2016年10月30日「平和のうちに」

20161030日 主日礼拝

 聖書箇所:詩編4

「平和のうちに」

 

  

詩編419節《指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。/ 

呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。/苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください。/

人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。/主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。/おののいて罪を離れよ。/横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。/ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。/

恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。/主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。/人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。/それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。/平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。/主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです

 

 

 

賛美歌としての詩編

 

 今年度から月に一度、旧約聖書の詩編から説教をしています。詩編は古代イスラエルの人々の神さまへの賛歌が集められたものです。本日ご一緒にお読みするのは、詩編の4編です。

 

 本日の詩編4編は冒頭の1節に小さい文字でこのように記されていました。1節《指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩》。

 

この説明書きは何だろうと不思議に思われた方もいらっしゃるかもしれません。このような文言は詩編4編だけではなく、詩編では多くの詩の冒頭に付け加えられています。これら文言は、詩編が一つの賛歌集にまとめられるとき、編集をした人々によって付け加えられたものだと考えられます。もともと詩の一部としてあったのではなく、編集をした人々によって付け加えられたものであるわけですが、本日の説明書きは興味深いことが記されています。《指揮者によって。伴奏付き》。これら文言から、詩編が編集された当時、この詩には伴奏が付いていたということが分かります。つまりこれは歌――賛美歌だったわけですね。賛美歌を歌う際、それを指揮する「指揮者」も存在していたことが伺われます。

 

 現在の私たちには詩編はその言葉のみが受け継がれているわけですが、元来は言葉だけではなくメロディがあり、伴奏も付いていたのですね。それらどのようなメロディであったか、どのような伴奏であったかは、現在の私たちには分かりません。メロディや伴奏というのは口頭で伝承されていたでしょうから、時代が下ると共にいつしか失われてしまったのでしょう。

 

 伴奏は、何らかの弦楽器で伴奏していたと考えられます。ハープのような楽器で伴奏をしていたかもしれません。ハープの音色は本当に美しく、聴いていて心癒されるものですよね。詩編の美しい言葉が、ハープを伴奏に謳われているところを想像すると……想像するだけで、何だか心が安らかになってくるような気がいたします。

 

 また、場合によっては、弦楽器だけではなく、管楽器や打楽器も伴奏で用いることもあったようです。ハープの他に、角笛や、太鼓やシンバルも用いていた。楽曲によっては、かなり賑やかな伴奏をすることもあったのでしょう(詩編149編、150編を参照)。想像するだけで、何だか楽しくなってきますね。

 

 詩編が賛美歌であったことを示す名残が、もう一つございます。それは、3節と5節の末尾に小さく記されている《セラ》という言葉です。この言葉の意味するとこははっきりとは分かりませんが、詩編を歌う際の何らかの指示であるらしいことは分かります。「繰り返し」の指示であるという説、「声を高める」という意味ではないかという説、「楽器による間奏の挿入」という説、「歌い手がひざまずく」という説など、いろいろな説があるようです(参照:月本昭男氏『詩篇の思想と信仰Ⅰ 第1篇から第25篇まで』新教出版社、2003年、40頁)。確かなことはいまや不明ですが、詩編が賛美歌であったということが、この小さな文言からも伺い知ることができます。

 

 本日の詩編4編は、どのようなメロディがついていたのでしょうか。詩の内容から、どこか哀切な調子を帯びるメロディであったかもしれません。その切なるメロディを、ハープの音色がやさしく包み込む――元来のメロディと伴奏とに想いを馳せつつ、ご一緒に詩編4編の言葉を味わってみたいと思います。

 

 

 

名誉が傷つけられ

 

 詩編4編は、苦難のただ中で、神さまに対して懸命に祈りをささげる言葉から始まります。2節《呼び求めるわたしに答えてください/わたしの正しさを認めてくださる神よ。/苦難から解き放ってください/憐れんで、祈りを聞いてください》。

