2016年11月27日「目を覚ましていなさい」

20161127日 花巻教会 アドベント第一主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書243644

「目を覚ましていなさい」

 

 

 

マタイによる福音書243644節《「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。/人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。/洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。/そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。/そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。/二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。/だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。/このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。/だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」》。

 

 

 

アドベント

 

本日から、教会の暦で「アドベント」に入ります。アドベントは、ラテン語の「adventus(アドベントゥス)」から生まれた言葉で、「到来」という意味です。日本語では「待降節」とも呼ばれます。イエス・キリストの「到来」、すなわち、イエス・キリストが私たちの間にお生まれになるクリスマスを待ち望み、そのお迎えする準備をする期間がアドベントです。アドベントは本日から、1225日のクリスマスを迎えるまで、4週間の間続きます。ローマ・カトリック教会では、このアドベントから、新しい一年がはじまるとされています。

 

アドベントの時期になると、教会ではたとえばクリスマスリースを飾ったり、建物や木に電飾を取り付けたりします。アドベントはクリスマスを待ち望む期間であると申しましたが、それら準備もその作業の一つですね。私たち花巻教会も先週の礼拝後にクリスマスに向けて大掃除をし、木曜日にはリースづくりをいたしました。入り口に飾っている大きなリースを、皆さんも教会に入るときに御覧になったかと思います。

 

講壇の上に飾っているこのリースも木曜日に手作りしたものですが、このリースは伝統的に、「アドベントクランツ」と呼ばれます。「クランツ」とはドイツ語で「輪」を意味する言葉です。教会ではこのクランツに立てたろうそくに、毎週1本ずつ火をともしてゆくという風習があります。御覧のように、アドベント第一週目の本日は、4本のうち、1本のろうそくにだけ火をともしています。次週の第2週目には2本のろうそくに火をともし、第3週目には3本のろうそくに火をともします。4週目には4本すべてのろうそくに火がともします。教会によっては、クリスマスの当日、真ん中に5本目のろうそくを立てて火をともす教会もあります。毎週一本ずつろうそくに火をともしてゆくというこの風習は、クリスマスがだんだんと近づいてきていることを私たちに実感させてくれるものですね。

 

ろうそくの光は、イエス・キリストの「光」を表しています。聖書では、イエス・キリストは「世の光」と言われます。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである》(ヨハネによる福音書1章9節)。アドベントの期間、私たちはこの「まことの光」を待ち望む想いを新たにします。

 

 

 

「目を覚ましていなさい」

 

 先ほど、本日の聖書箇所としてマタイによる福音書243644節をお読みしました。その中に、《目を覚ましていなさい》という一節がありました。この一節は、アドベントの第1週にふさわしい聖書箇所として選ばれることの多い言葉です。

 

《目を覚ましていなさい》といっても、夜も寝ずにずっと起きていなさい、ということを言っているのではありません。アドベントの間ずっと、寝ずに徹夜し続ける(!)というのは、もちろん私たちには不可能なことですよね。しっかりと睡眠をとって休むことは、私たちにとって大切なことです。

ここでの《目を覚ましていなさい》というのは、「心の目を覚ましていなさい」という意味です。心がまどろんで眠り込んでしまわないように、という注意を促しているのが、本日の言葉です。

 

なぜ心の目を覚ましていることが求められているかというと、イエス・キリストの到来が近いからです。クリスマスが近づいている今、心の目をぱっちりと覚まして、神の御子をお迎えするための準備をしなければならないという意味で、本日の言葉はアドベント第1週に読まれることが多いようです。

 

先ほど、教会ではアドベントの時期にリースを飾ったり、イルミネーションを取り付けたりする、ということを申しました。そのような準備を行うと共に、私たちは自分自身の心の中を見つめ直し、イエス・キリストをお迎えするための準備をしてゆきます。それが「心の目を覚ましている」ということにつながっています。年末で慌ただしい中、立ち止まって自分の心を見つめてみるというのはなかなか大変なことですが、しかし、だからこそ、私たちにとって大切なことであると思わされます。

