2016年12月4日「福音に立ち返る」

2016124日 花巻教会 アドベント第2主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書135358

「福音に立ち返る」

 

 

 

マタイによる福音書135358節《イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、/故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。/この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。/姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」/このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、/人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった》。

 

 

 

アドベント第2主日礼拝

 

先週から、教会の暦で「アドベント」に入っています。本日はアドベント第2週目です。アドベントは日本語では「待降節」とも言われます。イエス・キリストの「降誕(誕生)」を「待ち望む」時期、という意味ですね。アドベントは1225日のクリスマスまで、4週間続きます。

 

講壇の上に飾っているリースは、「アドベントクランツ」と言います。教会では伝統的に、このクランツに立てたろうそくに、毎週1本ずつ火をともしてゆくという風習があります。今日はアドベント第2週ということで、2本のろうそくに火がともっていますね。次週の第3週目には3本、第4週目には4本すべてのろうそくに火がともります。教会によっては、クリスマスの当日、真ん中に5本目のろうそくを立てる教会もあるそうです。毎週1本ずつろうそくに火がともってゆくことで、クリスマスがだんだんと近づいてきていることを実感することができます。

 

先ほど『主を待ち望むアドヴェント』という讃美歌を歌いました(『讃美歌21』讃美歌242番)。アドベントの時期、1本ずつろうそくに火をともしてゆく様子が謳われていますね。今日はアドベント第2週なので、2番だけを歌いました。2番《主を待ち望むアドベント、第二のろうそく ともそう。主がなされたそのように、互いに助けよう。/主の民よ、喜べ。主は近い》――。来週は3番を歌います。

 

では、これらろうそくの光は、何を表しているのでしょうか。この光は、イエス・キリストがもたらしてくださった光を表しています。聖書において、イエス・キリストは「世の光」であると言われます(ヨハネによる福音書19節)。これらろうそくの光は、「世の光」であるイエス・キリストを指し示すものであるのですね。

 

 

 

暗闇の中の光

 

 聖書を読んでいますと、「光」という言葉がたくさん出てきます。新約聖書だけではなく、旧約聖書にもたくさん出て来ます。たとえば、クリスマスによく読まれる旧約聖書のイザヤ書の言葉。《闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた(イザヤ書91節)

 

 また、同じくクリスマスに読まれることの多い新約聖書のヨハネによる福音書の言葉。《初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。/この言は、初めに神と共にあった。/万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。/言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。/光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった(ヨハネによる福音書115節)

 

 これら聖書の言葉を読んでいますと、「光」と共に、「闇」という言葉が出てきていることに気付きます。「光」と対になるものとして「暗闇」が出てきているのですね。聖書には「光」という言葉がたくさん出てくると申しましたが、「暗闇」という言葉も、聖書にはたくさん出てきます。

 

「光」と聞くと、私たちは文字通り、明るいイメージ、希望に満ちた前向きなものをイメージしますね。対して、「闇」と聞くと、暗い、希望のない、後ろ向きなものをイメージします。「社会の闇」という表現が使われることもあれば、「心の闇」という表現が使われることもあります。できれば私たちは普段の生活において、闇というものは見たくはないものですよね。できれば闇の部分は見ずに、光の部分、明るい部分だけを見つめて生きて行ければ、と思います。けれども、意外なことに(?)、聖書は闇というものを、言葉を尽くして語っている書であるのですね。もちろん、光をこそ語るのですが、その際、光だけを語るのではなく、むしろ暗い部分をも率直に見つめて語っているのが、聖書という書です。

 

 先ほど引用したヨハネによる福音書の言葉の最後の一節を改めて読んでみます。《…光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった》。このよく知られた一節からも、聖書が語る光とは、「暗闇の中の光」であるということが分かります。「すべてが光に満ちている」というのではなく、むしろ、「辺り一面が真っ暗」なような中に、一筋の光が差し込んでいる、というイメージでしょうか。

