2016年1月31日「主イエスを見捨て逃げる弟子たち」

 2016131日 聖書箇所:マルコによる福音書144352

「主イエスを見捨て逃げる弟子たち」

 

 

「非暴力・不服従」という思想

 

昨日130日はマハトマ・ガンジーが亡くなられた日であったそうです。インド独立の父とされるガンジーは、今から68年前の1948年の130日、狂信的なヒンズー教徒に銃撃され死去しました。ヒンズー教徒とイスラム教徒の争いを防ぐために断食をした後のことであったそうです。銃撃された際、ガンジーは額に手を当て、「あなたをゆるす」というメッセージを犯人に送ったと伝えられています。

 

ガンジーと言えば、「非暴力・不服従」を貫いたことで有名です。ガンジーの思想はキング牧師にも大きな影響を与えました。

 

「非暴力・不服従」という思想のルーツの一つに、新約聖書のイエス・キリストの教えがあります。たとえば、次のイエス・キリストの教えはよく知られています。《あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。/しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい》(マタイによる福音書53839節)。ガンジー自身はヒンズー教徒ですが、ガンジーが深い影響を受けたものの一つとして、このイエス・キリストの教えがあったそうです。

 

 引用した主イエスの有名な言葉は相手の暴力や不正に対して「無抵抗」でいるように教えていると受け取られることもあります。けれども、この言葉は暴力や不正に「無抵抗」でいることを教えているものではありません。そうではなく、「暴力に対して暴力をもって報復すること」を禁じているのだということができます。ガンジーの主張した「非暴力・不服従」も同様です。「非暴力、不服従」というのは「無抵抗」とは異なります。不正に対して何もせず「無抵抗」でいるのではなくはっきりと抵抗をするが、ただし、暴力をもっては決してそれはしないという決意を示す言葉です。

 

 

 

「剣を取る者は皆、剣で滅びる」

 

新約聖書を読みますと、主イエスが決して暴力を容認しておられない、ということが分かります。主イエスのその「非暴力」の姿勢をもっとも端的に表わしているのが本日の聖書箇所ということができるでしょう。ユダの裏切りをきっかけとして、主イエスが武装した集団によって捕えられる場面です。

 

マルコによる福音書144352節《さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。/イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。/ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。/人々は、イエスに手をかけて捕らえた。/居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。/そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。/わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕えなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」/弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。/一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、/亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった》。

 

主イエスはこの場面において、祭司長、律法学者、長老たち――いわゆる「最高法院」の人々が遣わした武装集団によって捕えられます。ユダに率いられて来た人々は、手に剣や棒をもっていました。

 

時代物の映画やドラマであれば、ここで彼らと弟子たちとの間に激しい攻防が繰り広げられることでしょう。剣と剣を交える激しい闘いが起こる。「先生! ここは私たちがやつらを食い止めますから、先に逃げてください!」、「うむ、分かった!」……などいうやり取りがされることでしょう。主イエスを捕まえに来た人々もそのような激しい攻防が起こることを予想していたようです。けれども、本日の聖書箇所においては、そのような攻防は一切起こりません。唯一、主イエスが捕らえられたのを見て、弟子の一人が剣で相手に打ってかかり、片方の耳を切り落としたという記述があります47節)。しかし主イエスはそれ以上の行為を制止されました。

 

マタイによる福音書には、弟子が剣で相手を傷つけた時、主イエスがこのように語ったと記されています。《剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる》(マタイによる福音書2652節)。この言葉も、主イエスの「非暴力」の姿勢を示す代表的な言葉としてよく知られています。

 

 

 

主イエスを見捨て逃げる弟子たち

 

 ガンジーやキング牧師の働きもあって、今日の私たちの世界では「非暴力」という言葉は用語としては定着しているものです。けれども主イエスが生きておられた当時、主イエスのこの「非暴力」という姿勢はほとんどの人にとって、理解不能なものであったと思います。当時は、そのような発想自体がなかったのです。剣をもってやってきた相手に、剣をもって応酬しないなどということは、考えられないことであったことでしょう。

 

 主イエスの弟子たちもまた、主イエスのお考えが理解できなかったことと思います。自分たちが休んでいる時、不意をつかれて、武装集団に囲まれてしまった。弟子たちは慌てて身構えたことでしょう。その瞬間は、弟子たちもまた無我夢中で抵抗をするつもりであったのかもしれません。しかし、主イエスは「剣をさやに納めなさい」とおっしゃいました。

 

暴力の手段に訴えることを制止された弟子たちは、強い恐れに襲われたのではないでしょうか。動揺し、パニックになったのではないでしょうか。まるで正体不明の暗闇が自分たちを包み込んでいるように、強い恐れを感じたかもしれません。主イエスを見捨てて、逃げて行ってしまいました。

 

 マルコによる福音書は、一人の若者の姿も記しています5152節)。連行される主イエスの後にそっとついて来ていたけれど、捕えられようとすると亜麻布を捨てて裸で逃げてしまったという若者の姿です。この若者が誰であるのかは分かりません。この若者はマルコによる福音書を記したマルコ自身なのではないかという説もあります。であるとするとマルコは、過去の自分の恥ずかしい姿をあえて記しているということになるでしょう。

