2016年11月13日「人を裁いてはならない」

20161113日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書716

「人を裁いてはならない」

 

 

マタイによる福音書716節《「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。/あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。/あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。/兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。/偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。/神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」》。

 

 

 

「障害者」週間

 

 NCC(日本キリスト教協議会)は、毎年11月の第二週を「障害者」週間に定めています。《教会と「障害者」の問題のありようを吟味し、さまざまな差別と偏見の垣根を取り除く祈りと働きの機会として》(「「障害者」と教会問題ニュース No.63」、5頁より)この「障害者」週間が定められています。今年度は本日の1113日(日)から19日(土)までがその期間にあたります。  

 

726日未明に起こった相模原市であの痛ましい事件が起こってから3か月半が経ちました。その大きな衝撃、悲しみはいまだ消えることがありません。「障害者」週間として呼びかけられているこの一週間、一人ひとりが神さまから見て「かけがえのない」存在であるという真理に立ち、私たちの社会の在り方、また教会の在り方を改めて見つめ直す機会としたいと思います。

 

「相模原障害者施設殺傷事件」の知らせを受けて、国内外で追悼の意やメッセージが出されました。私たち花巻教会が属する日本基督教団でも、社会委員会からコメントが出されています(201689日付)。そのコメントの一部をお読みしたいと思います。

 

《私たちは普段、点数や成績や能力、その成果の大小などによって人を評価することに慣れ切っています。そのような中でいつの間にか人の命の価値が見えなくなる危険性があります。誰が生きていていいのかと、誰が生きていてはいけないのかということについてまで、人は決めることはできません。

聖書は、人は皆、天地万物を創造された神の御心によって生きることを示します。もし私たちが、自分の能力を基準にされて神から見られるとしたら、誰も神の前に生きることはできないでありましょう。神の赦しと慈愛により私たちは生きています。世の全ての人が等しくその神の愛の下にあります。人は、自分自身を含めて、命の可否について判断を下すことはできないのです。

神は一人ひとりに固有な命を与えておられます。誰もがその固有な命の中で、時には喜び、時には悲しみ、時には苦しむのです。その一つひとつの命に、神は意味を与えておられると信じます》(日本キリスト教団出版局『信徒の友 201611月号 特集 障害を持つ人と歩む教会』、2021頁)

 

このコメントはとりわけ、相模原の事件の容疑者の若者が発した「障害者はいないほうがいい」との言葉を踏まえて記されています。この度の事件においては、事件の残虐性とともに、容疑者の若者が抱いていた思想が私たちの社会に大きな衝撃を与えました。

 

引用したコメントでも述べられているとおり、「誰が生きていていいのか」「誰が生きていてはいけないのか」ということについて、私たちは決めることはできません。自分の「ものさし」で、人の価値を決めることはできないし、人の命の可否について判断を下すことも決してできません。聖書は一人ひとりの命が神さまの目から見て「かけがえのない=替わりがきかない」ものであり、決して失われてはならないものであることをこそ語っています。

 

 容疑者がなぜこの度の事件を起こすに至ったかは私たちにははっきりと分かりません。皆さんもご存じのように、容疑者の若者はナチスドイツの「優生思想」の影響を受けていたことも報道されています。「優生思想」は、まさに一部の人々の「ものさし」によって人を一方的に「優れた者」と「劣った者」に分け、「劣った者」とされた人々の命と尊厳を奪う思想です。自分たちが「劣った者」とみなした人々の命を抹殺してもよい、むしろそれが社会のためになるという、この上なく非人間的な思想であり、決してゆるすことのできない考え方です。

 

かつてヒットラーに宿ったこの思想が、70年の時を経て、日本に生きる一人の若者の頭に宿りました。これは、容疑者の若者だけが、特異であるということなのでしょうか。必ずしも、そうとは言えないでしょう。多くの方々が指摘している通り、この度の事件は一人の若者が起こした異常な事件というだけではなく、私たちの社会の病理というものと切り離しがたく結びついているように思うからです。

 

「生産性」や「効率」が過度に重視されているのがいまの私たちの社会です。「生産性」や「効率」を追い求めれば追い求めるほど、反対に、生産活動に従事できない人々や効率よく働くことができない人々を一方的に「価値のない存在」とする考え方につながってゆきます。はっきりと文言化はされなくても、そのような風潮が、私たちの社会に事実として存在しているのではないでしょうか。悲しむべきことに、ナチスドイツの「優生思想」が宿ってしまうような素地が、私たちの社会に存在してしまっているのです。

 

 

 

「人を裁いてはならない」 ~自分の目の中にある「丸太」に気づく

 