 

 

 

「人間の大切さ」が見失われることの「暗さ」

 

私たちはいまイエス・キリストの光を待ち望むアドベントの中を歩んでいます。「光を待ち望む」姿勢は、「闇を見つめる」姿勢ともつながっています。暗闇を直視するからこそ、光を待ち望む姿勢が生まれてゆくのだということもできるでしょう。私たちはアドベントのこの時期に、私たちの社会が抱える「暗さ」、また私たち自身が抱えている「暗さ」を、勇気をもって見つめてゆくことが求められています。

 

本日は、特に、私たちの社会が抱える「暗さ」というものに焦点を当ててみたいと思います。新聞やテレビで報じられているニュースを見るだけでも、私たちの生きる社会がいかに暗さを帯びているかが分かります。日々、私たちの心を痛めるニュースが後を絶ちません。何か暗い雲のようなものが私たちの社会全体を覆っているような心境になります。この「暗さ」は、一体どこから生じているものなのでしょうか。

 

私が感じるのは、この暗さは、「人間の大切さ」というものが見失われつつあることの「暗さ」なのではないか、ということです。一人ひとりの存在が大切――これは「当たり前」と言えば当たり前のことですが、けれども、この「当たり前」のことが見失われていってしまっているように思います。反対に、一人ひとりの存在が「軽んじられる」社会になっていってしまっている。「人間の大切さ」が見失われている。その暗さが、いま、私たちの社会を覆っているように感じます。言い換えると、「人間の尊厳」というものがないがしろにされてしまっている。

 

 いま、「尊厳」という言葉を用いました。「私という存在のかけがえのなさ」のことです。私たち一人ひとりの存在は、かけがえのない=かわりがきかない存在であり、だからこそ貴いのです。

 

「かけがえのなさ」の反対語は、「かわりがきく」という言葉でしょう。各人を「替わりのきく」存在にしてしまうのが、いまの私たちの社会の構造なのではないでしょうか。(自分はいてもいなくてもいい存在だ。自分は替わりがきく存在だ……)、その悲痛な声が、私たちの近くに遠くに、満ち満ちているように思います。

 

「人間の大切さ」が見失われ、各人が「替わりのきく」存在にされている。尊厳がないがしろにされる「暗さ」が、社会全体を覆っている。その状況は、イエス・キリストがお生まれになった時代も同様であったようです。

 

イエス・キリストが生きておられた当時のパレスチナは、ローマ帝国の支配下にありました。多くの人々が経済的・精神的な苦しみを強いられていました。人間の尊厳がないがしろにされる状態が、むしろ「当たり前の日常」のようになってしまっていたのが、当時の社会の状況でした。そのような、人間が大切にされない「暗い」時代に、主イエスはお生まれになったのです。暗闇の中に輝く光として。

 

 

 

故郷ナザレで受け入れられない

 

本日の聖書箇所は、主イエスが宣教の旅の途上、故郷のナザレにお戻りになった際の場面です。主イエスは弟子たちと共に地元に戻り、会堂で教え始められました。主イエスの教えを聞いた地元の人々はその知恵に満ちた言葉に驚いた、と福音書は記します。そうしてとまどいつつ、互いにささやきあいました。マタイによる福音書135456節《…「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。/この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。/姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」》。

 

この言葉から、地元の人々が主イエスをどのように見ていたかがうかがい知れます。故郷の人々から見れば、主イエスは、以前まで大工の息子として働いていた一人の男性に過ぎませんでした。母はマリアという女性で、彼にはヤコブら兄弟がおり、村では彼の姉妹たちが一緒に暮らしていました。主イエスは村の人々から特別に一目置かれていたわけではない、ということが伝わってきます。むしろこれら言葉からは、故郷の一部の人々が主イエスとその家族をどこか「軽んじていた」かもしれないニュアンスが感じられます。その理由は定かではありません。もしかすると木工職人という職業が当時軽んじられていたのか、もしくは、主イエスの出自が問題にされていたのか。いずれにせよ、故郷の一部の人々は主イエスを「軽んじていた」のであり、主イエスが語る教えを受け入れることができませんでした。5758節《このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、/人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった》。