 

 主イエスはその後、十字架の道行きにおいて、人々からさまざまな暴力を受けます。《それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った》(マルコによる福音書1465節)。《ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した》(1515節)。《兵士たちは…また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした》(1619節)。

 

 これら暴力を身に受けながら、しかし主イエスは暴力でもって報復されることをなさいませんでした。神に報復を願うこともなさいませんでした。主イエスは自身に暴力を振るった人々をゆるしておられました。

 

 

 

私たちの無理解

 

主イエスの「非暴力」の姿勢は、当時、周囲の人々や弟子たちには理解できないものでした。弟子たちが主イエスの意図を理解することが出来たのは、主イエスが十字架におかかりになり、復活されて後のことでした。弟子たちは剣ではなく、「神の言葉」という武器をもって現実に向かい合うべきことを学んでゆきました。

 

では、あれから2000年がたって、私たちは主イエスの教えを理解できているかと言えばそうではないでしょう。言葉としては理解していても、残念ながら、私たちはそれをほとんど自分たちのものとはできてはいません。暴力に対して言葉で抗するのではなく、相変わらず、暴力に対して暴力で応酬してしまっているのが私たちの世界です。

 

「暴力に対して暴力をもって報復する」連鎖は絶えることはありません。たとえば、繰り返されるテロ行為。そのテロ行為の報復として、繰り返される空爆。「暴力に対して暴力をもって報復する」という連鎖は、いまだまったく断ち切られることがありません。その連鎖によって、これまでどれほどの命が奪われ続けてきたことでしょうか。今日も、それら暴力の連鎖によって誰かの命が奪われています。

 

 日々暴力的なニュースにさらされ続けている私たちには、イエス・キリストの教えはあまりに理想主義的であって、現実に実現することは不可能だと思うでしょうか。聖書の教えなど、放り投げたくなるでしょうか。

 

《あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。/しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい》(マタイによる福音書53839節)

 

確かに、これら教えを口で唱えているだけで、世界が「変わる」わけではないでしょう。断ち切ることができない暴力の連鎖、憎しみの連鎖を前に、私たちは深い無力感を感じることもあります。私たちの目の前を、まるで深い暗闇が覆っているかのようです。私たちはユダのように、この暗闇にむしろ共振し、我を忘れてそこに参加するほかないのでしょうか。もしくは、他の弟子たちのように、我を忘れてそこから逃げ出し、一切を放棄する他にないのでしょうか。私たちのこのような不確かな姿勢が、いまも主イエスを十字架の死に追いやり続けているのではないかと思わざるを得ません。

 

 

 

「自分が変えられないために」

 

 冒頭でガンジーについて触れましたが、ガンジーの言葉にこのようなものがあります。《あなたがすることはほとんど無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである》。

 

 私たちがしなければならないことをするのは、「世界を変える」ためではなく、「世界によって自分が変えられないようにするためである」とここでガンジーは言っています。主イエスの「非暴力・不服従」の教えも、まず第一に、そのようなものとして受け止めるべきなのかもしれません。

 

確かに、私たちの世界は現在、暴力が暴力を呼ぶ世界となってしまっています。そのような中、暴力に「否」を唱えるのは無意味に思えるかもしれません。しかし私たちが「非暴力」を決意し、生き方の軸に据えるのは、「世界を変える」ためではなく、まず第一に、暴力的な世界によって「自分が変えられないようにする」ためであると言うことができるでしょう。

 

 私たちが、今目の前にある暴力の連鎖を「仕方がない」として受け入れてしまうとき、それに順応してしまうとき、私たちは自身が「世界によって変えられてしまっている」ことになります。また暴力の連鎖に共振し我を忘れてそこに参加してしまうとき、私たちは自身が「世界によって変えられてしまっている」ことになります。暴力の連鎖に服従してしまっていることになります。

 

私たちはまず、自分の心を自分で守らねばなりません。《何を守るよりも、自分の心を守れ/そこに命の源がある》(箴言423節)

 

 

 

「変えられない」ことにより、世界を「変えた」主イエス

 

 主イエスは十字架の道行きにおいて、何ものによってもご自分の心を「変えられる」ことはありませんでした。どれほど暴力を振るわれても、侮辱されても、人間としての尊厳を傷つけられても、報復することに「否」を突きつけ続けられました。変わることなく相手に「ゆるし」を祈られました。暴力に対して暴力を返さない。憎しみに対して憎しみを返さない。十字架の死に至るまで、その最も困難なことを実践され続けました。暴力の連鎖に決して服従されなかった。そして何ものによっても「変えられない」その姿をもって、私たちの世界を「変えて」ゆきました。

 

 私たちはいまだ暗闇の中におりますが、この主イエスのお姿に学び、この主イエスの祈りに私たちの祈りを合わせてゆきたいと願います。