本日の聖書箇所で、イエス・キリストは「人を裁くな」と教えておられます。《人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。/あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる(マタイによる福音書712節)

 

ここでの「裁くな」という言葉においては、「人を批判すること」自体が否定されているのではありません。時には、勇気を出して他者を批判することは、私たちにとって大切です。もし誰かの尊厳がないがしろにされている現状があれば、私たちは勇気を出して批判をするべきです。ここで主イエスが警告しておられるのは、自分の「ものさし」によって、一方的に人を判断し、断罪してしまうことです。

 

主イエスはそのような私たちの姿を、ユーモラスに表現されています。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。/兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。/偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる(同35節)

 

 他者の目にある《おが屑》――「些細な過ちや欠点」はよく見えるのに、自分の目の中にある《丸太》――「大きな過ち」には気づかない。自分自身の姿を鏡に映し出されているようで、ハッとしますね。私たちの目の中にある《丸太》――大きな過ちとは、自分の「ものさし」によって他者を一方的に判断・断罪してしまうことです。たとえば、「あの人はだめな人だ」とか一方的に決めつけてしまう。また相手のことをよく知らないのに、「あの人はこういう人だ」と勝手に決めつけてしまう。この自己中心的な「ものさし」が極端化するとき、相模原の事件の容疑者のように、「あの人々はいないほうがいい」と人の命の可否までも裁いてしまうようになります。

 

主イエスは、神さまの目から見て、一人ひとりの存在がかけがえなく貴いものであるということを伝えてくださいました。神さまは私たち一人ひとりを“あるがまま”に肯定し、「よし」としてくださっているという福音を伝えてくださいました。私たちが自分の大きな過ちに思い至り、自分の勝手な「ものさし」を取り払うとき、初めて、その人本来の輝きが見えるようになってくるのでしょう。神さまの目から見て、一人ひとりがかけがえなく貴いという真理を踏まえてはじめて、私たちはまっとうな批判も出来るようになってゆくのだと思います。

 

 

 

閉塞感の「はけ口」としての差別や排除

 

 NCC「障害者」と教会問題委員会が出している『「障害者」と教会問題ニュース No.63』のコピーを皆さんの週報ボックスにも入れておきました。その中に、当委員会が相模原の事件を受けて出された声明が掲載されています。

 

《……同容疑者がなぜこのような行動を起こしたのかの真因はまだ十分わかりませんが、この事件を彼個人(一人の犯罪者)だけの問題としてはなりません。誰にとっても同じ時代の社会に生きる人々の考えや生き方の影響は大きく強いのではないでしょうか。表面的には「一人ひとりのいのちを尊ぶ・生きる権利は平等」と謳いながら、実際は社会的・経済的能力を持つ者がより高く評価される現実、その矛盾したひずみの中で生きる閉塞感の「はけ口」に、社会的弱者や少数者を差別し、排除する人々が一部に現れて来ているのです。

 しかし私たちはいま、ある先達の鋭く深い言葉を、鮮明に思い起こします。

「もし、社会が強い者(賢い者)だけで構成されていたら、その争い、闘いのために自滅したかもしれない。しかし、社会は弱い者、愛や配慮を必要とする者の存在によって、辛うじて保たれている」と。……》(声明より抜粋。『「障害者」と教会問題ニュース No.632016105日、1頁)

 

引用しましたこの文章は、読む私たちに切実な実感を引き起こします。「すべての国民が活躍できる社会」と表面的には謳われながら、内実はまったくそうではないのが私たちの社会の現状です。一部の社会的・経済的な強者ばかりが高く評価されている実態があり、大多数の人々はその矛盾の中で、行き場のない閉塞感、鬱屈を抱えています。「生産性」や「効率」が過度に重視される社会の中で、多くの人が、実際、自分の生活がどんどん苦しくなっていっているように感じています。その閉塞感の中で、自分よりも弱い人々や少数者を攻撃したくなる、という心情が働いてゆきます。ある特定の人々を叩くことで、少しでも鬱憤を晴らそうとします。場合によっては、少数者(マイノリティー)の人々が、むしろ自分よりも優遇を受けている(特権を持っている)ように見えてしまうこともあります。

 