 

57節の《預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである》。この主イエスの言葉は、私たちにとっても実感できることでありましょう。古くから知っている間柄であるので、改めて相手を敬意をもって受け入れることが難しいということは確かにあることでしょう。しかし、本日の聖書箇所の場合、故郷の人々が職業や出自によって主イエスを「軽んじていた」というところに問題があったということができます。

 

人から「軽んじられた」時、自分も誰かを「軽んじる」ことで心の安定を得ようとする衝動が私たちの心には生じることがあります。ナザレの村の人々も、権力者たちから不当な差別を受ける中、自分よりさらに弱い立場にある人を差別してうっぷんを晴らそうとしていたのかもしれません。非常に悲しむべき状態ですが、私たちのいま生きる社会でも、そのようなことは絶えず起こっています。多くの人が行き場のない閉塞感を抱える中、より弱い立場の人々や少数者の人々を攻撃したくなるという心情が働いてしまっています。

 

 

 

それは、神さまの願いではない

 

私たちの社会を覆う「暗さ」について、その一端をご一緒に見てまいりました。この「暗さ」の中で、日々傷ついている私たちがいます。互いに傷つけあっている私たちがいます。傷つき痛みを感じている自分と、また同時に、これら痛みにむしろ無感覚になろうとしている自分もいます。

 

痛みに無感覚になってしまうということは、痛みに慣れて行ってしまうことにつながります。人間が「大切にされない」ことが「当たり前の日常」になっていってしまうことにつながります。聖書は、私たちの心がこのように無感覚になってしまうことを、心が「石」のように硬くなることと表現しています(ゼカリヤ書7912節)

 

聖書が語るのは、しかし、その痛みとは、決して慣れてはならない痛みであるということです。人間が「大切にされない」現実、尊厳がないがしろにされている現実は、決して「当たり前」であってはならない。あなたがそのように痛み、苦しんでいる状態は、あってはならない。それは、神さまの願いではない。

 

神さまは私たちの痛みを、あってはならない痛みとして受け止め、その痛みをわが痛みとして苦しんでおられます。聖書は、神さまは私たちの痛み、叫びを必ず聴いていてくださると語ります。そしてそのために、御子イエス・キリストを私たちのもとに遣わしてくださいました。暗闇の中に輝く光として。

 

 

 

キリストの光 ~神さまからの尊厳の光

 

旧約聖書のイザヤ書に、次の神さまの言葉があります。《わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している》(イザヤ書434節)。神さまの目から見て、あなたという存在が、かけがえなく、貴いことを語っている言葉です。

 

主イエスは、この光の言葉を私たちに伝えるため、私たちのもとにやってきてくださいました。神さまの目から見て、あなたという存在が、かけがえなく貴いということ。神さまから見て、あなたの替わりになる人は存在しないのです。主イエスが命をかけて伝えてくださった光とは、一人ひとりに与えられている神さまからの「尊厳の光」です。

 

暗闇の中に、この光は確かにともされています。いま、私たちの間に、私たちの内に、ともされています。暗闇の中に輝く小さな光、しかし決して消えることない光として。

 

聖書は、この光を「福音」と呼んでいます。アドベントの今、私たちはこの福音に立ち返ることが求められています。この福音の中で、私たちの石のようになった心は、再びやわらかさを取り戻してゆきます。他者の痛みを、痛みとして感じとることができるようになってゆきます。

 

「わたしの目に、あなたは価高く、貴い」――この命の光の言葉を私たちの間にともし、私たちが互いに互いを大切にしあうことができる道を祈り求めてゆきたいと願います。