 

歌い手の「わたし」はいま、どのような苦難の中にいるのでしょうか。後に続く文言から伺い知ることができるのは、「わたし」は周囲の人々からの誤解や不当な評価によって、名誉が傷つけられた状態にいる、ということです。そのことによって心が深く傷つけられているということが分かります。

 

「わたし」は自分を傷つける人々を思い起こし、胸の内で問いかけます。36節《人の子らよ/いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか/むなしさを愛し、偽りを求めるのか。/主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。/おののいて罪を離れよ。/横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。/ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め》。

 

 3節に《わたしの名誉》という言葉が出て来ました。原文のヘブライ語では、「名誉」は「カーボード」という言葉です。「カーボード」は人に対して使われるときは「名誉」の意味となり、神さまに対して使われるときは「栄光」の意味となります。

 

  この「カーボード」という語は、元来は「重さ」を意味する言葉です。自分が「重んじられる」こと、すなわちそれが「名誉が与えられること」とつながっているのですね。

 

  旧約聖書にはこのカーボードという言葉がたくさん出てきます。神さまの「栄光」とイスラエル民族の「名誉」を表す言葉として、至る所に登場します。古代イスラエルの人々は、カーボードを何よりも重んじる人々でした。言い換えれば、イスラエルの人々にとって、カーボードが損なわれることが、最も耐え難いことでした。

 

  カーボードと対照的な言葉として、「カル」というヘブライ語があります。「軽さ」を意味する言葉ですが、ヘブライ語では「呪い」という意味を伴うこともあります。自分が「軽んじられる」ことは、名誉が傷つけられることです。イスラエルの人々にとって、周囲から「軽んじられる」ことは耐え難いことであり、それは「呪い」に相当するものであったのですね。

 

 

 

自尊心の低下

 

これら古代イスラエルの人々の感覚というのは、いまの私たちにも実感できることなのではないでしょうか。人から「重んじられる」というのは、私たちにとって嬉しいことです。一方で、人から「軽んじられる」経験は、私たちをひどく傷つけるものです。

 

  イスラエルの人々が大切にした「カーボード」は、「自尊心」ということとつながっています。自尊心――自分自身を尊ぶ心。私たちが生きてゆくうえで、自尊心は欠かすことができないものです。と同時に、生きてゆく中で最もよく傷つけられ、損なわれてしまうものも、この自尊心というものなのではないでしょうか。

 

詩編4編の「わたし」も、周囲の人々から名誉を傷つけられ、自尊心が低下してしまっている状態にあったのだと想像します。自尊心が低下してしまっているとき、私たちの心身からは生きる力が損なわれてゆきます。詩編4編の「わたし」は懸命にその苦しみを主に訴えています。

 

 

 

私たちはいかにして自尊心をもって生きてゆけるか

 

 私が最近よく考えますことは、私たちはいかにして自尊心をもって生きてゆくことができるだろうか、ということです。私たちはいま生きているこの時代は、自尊心をもって生きてゆくことが非常に困難です。「自分を大切にして生きてゆく」ということが非常に困難な状況にあります。

 

 たとえば本日の詩編の「わたし」のように、周囲から誤解を受けたり、周囲の無理解により不当な評価をされ自尊心が損なわれていってしまう、ということがあるでしょう。その他にも、人から「軽んじられている」と感じる経験を、私たちは生きてゆく中で、数多くしてゆきます。それは子どもも大人も、同様です。反対に、「重んじられている」と感じる経験というのは残念ながら、少ないのではないでしょうか。そのような状況の中で、一貫して自尊心を保ち、育んでゆくことは、いかに難しいことかと思わされます。

 

 自尊心が低下すると、食欲がなくなったり、夜眠れなくなったり、体にもさまざまな影響が出て来ます。倦怠感や抑うつなどの症状が生じることがあります。自尊心の低下は、私たちの心と体と魂との深刻な影響を与えてゆきます。

