2016年10月16日「神の国と神の義を求めなさい」

20161016日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書61618

 

「神の国と神の義を求めなさい」

 

 

 

マタイによる福音書61618節《「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。/あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。/それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」》。

 

 

 

「神の国と神の義を求めなさい」

 

花巻教会のゴスペルソング会で『神の国と神の義』(作詞・作曲 Karen Lafferty)という曲を歌っています。月初めの週にお誕生日のお祝いの歌をプレゼントする際にも何回か歌ってきましたので、皆さんも覚えてらっしゃることと思います。

 

♪《神の国と神の義をまず求めなさい。そうすればみな与えられる。ハレルヤ》。

 

 とても覚えやすい、親しみやすい曲ですよね。

 

 この曲の歌詞は、マタイによる福音書633節のみ言葉をもとにしています。《何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる》。

 み言葉をほぼそのまま引用し、それにメロディをつけているということが分かります。

 

もともとの文脈では、よく知られた「思い悩むな」というメッセージの中で、この言葉が配置されています。私たちは日々の生活の中で、さまざまに必要なものが生じてきますよね。食べる物、着る物を始め、本当にさまざまなことが必要で、それらを心配しだすときりがないほどです。主イエスはそのような私たちの不安な想いを受け止めてくださった上で、「思い悩むな」とおっしゃってくださっていました。私たちには悩み事、心配事が尽きませんが、そのように先のことをばかり考えて悩んでいるのではなく、《何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる》とおっしゃってくださったのです。

 

 

 

「神の国」とは……!?

 

 ところで、イエス・キリストがおっしゃった「神の国」とは、どのようなものなのでしょうか。分かるようでいて、はっきりと言葉にするのは難しいものであるかもしれません。それは何か特定の国家のことを意味しているのではないことはもちろんのことです。

 

「神の国」はギリシア語の原語では、「神のご支配」とか「神の王国」とも訳すことのできる言葉です。神さまの力、神さまの権威、また神さまの想いが満ち満ちている場所というニュアンスでしょうか。

 

「神の国」とは、神さまの想いが実現されている場です。「神の国」とは、たとえば、神さまの愛が湧き出ている場所、神さまの愛がしみわたっている場所、神さまの愛が満ち満ちている場所、と表現することもできるでしょう。

 

 私たちは日々の生活の中で思い煩いや心配事が山積みですが、まずこの神さまの愛に私たちの心を開くべきことが言われています。そうすれば、あなたが必要としているものはみな自然と与えられてゆくのだ、と。

 

 神さまの愛が満ち満ちている神の国――。それがどのような場所であるのか、私たちはいまだほんの一部しか理解していませんが、この場所において大切なことは、その神さまの愛は、「無条件の愛」である、ということです。

 

 私たちが過去に立派なことをしたから、または将来素晴らしい人間になるから、神さまは私たちを愛してくださるのではない。「もし~ならば……」という条件つきではないのですね。そうではなく、いま、この瞬間のあなたを、神さまは受け入れ、かけがえのない存在として愛してくださっている。それが無条件の愛です。「あるがまま」のあなたを受け入れてくださる愛、それが無条件の愛、と言い換えることもできるでしょう。

 

 

 

断食をするときには

 

 私たちはイエス・キリストを通してこの無条件の愛を知らされつつ、しかし心のどこかでいまだこの愛を受け入れることができていないかもしれません。自分が「あるがまま」に受け入れてられていることを信じられず、違い自分になろうと懸命になってしまっているかもしれません。

 

 本日の聖書箇所は、そのような私たちの誤解と何かつながっている言葉のような気がいたします。

 

マタイによる福音書61618節《「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。/あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。/それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」》。

 

 ユダヤ教には、律法で命じられている三つの宗教的な実践がありました。一つは「施し」、もう一つは「祈り」、そしてもう一つは「断食」です。この三つの務めを心を込めて行うことが、信仰者として大切な務めであるとされていました。

 

 キリスト教においては、断食は教派によってとらえ方がさまざまです。熱心に行う教派もあれば、基本的には行わない教派もあります。私自身、断食をした経験がありませんので、本日の聖書箇所について何か語るのは恐縮な想いがいたしますが……とにかく、主イエスが生きておられた当時、断食は非常に大切な宗教的な行いでした。

 

 主イエスの本日の言葉を読みますと、当時、断食を行う際に、わざと自分が断食をしていることが人々に分かるようにする人々がいたらしいということが分かります。自分が断食をしていることを周囲にアピールしている、ということですね。わざと苦しそうな顔をしてみる、とか。

 

 本日の教えでは、断食の際は、むしろ髪に油をつけ、顔を洗って、むしろ断食をしていることを人々に気づかれないようにしなさい、と言われています。18節《それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである》。無理に周囲の人々にアピールしなくても、神さまはちゃんと見ていてくださる、知っていてくださるから大丈夫だよ、ということが言われています。

