエスが願って下さっていたことでした。国籍を超えて、民族を超えて、宗教をも超えて、すべての人に神さまからの尊厳の光がともされてゆくこと。

 

そしてそのために、最期に十字架におかかりになりました。十字架こそが、主イエスがつくべき王座でありました。愛国心に囚われていたユダには、主イエスのその願いは理解することができなかったのです。

 

熱烈な愛国者であったユダは、旧約聖書の時代に生きていれば、英雄になり得た人物であったでしょう。イスラエルの民族的な英雄ユダ・マカバイが同じ「ユダ」という名前であるのは象徴的です。ユダ・マカバイとは紀元前2世紀のマカバイ戦争においてイスラエルの独立を取り戻した人物です。「ユダ」という名前は本来、イスラエル民族において「英雄」の名前でした。それがこの新しい時代においては、「裏切り者」の名前になってしまったのです。

 

主イエスが示して下さっているのは、まったく新しい価値観でした。国家の栄誉、民族の栄誉よりも、個人の尊厳を第一とするまったく新しい世界観です。それは当時の価値観と社会の在り方を180度ひっくり返すものでした。イエス・キリストを通して、新しい時代が到来しようとしていたのです。従来の古い価値観の中を生きていたユダには、主イエスの願いが理解できませんでした。

 

かつて、私たちの国にも熱狂的な愛国心、排他的なナショナリズムが吹き荒れた、暗い時代がありました。あの戦争の時代です。愛国心が熱狂的なものとなるとき、いかに内外に悲惨な結果をもたらすかということを私たちは経験しました。そこでは、個人の尊厳がまったく見失われてゆきます。愛国心、ナショナリズムをどう乗り越えてゆくかは、いまを生きる私たちにとっても課題であり続けています。気をつけておかないと、私たちの社会は排他的なナショナリズムに向かう危険性を常に秘めています。私たちの国も、またアメリカも、事実いまそのような危うい状況にあると言えるでしょう。

 

 

 

十字架の光を絶えず見つめながら

 

冒頭で、もうすぐ公現日であることを述べました。異邦人である東方の学者たちの前に、イエス・キリストが公現した日です。聖書はイエス・キリストの光がイスラエル民族のみならず、全世界の諸国民にもたらされたことを証ししています。イエス・キリストの光は、全人類を照らす光です。暗闇の中を歩む一人ひとりの「個人」を照らし出す、神さまからの救いの光です。そしてその光は、主の十字架から発されています。その光は、裏切ったユダをも照らしています。いま、ここに集った私たち一人ひとりを照らしています。十字架の出来事は、すべての人々を「神の国」へ向かって導き出す「新しい出エジプト」となりました。

 

かつて東方の学者たちが輝く星に導かれたように、十字架の光を絶えず見つめながら、この一年をご一緒に歩んでゆきたいと願います。