2016年12月11日「主の道を準備する」

20161211日 花巻教会 アドベント第3主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書11219

「主の道を準備する」

 

 

 

マタイによる福音書11219節《ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、/尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」/イエスはお答えになった。「言って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。/目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音が告げ知らされている。/わたしにつまずかない人は幸いである。」/ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。/では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。/では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。/『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。/はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。/彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。/すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。/あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。/耳のある者は聞きなさい。/

今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。/『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。/葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』/ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、/人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

 

 

 

奥山ツタさん召天

 

昨日1210日の午後5時、教会員の奥山ツタさんが天に召されました。数え年で99歳でした。眠るように息を引きとられた、安らかな最期であったそうです。召天のお知らせを受けて私も昨晩ご自宅に伺いましたが、お顔を拝見すると、微笑んでいるような安らかなお顔でいらっしゃいました。

 

明日12日の夕方5時より前夜式が、明後日13日の午後3時よりご葬儀が花巻教会で行われます。ご家族の皆さま、ご親族の皆さま、ツタさんにつらなるすべての方々の上に、主よりの慰めがありますようお祈りいたします。

 

 

 

アドベント第3主日礼拝

 

本日は、アドベント第3主日礼拝です。「アドベント」は教会の暦で、イエス・キリストが誕生されたクリスマスを待ち望む時期です。日本語では「待降節」とも言われます。今年は1127日(日)に始まり、1225日のクリスマスまでの4週間続きます。

 

アドベント第3主日は伝統的に「喜びの主日」とされています。ここでの「喜び」とはもちろん、イエス・キリストがお生まれになった「クリスマスの喜び」です。アドベント第3週に入り、その喜びの時が近いことを私たちは確認します。

 

《天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。/今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。/あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」》(ルカによる福音書21011節)

クリスマスには、「喜び」という言葉がふわさしいでしょう。けれども、クリスマスを目の前にして、喜びたくても、喜べない、という方もいらっしゃるでしょう。さまざまな困難を前にして、いまは喜べない方。喜べと言われても、戸惑ってしまうのが正直な気持ちだ、という方もいらっしゃるでしょう。私たち花巻教会もまた、奥山ツタさんを天にお送りし、悲しみの中にいます。私たちの目の前にあるのは、喜びではなく、悲しみです。

また、私たちの生きる社会には嘆き、悲しみが満ちています。喜ばしいニュースよりも、悲しいニュース、辛いニュースばかりが私たちの耳に飛び込んで来ます。

 

このような中で、私たちはいかにして「喜び」という言葉を受け止めてゆけばよいのでしょうか。

 

 

 

悲しみのただ中に

 

聖書において、「喜び」は最も重要な言葉の一つです。聖書にはたくさん、「喜び」という言葉が出て来ます。

 

たとえば、クリスマスの時によく読まれる旧約聖書のイザヤ書の言葉。《闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。/あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。/刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように》(イザヤ書912節)

 

また旧約聖書のエレミヤ書には、次のような一節があります。《そのとき、おとめは喜び祝って踊り/若者も老人も共に踊る。/わたしは彼らの嘆きを喜びに変え/彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる》(エレミヤ書3113節)

 

 旧約聖書の詩編には、次のような一節もあります。《あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました》(詩編3012節)

 

これら引用した聖書箇所には、「闇」とか「嘆き」とか「悲しみ」とか、喜びとはむしろ対照的な言葉が出てきています。これらの箇所から分かることは、聖書における「喜び」とは、いま嘆き悲しんでいる人々に向かって語られているのだということです。喜びたくても喜ぶことができない、そのように悲しみのただ中にいる人々に向かって、これら言葉は語りかけられているのだということが分かります。

 

イスラエルの民の歴史は、苦難の連続でした。喜びが失われた日々の中で、先が見えない暗闇の中を生きるような日々の中で、しかし、イスラエルの民は、いつか「喜びの日」が訪れることを希望として信じ続けてきました。いつか救い主が到来して、自分たちのこの悲しみを喜びへと変えてくださるという希望です。

新約聖書では、イエス・キリストこそがその救い主であり、イエス・キリストが誕生したクリスマスこそ、その「喜びの日」であると受け止めています。

 

 クリスマスの喜びとは、すでに喜んでいる人々に語りかけられているものというよりも、いま悲しみのただ中にある私たちの心に語りかけられているものである、ということができるでしょう。

 

 

 

洗礼者ヨハネの最後の問い

 

先ほどお読みしたマタイによる福音書11章には、洗礼者ヨハネとイエス・キリストのエピソードが記されていました。洗礼者ヨハネとは、主イエスが宣教の旅に出るより先に、ヨルダン川で「洗礼(バプテスマ)」を授ける活動をしていた人です。