 

 しかし、周囲に「断食アピール」をしてしまう人々の気持ちも、よく分かりますよね。断食に限らず、自分が頑張っていることを周囲の人に知ってもらいたい、というのは私たちの内に当然湧いてくる想いです。ここではそのような私たちの自然な欲求が必ずしも否定されているのではありません。ここでは、周囲の人にアピールすることばかりに意識を向けているとき、大切なことを自ら見失ってしまっているのだ、ということが言われています。

 

 周囲の人に自分がよい人間であること、優れた人間であることを知ってもらいたいと懸命になっているとき、私たち自身が、非常に苦しい状態に陥ります。それは私たち自身がいまの自分ではなく、自分ではない誰かになろうとしているからです。自分で自分を受け入れることができていない、ですので、非常に苦しい状態に追い込まれます。

 

 そのような時、私たちは目を向けるべきことは、自分が周囲の人間にどう見られているかではなく、神さまが自分をどう見つめてくださっているか、ということです。

 

 先ほど申しましたように、神さまの愛は、無条件の愛です。過去に立派なことをしたからではなく、この先素晴らしいことをするからでもなく、いまこの瞬間のあなたを、神さまは受け入れ、愛してくださっている。神さまはいまこの瞬間の、「あるがまま」のあなたを受け入れてくださっています。

 

 神さまは人の目には隠れたことも含め、すべてを知ってくださっている。すべてを見てくださっている。私たちの弱さも含め、すべてを見てくださり、すべてを受け入れてくださっている。この神さまのまなざしに私たちの心を開いてゆくこと。そのことこそが大切なことであると主イエスは私たちに伝えてくださっています。

 

 

 

そのままのあなたで「善い」

 

本日の箇所では「断食アピール」をしてしまう人々が出て来ましたが、マタイによる福音書では、他にも「施し」をする際にアピールしてしまう人、「祈り」をする際にアピールしてしまう人も出てきましたね。施しをする際に、あえて目立つところに立って、人々の注意を引くようにしてしまう62節)。また、祈る際に、人に見てもらおうとしてあえて目立つところに立って祈ってしまう、など65節)

 

皆さんがついついアピールしてしまう事柄はなんでしょうか。つい周囲の人々に頑張っていることをアピールしてしまうポイントは何でしょうか。私たちはそれぞれ、そのようなポイントをもっていることと思います。

 

 その部分も見つめてゆくと、何か誤解をしてしまっている自分に出会うかもしれません。素晴らしい人間にならないと受け入れてもらえないと誤解をしてしまっている自分に出会うかもしれません。「あるがまま」の自分を自分で受け入れられず、苦しんでいる自分に出会うかもしれません。

 

 私たちはこの傷つき苦しんでいる自分と出会い、その自分に、神さまの愛を伝えてあげることが大切です。この自分に、神さまの愛を向けてあげること。

 

 そのままのあなたで「善い」のだ、ということ。あるがままのあなたで生きて行って「善い」のだということ。私たちがこの真実に心を開くとき、そこに神の国は現れ出ます。いつも神の国は自分と共にあるということに気付きます。

 

 

 

「自分を愛する」という大切な務め

 

 私が最も大切に思っている聖書の言葉の一つに、イザヤ書434節の言葉があります。花巻教会の説教でも繰り返し引用している言葉です。《わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している》。

 

 私たちにとって最も大切な言葉であると同時に、最も見失いやすい言葉でもあるように思います。私たちは気が付くと、この言葉を見失ってしまう。知識としては知っていても、それが自分に向けられた言葉として感じることができなくなってしまいます。

 

 だからこそ私たちは一日一日、この言葉を自分に向けてあげることが大切ではないでしょうか。何度でも、何度でも、この言葉を心の中で唱え、悲しんでいる自分に向けてあげること。そのように自分を労わり、いつくしんであげることが、大切であるように思います。

 

自分がこの言葉を忘れたのなら、何度でも伝えてあげる。朝、不安の中で目が覚めたとき、伝えてあげる。昼間に忙しくしているときに伝えてあげる。夜、寂しい思いで眠るときに伝えてあげる。その絶え間ない行いは、言い換えると「自分を愛すること」と言うことができるように思います。神さまが私を愛してくださっているように、自分を愛すること。

 

 ユダヤ教において、「施し」、「祈り」、「断食」が大切な宗教的な実践であるということを申しましたが、いまを生きる私たちにとって、最も大切な宗教的な実践の一つは「自分を愛すること」です。

 

 どうぞ私たちがこの大切な務めを少しずつ実践し、神の国をこの私の内から広げてゆくことができますよう願っています。