2016年2月14日「ペトロの否認と涙」

 2016214日 聖書箇所:マルコによる福音書146672

「ペトロの否認と涙」

 

 

受難節

 

先週の10日(水)から、教会の暦で「受難節」に入りました。イエス・キリストのご受難を心に覚える時です。私たち花巻教会は一昨年から礼拝の説教箇所として、マルコ福音書を読み続けていますが、ちょうど今年に入ってから受難物語を読んでいます。本日の聖書箇所は、弟子の一人であったペトロが主イエスのことを「知らない」と否認したという場面です。

 

マルコによる福音書146672節《ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、/ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」/しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。/女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。/ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」/すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。/するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした》。

 

 

 

ペトロの否認

 

主イエスが逮捕された時、弟子たちは皆主イエスを見捨てて逃げてしまいました。(マルコによる福音書1450節)。しかし、ペトロだけは、ひそかに逮捕された主イエスの後についていったということをマルコ福音書は記しています1454節)。弟子のリーダー的な存在でもあったペトロは、主イエスがこれからどうなってしまうのか見届けずにはおられなかったのでしょうか。彼は遠く離れたところから、主イエスと一行の後を追いかけてゆきました。

 

一行は、大祭司の屋敷に入ってゆきます。そこで裁判が行われることになっていました。ペトロは人々に紛れて、屋敷の中庭にまで入ってゆきました。他の弟子はすっかり逃げ去ってしまった中で、ペトロだけは勇気を振り絞って主イエスの後に従おうとしていたことが分かります。

 

 夜も更けて、冷えて来たのでしょうか、大祭司の中庭では火が焚かれていました。ペトロがいる中庭からは、裁判が行われている中の様子までは分かりませんでした。とりあえずペトロは下役たちと一緒に座って、火にあたっていました。屋敷の中では、主イエスを「死刑に処す」という結論ありきの、不正な裁判が始まっていました145365節)。人々がすっかり寝静まっている深夜に、この異常な裁判は開かれました。

 

 この深夜に、ペトロがどのような気持ちで、火にあたっていたのかは分かりません。裁判がどうなってしまうのか、気が気でなかったことでしょう。「ナザレのイエスは死刑になる」という恐ろしいうわさが耳に入って来ていたかもしれません。(これは本当に現実なのか? 自分は悪い夢を見ているのではないか?)という気持ちであったかもしれません。しかし、パチパチと音を立てながら燃える炎の熱さが、これが確かに現実であることを知らせていたことでしょう。

 

 突然、一人の女性がペトロの前に立って、炎に照らし出される彼の顔をじっと見つめ、言いました。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた!」。女性は大祭司に使える女中の一人でした。自分の正体を隠していたペトロは、激しく動揺しました。彼は瞬時に、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言って誤魔化しました。心臓が高鳴り、冷や汗が流れます。ペトロは反射的にその場から離れようとし、出口の方へ向かいます。すると鶏が鳴きました。

 

 しかし女性の追求はそこで終わりませんでした。今度は、周りに人々に向かって、「この人は、あの人たちの仲間です」と言い出し始めました。人々の視線が一斉にペトロに向けられます。人々の視線にさらされ、ペトロはさらに動揺したことでしょう。ペトロは再び、自分が仲間であることを否定しました。

 

 それで騒ぎは収まったかと思いきや、居合わせた人々がざわつき始めました。そしてペトロに、「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と言いました。ペトロの使う言葉がガリラヤなまりであることが知られてしまったようです。主イエスもペトロたちもガリラヤの出身でした。

 

 追い詰められたペトロは、呪いの言葉を口にしながら、誓って言いました。「あなたがたの言っているそんな人は知らない!」。自分の言葉が偽りなら自分は神によって呪われてもいいと言って、ペトロは主イエスのことを「知らない」と否認してしまったのです。

 

 するとすぐ、鶏が鳴きました。鶏が鳴いたのは夜明けが近づいていたからですが、この鶏の鳴き声は、彼に主の言葉を想い起こさせました。その夜、主イエスが捕らえられる前、主がペトロに向かっておっしゃった言葉です。「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。そのときペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓いました。しかしいま、主イエスの言葉のとおり自分は主イエスを「知らない」と言ってしまったのです。

ペトロは泣き崩れました。

 

 

 

ペトロの涙

 

 これがよく知られているペトロの否認の場面です。主イエスの言葉を想い起こして突然泣き始めるペトロの姿が印象的です。ペトロのこの涙は激しい後悔の涙であり、主イエスに「申し訳ない」という気持による涙であったでしょう。もしくは自分のあまりの情けなさ、弱さにいたたまれず流した涙でもあったかもしれません。この人間的なペトロの姿は、多くの人々の心を捉えてきました。

 