 

 

 

シャローム(平和、平安)のうちに

 

 本日の詩編4編でも、「わたし」は苦難のただ中にいます。周囲の人々にとって名誉が辱められた状態にあります。状況が何か進展しているような様子は伺われません。

 

 そのように困難のただ中にいながら、しかし、後半部の7節から、祈りの言葉の調子が変わっていきます。それまでの切実な調子に、何かあたたかさ、安らかさのようなものが加わってゆくのです。79節《恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。/主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。/人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。/それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。/平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。/主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです》。

 

最後の9節の言葉から、詩編4編は伝統的に「夕べの祈り」「夕べの歌」としても用いられてきたそうです。9節《平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。/主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです

 

夜眠りにつく前というのは、いろいろなことを思い出してしまうときでもあります。辛いこと、嫌なこと、悲しいことがあったとき、それらを思い出してしまって眠れなくなってしまうことがあります。しかし本日の詩編4編で「わたし」は、《平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります》と歌います。

 

「平和」と訳されている言葉は、もとのヘブライ語では「シャローム」と言います。「平安」と訳すこともできる言葉です。神さまからのシャロームのうちに身を横たえ、わたしは眠るのだ、と。

 

 ここで「シャローム」がどのような状態としてイメージされているのかを理解するために、7節の言葉を見てみたいと思います。7節《主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください》。

 

古代イスラエルの人々はこの《御顔の光》という言葉に、神さまが人格をもった存在として「顔と顔を合わせて」向かい合ってくださり、自分たちに大いなる祝福を注いでくださる、という想いを込めていました。

 

神さまの《御顔の光》を全身で受ける中で与えられる、安全で、安心な感覚。神さまが、かけがえなく貴い存在として自分を「重んじて」くださっているという、確かな感覚。神さまの光の中で、すべてが完全であり、何一つ欠けることがないという状態。一人ひとりが、尊厳をもった存在として大切にされ、尊重されている状態を、聖書は「シャローム」という言葉で呼んでいます。

 

 

 

御顔の光を

 

詩編4編の「わたし」は、苦しみのただ中で、この《御顔の光》を思い起こそうとしています。神さまの御顔の光がいま自分に向けられていることを信じ、それを全身で感じ取ろうとしています。

 

《御顔の光》という言葉から、礼拝の「祝祷」の言葉を思い起こした方もいらっしゃるかもしれません。礼拝の最後の祝祷の中の言葉です。《主があなたを祝福し、あなたを守られるように。/主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。/主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように》(民数記62426節)

 

この祝祷の言葉と、詩編4編の7節の言葉とは、同じことを祈り求めています。「主が私たちに御顔を向けてくださるように」という祈りです。私たちは礼拝の最後にこの祈りを共に祈るわけですが、礼拝の最後のみならず、私たちはどんな場所においても、この《御顔の光》を思い起こすことがとても大切なことであると、この度改めて思わされました。

 

《御顔の光》を思い起こし、それを祈り求めること。それは、いま現実に私たちに注がれている神さまの光に、私たち自身の心を開いてゆくことに他なりません。神さまはいま、私たち一人ひとりに御顔の光を向けてくださり、「あなたは、生きていって、よい」のだということを語りかけてくださっています。このシャロームの中で、私たちの心と体と魂とは安息が与えられ、負った傷は少しずつ癒されてゆきます。損なわれた自尊心が少しずつ取り戻されてゆきます。

 

たとえ周囲の人々があなたを誤解していても、あなたを批判していたとしても、神さまはあなたに絶えず御顔の光を向けてくださっています。御顔の光であなたの全身を照らし、あなたの存在そのものを、「よい」と祝福してくださっています。この祝福はどんなときも、決して、あなたから離れ去ることはありません。

 

どうぞ今晩、眠りにつく前、神さまからのシャロームが、皆さんと共にありますようにと祈ります。