 

 

 

他者の痛みに目を覚ましていること 

 

忙しくて心に余裕がないとき、私たちの心から見失われてしまっている大切ものは何であるかと考えてみたとき、その一つに「他者の痛みに目を覚ましていること」があるように思います。誰かが感じている痛みについて、心を向けることができない。他者の痛みに無感覚になってしまう、というのが心に余裕がない状態であるときの私たちの率直な姿なのではないでしょうか。言い換えれば、それが、心がまどろんでしまっている状態、眠り込んでしまっている状態であると言えると思います。私たちは気が付くと、心がまどろみ、眠り込んでしまっています。

 

《目を覚ましていなさい》というイエス・キリストの言葉。本日はまず第一に、「他者の痛みに目を覚ましていなさい」というメッセージとして受け止めてみたいと思います。

 

 

 

岩手地区教育集会 ~「キリスト教と性――わたしの目に、あなたは価高く、貴い」

 

昨日1126日、花巻教会を会場として岩手地区教育集会が行われました。教育集会は毎年、教会の信徒の学びを目的として開かれているものです。昨年度から私も教育委員の一人として関わっていますが、今年は集会の主題を「キリスト教と性――わたしの目に、あなたは価高く、貴い」としました。教会においては普段、あまり性の問題については話す機会がないかと思いますが、私たちにとってとても大切な課題です。講師に工藤万里江さんをお招きしました。豊かな学びの時になり、ご都合により来られなかった方々とも、また改めて昨日学んだことを分かち合いたいと思っております。

 

 

「『普通』って何だろう?」

 

少しだけ昨日の集会の内容を分かち合いたいと思います。午前の部では、「『普通』って何だろう?」というテーマで、講師の工藤万里江さんよりお話をいただきました。私たちにはそれぞれ、自分の中に「普通のこと」「当たり前のこと」があります。しかし、自分にとって「普通のこと」も、他の人にとってはそうではない、ということがある、ということを工藤さんはお話ししてくださいました。それはたとえば、性の問題について考えるとき、はっきりと表れます。

 

 これまでの歴史においては、男性であれば女性が好きになる、女性であれば男性が好きになる、そのように人は「異性を愛する」のが「普通のこと」とされてきました。そしてそうではないこと、男性が男性を好きになることと、女性が女性を好きになること、すなわち「同性を愛すること(同性愛)」は「普通ではないこと」「おかしなこと」とし、差別をしてきたという歴史があります。それはキリスト教会も同様です、むしろ教会が率先して同性愛の方々への差別を助長し、迫害をしてきたという悲しむべき歴史があります。そのように同性愛を差別してきたことははっきりと「間違いであった」いうことが、近年の私たちの共通の認識となっています。また、これからもますます、それを共通の認識としてゆかねばなりません。

 

 神さまは私たち一人ひとりを、「かけがえのない=かわりがきかない」存在として創ってくださいました。私と同じ人間、あなたと同じ人間は、一人としていません。私たちは一人ひとり違いある存在であり、だからこそ、かけがえのない存在であるのです。それが、聖書が私たちに伝えてくれている真理です。

 

どのような人を好きになるか、大切に想うのかも、一人ひとり異なります。ある人は異性を好きになり、ある人は同性を好きになる。「当たり前」であるという言葉を使うなら、そのように一人ひとりに「違いがある」ことが、むしろ「当たり前」のことということになります。異性を好きになる人が数としては多いので、これまでの歴史においては異性を愛することのみが「当たり前」とされてきました。しかし、性には多様性があり、一人ひとり異なるのであり、その「多様性」こそが、神さまの目から見て「自然なこと」なのであるということを、昨日改めて教えていただきました。私たちが誰かの「普通」に合わせて生きるのではなく、自分らしく、活き活きと生きてゆくことをこそ、神さまは願っていてくださいます。

 

 

 

自分の中の「普通」を誰かに押し付けてしまっている?