 

キリスト教では、洗礼者ヨハネはイエス・キリストの「先駆者」と捉えてきました。救い主イエス・キリストの到来を前に、その道を準備する先駆者として受け止めてきたのです。本日の聖書箇所では主イエスご自身がそのことを語っておられます。10節《『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ》。

 

そのときヨハネは、ガリラヤ領主ヘロデを批判したために怒りを買い、牢につながれてしまっていました。その後ヨハネはヘロデの策略によって命を奪われてしまうこととなります。

 

 そのような大変な状況の中で、ヨハネは一つのことについて考え続けていました。それは、悲しみの中にある自分たちに喜びをもたらしてくださる救い主が遂に現れてくださったのか、それとも、まだであるのか、という問いです。ヨハネは、ガリラヤのナザレから来てイエスという人物こそ、その救い主かもしれない、と考えていました。しかし、もしかしたらそうではないかもしれない、という不安もいまだあります。

 

自分の目前に死が迫っていることを予感する中で、ヨハネは自分を訪ねにきてくれた弟子たちに、最後の問いを託します。主イエス本人に、このように聞いてほしいと頼みます。3節《来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか》。これは洗礼者ヨハネの人生をかけた問いであると同時に、苦難の歴史を歩み続けてきたイスラエルの民全体の切なる問いでもあったでしょう。

 

ヨハネの最後の伝言を携え、弟子たちは主イエスのもとに走ります。弟子たちからヨハネの問いを受け、主イエスはお答えになりました。

46節《イエスはお答えになった。「言って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。/目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音が告げ知らされている。/わたしにつまずかない人は幸いである。」》。

 

主イエスは、今まさにイスラエルの民が待ち続けてきた「喜びの日」が到来していることをお語りになりました。すなわち、ヨハネが言った通り、確かに自分こそが、あなたが待ち続けてきた救い主であるとお答えになったのです。

 

苦難のただ中にある人々に喜びが告げられている様子を主イエスはお語りになります。嘆き悲しみの中にある人々に、喜びが告げ知らされている。立ち上がることのできなかった人々が、再び立ち上がってゆく力を与えられている。生きる喜び、生きる力が人々の心に湧きあがり始めている。かつて旧約聖書が語ったように、嘆きは踊りに変えられている(詩編3012節)――

 

その奇跡を目の当たりにした弟子たちは、再びヨハネのもとに走り、この方こそまことの救い主であったことを伝えたことでしょう。牢の中でヨハネはその知らせを受け、心からの安堵を感じたのではないでしょうか。ヨハネ自身は、「喜びの日」が訪れている様子を直接には目にしていません。しかし、暗い牢の中で、その喜びの光景は確かに、ヨハネの心の目に見えていたのではないでしょうか。自分の死を目前にしつつ、けれども、心に湧き上がってくるこの深い喜びを静かに噛みしめ続けたのではないか、と想像します。

 

それは、神さまの目から見て、一人ひとりがかけがえなく貴い存在であることを知らされる喜びでありました。またそして、その一人ひとりに、死で終わることのない復活の命が与えられていることを知らされる喜びでありました。

 

ヨハネの人生はもうすぐ終わりを迎えようとしています。しかし、自分の人生は神さまからいつも祝福されている。これまでも、いまこの瞬間も。暗い牢の中で、ヨハネはそのことを確信したかもしれません。そして、その人生は死をもって終わってしまうのではない。暗い牢の中で、そのことをも確信したのかもしれません。

 

イスラエルの民が大切に受け継いできた、次の祈りの言葉があります。《涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。/種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる》(詩編12656節)

 

 

 

すでに喜びは芽吹いている

 

私たちはいまアドベントの中を歩んでいます。クリスマスという「喜びの日」を目前にして、共に歩んでいます。

 

いまは私たちは嘆き、悲しみの内にいるのだとしても。いまは涙を流し続けているのだとしても。その悲しみは、必ず喜びの歌へと変えられてゆく、嘆きは必ず踊りへと変えられてゆくということを信じ、ご一緒にクリスマスを待ち望みたいと思います。

 

またそして、すでに喜びは私たちの内に芽吹いていることを信じたいと思います。悲しみのただ中から、すでに喜びは芽吹いています。暗い牢の中で、洗礼者ヨハネが確かな喜びを見出したように。小さな芽のようであるけれども、イエス・キリストを通して、失われることのない喜びが、いま私たちの内に芽吹いています。私たちは心の目を通して、その芽吹きを見ることができます。

 

この静かな喜びを共に胸にともしつつ、クリスマスに向けてご一緒に歩んでゆきたいと願います。