この「鬱憤晴らし」は、私たちの近くで、遠くで、至るところで起こっています。行き場のない鬱憤が、常に、誰か「叩くことができる」対象を探しているのですね。マスメディアによる特定の人物の猛烈なバッシングもそうでしょう。身近なところではツイッターやフェイスブックなどのSNSが、いわゆる「炎上する」ということがあるでしょう。私たちの社会が抱える問題であるヘイトスピーチも同じ構造を持っています。叩く人々は、まるで自分たちが「正義」の裁判官のような姿勢でいますが、そこに働いているのは多くの場合、「社会をより良くしよう」という健全な動機ではなく、「誰かを厳しく批判することによって日ごろの鬱憤を晴らしたい」という不健全な動機です。不健全な動機に基づき、各人が自分の身勝手な「ものさし」を振りかざして互いを裁きあう。そうして社会はより「不寛容な」社会に傾いていきます。社会的な弱者や少数者の人々に対する差別や排除は、このような文脈の中で起こっていることが多いように思います。

 

 

 

トランプ氏が次期大統領になることに伴う懸念

 

どんどん社会が不寛容になり、硬直化しているという現状は、私たちの生活する日本に限らず、世界的に見てもそうなのでしょう。様々なニュースを見るにつけ、世界的に閉塞感が覆い、人々の間に不寛容が広がっているということを痛感させられます。そしてそれは、グローバル化社会の中で「生産性」や「効率」ばかりが追い求めてきたことの帰結でもあるのでしょう。

 

この度のアメリカの大統領選は、まさにその現状をはっきりと示す出来事であったように思います。トランプ氏は人々の閉塞感や、「鬱憤を晴らしたい」という率直な心情を巧みに汲み取って、ついに次期大統領にまで登りつめました。「トランプショック」と呼ばれていますが、多くの人の予想を裏切ってのトランプ氏の当選でした。

 

トランプ氏が今後どのような政策を打ち出してゆくのかいまだ分かりませんが、私自身、トランプ氏が次期大統領候補となったことに、危惧の念を抱いています。トランプ氏が大統領になることにより、昨今の「鬱憤晴らし」の傾向がさらに助長され、アメリカがより「不寛容な」社会に傾いて行ってしまうことが懸念されます。その中で、最もしわ寄せを受けるのは、社会的な弱者、少数者(マイノリティー)の人々に他なりません。障がいをもっている人々、LGBTなどの性的マイノリティーの人々、イスラム教徒などの宗教的マイノリティーの人々、移民、難民としてアメリカで生活している人々、これら人々が閉塞感の「はけ口」にされ、偏見や差別や排除が深刻化する危険性、生命と尊厳とが傷つけられるかもしれない危険性が格段に高まってきています。また女性への差別、人種差別も拡大されてゆく恐れがあります。

 

もちろん、投票結果からも分かりますように、数としては、アメリカの半数以上の人々がトランプ氏を支持していません。「不寛容な社会」に傾いていってしまうことに強い危惧を抱いている方々は数多くいらっしゃることでしょう。

 

 

 

神の国の福音に立ち返り

 

 自らの内に閉塞感や鬱憤が存在していること自体を否定する必要はありません。自分自身を含め、多くの人の内に、深刻な閉塞感や鬱憤が高まっているのは、紛れもない事実です。それは強い怒り、時に、「怨念」に近いものであるかもしれません。その現実を率直に受け止めつつ、では、私たちはこれからどのように歩んでゆけばよいのか、そのことが問われています。私たちは怨念に駆られて不寛容さの渦の中に身をゆだねてしまうのか。それとも、この怨念を克服しようと決意し、多様性を受け入れる寛容な社会を目指して再び新しい一歩を踏み出すのか。

 

決して思い違いをしてはならないのは、自らの閉塞感や鬱憤をより弱い立場にある人々にぶつけても、何も物事は解決しないということです。解決しないどころか、それら差別や排除によって、かけがえのない生命と尊厳とを傷つけてしまうこととなります。そのようなことは、決してゆるしてはなりません。

 

私たちが問い直してゆかねばならないのは、「生産性」や「効率」をばかり重視してきたこれまでの私たちの社会の在り方そのものです。その結果として、いまの私たちの世界的な閉塞感があるのですから。私たちはいま、このことを根本から問い直すべき時にいるのでしょう。

 

かつてパウロはコリントの教会の人々にこう書き送りました。《すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう》(コリントの信徒への手紙二129節)。「強さ」ではなく、むしろ「弱さ」が私たちの生存にとって大切なものであることをパウロは伝えています。

 

社会的に弱い立場にある人々や少数者の人々をはじめ、多様性をもった一人ひとりが大切にされる社会を祈り求めて行動してゆくことが、この地上にまことの平和を実現することへとつながってゆくのだと信じています。「生産性」や「効率」ではなく、「一人ひとりの生命と尊厳」をこそ第一とする神の国の福音に立ち返り、そこから共に一歩を踏みだしてゆきたいと願います。