 

 また同時に、自戒を込めて昨日思ったことは、私たちは自分の「普通」「当たり前」を誰かに押し付けてしまってはいないか、ということです。「これが当たり前だから」といって、自分の中の基準を人に押し付けてしまってはいないだろうか。そのとき、私たちは相手の人が本来もっている「自分らしさ」をないがしろにしてしまっていることになります。そうして、知らずしらず、その人を深く傷つけてしまっている、ということが日々起こっているのではないでしょうか。自分の中の「普通」が誰かを傷つけてしまっているかもしれない。誰かが誰かの「普通」を押し付けられることにより、苦しんでいるかもしれない。自分の近くで叫び声を上げているのに、自分は気づいていないのかもしれない。

 

たとえば、自分は異性を愛するという人が、ある話し合いの場で、人は異性を愛するのが「当たり前」のこととして話していて、実はその場にいた同性を愛する人を傷つけてしまっていた、ということが起こりうるでしょう。実際、そのように日々の生活の中で傷つけられ続けている同性愛の方々がたくさんいるということを、講演の中で聞きました。その傷は非常に深く、時にその人の命を奪うほどのものにもなります。その人にとっては、自分の存在そのものが否定されていることに等しいこととして感じられるからです。その意味で、差別問題というのは、人の命にかかわる問題であり、だからこそ私たちにとって喫緊の課題であるのです。

 

私たちは普段、自分と同じような考えをもっている人とだけ接する傾向があります。よって、一人ひとりに「違いがある」ということを忘れてしまっていることが多々あります。「これが当たり前」という狭いグループの中でだけ生きてしまっているのですね。そうしてその狭い範囲の外にいる人々を意図的に、または知らずしらず、傷つけてしまっています。また同時に、私たち自身も誰かの「普通」に傷つけられているかもしれません。自分で自分に「普通」を課し、自分で自分を苦しめてしまっているかもしれません。

 

工藤万里江さんは、私たちはそれぞれ自分の中にある「普通=規範」を問い直す作業が大切であるということを述べてらっしゃいました。私たちは少しずつ、時間をかけて、そのようにして自分を変えてゆく作業に取り組んでゆきます。もちろん、一瞬で変わるということは難しいでしょう。時間をかけて、少しずつ変わってゆくという姿勢が大切であるのだと思います。

 

 

 

キリストの「到来」は人との出会いを通して

 

その際、重要なことして工藤さんが挙げてらっしゃったのは、「人との出会い」です。たとえば、自分は異性を愛するという人が、同性を愛する人について理解をする際、概念として頭で理解するだけはなく、その人と実際に出会ってゆくことが大切であるのだ、と。いま生きている人と出会い、その人の抱えている辛さや痛みと実際に出会うことによって、私たちは少しずつ変えられてゆくということを工藤さんは強調しておられました。

 

先ほど、《目を覚ましていなさい》というイエス・キリストの言葉を、「他者の痛みに目を覚ましていなさい」というメッセージとして受け止めたいということを述べました。私たちはアドベントをいま、互いの痛みに心を向けることが求められています。私たちがそのように心の向きをかえるとき、かけがえのない出会いもまた与えられてゆくのではないでしょうか。そしてそのように、人との出会いを通して、イエス・キリストは私たちのもとに近づいてくださっているのだと私は受け止めています(マタイによる福音書2540節)。人との出会いの中で、キリストは私たちのもとに「到来」してくださっているのだと信じています。

 

 

 

命の光の言葉 ~「わたしの目に、あなたは価高く、貴い」

 

キリストはいま、私たちの間に立って、私たち一人ひとりが、神さまの目から見てかけがえなく貴いということを語りかけておられます。「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)。この神さまの声を伝えてくださっています。かけがえのないあなたが、あなたらしく、喜びをもって生きてゆくことが、神さまの願いであるということを伝えてくださっています。私たちが互いに互いを尊重し、大切にしあうことができたとき、喜びの中でこの福音の言葉はよりいっそう、私たちの間で輝き始めることでしょう。

 

「わたしの目に、あなたは価高く、貴い」――この命の光の言葉を心にともし、アドベントの時をご一緒に歩んでゆきたいと願います。