キリスト教の聖人伝説などを集めた『黄金伝説』という本には、ペトロについて次のような記述があります。あくまで伝承ですが、これら言葉から人々がペトロという人物をどう受け止めてきたか浮かび上がってくるように思います。

 

《また、ペテロは、いつでも一枚の布を胸に入れていて、しょっちゅうあふれでる涙をぬぐったということである。というのは、主のやさしいお言葉と主のおそばにいたときのことを思いだすと、大きな愛の気持から涙をおさえることができなかったからである。さらに、自分が主を否認したことを思いおこすたびに、はげしく嗚咽した。そのようによく泣いたので、彼の顔は泣きぬれて、ただれたようであった、と聖クレメンスは記している。クレメンスはまた、ペテロは暗いうちににわとりの鳴き声とともに起きて祈り、それからいつもはげしく泣いていたと伝えている》(ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説2』、前田敬作・山口裕訳、平凡社ライブラリー、2006年、380381頁)

 

 以上はあくまで伝承ですが、不思議なリアリティーをもって、私たちに訴えて来るものがあるように思います。ペトロはいつでも一枚の布――現代で言うとハンカチ――を胸に入れていて、しょっちゅうあふれでる涙をぬぐっていたという記述。それは主イエスの愛を思い起こすことによる涙であり、また、自分が主イエスを「知らない」と否認してしまった過ちを思い起こすことによる涙であった。また、ペトロは暗いうちに鶏の鳴き声と共に起きて祈り、それからいつも激しく泣いていたという伝説も私たちの心を打つものです。

 

 

 

「具体的な過ち」の認識

 

 ペトロはあの晩、あの大祭司の中庭で自分がしてしまったことを通して、自分の「罪深さ」というものを徹底的に見せつけられました。自分がいかに弱い人間かということを思い知らされました。

 

ペトロにとって、自分の「罪深さ」の認識は、自分がしてしまったこの「具体的な過ち」に結びついているものです。「あの晩、大祭司の中庭で、鶏が二度鳴く前に、主イエスを三度『知らない』と否認してしまったこと」、これが彼の過ちであり、これがペトロにとって自分の罪深さの理由です。ペトロにとって罪の認識は抽象的な事柄ではなく、具体的な過ちに結びついていたものであったというのは、非常に重要な点ではないかと思います。

 

キリスト教は人間の「罪深さ」の認識の必要性を強調します。けれども時に、その罪深さの認識が、抽象的な次元にとどまってしまっている場合があるのではないか、と感じることがあります。私たちにとって「罪」とは、多くの場合、生活に根ざした、具体的なものであるはずです。「あのとき、あのようにしたのが、過ちだった」または「あのとき、あのようにしなかったのが、過ちだった」という、極めて具体的に名指しできるものであるはずです。私たちは自分の過ちを、そのようにはっきりと名指しできるものとすることが大切であるように思います。「人間は何と罪深いことか」「私は何と罪深いことか」と神さまに告白することが、むしろ、自分の日々の生活の中の「具体的な過ち」に向かい合うことを妨げてしまっているということはないかと自省させられます。

 

 

 

過ちを認めることの痛みと、認めないことによる痛みと

 

 私はいまだ人生の経験の少ないものですが、自分の経験を通して思うことは、やはり自分の「具体的な過ち」に向かい合うことが大切である、ということです。自分の「具体的な過ち」を認めるということは、辛いことです。大きな痛みが伴いますし、またその際、憤りや怒りという強烈な感情が伴うこともあります。「私がどれだけ苦労したと思っているのか」「私がどれほど大変な想いをしたか分かっているのか」という激しい怒りの感情も噴出してきます。しかしそのような自分の認識とはまた別に、自分の至らなさや過ちというものも、事実として存在しているわけです。私たちはこの自分の「具体的な過ち」を率直に認めることが求められています。

 

私自身の経験から思いますのは、過ちを認める際に伴う痛みは、過ちを認めないでいる状態の痛みより、ずっと「少ないものだ」ということです。過ちを認めないで、ずっと否認し続けている状態の方が、結果的に、より私たちの心身に深刻な痛み、苦しみを与えるものとなるでしょう。一度はっきりと自分の過ちを認めてしまえば、私たちの心身はずいぶんと楽になります。停滞していた状態は動きだし、新しい何かが始まり出してゆくことを感じます。

 

 

 

主の「ゆるす」愛との出会い

 

 本日はご一緒に、ペトロの過ちを見てきました。「あの晩、大祭司の中庭で、鶏が二度鳴く前に、主イエスを三度『知らない』と否認してしまったこと」、それがペトロの具体的な過ちでした。ペトロはその自分の過ちを思い知らされ、泣き崩れました。

 

 その後主イエスは十字架に磔にされて殺されてしまいます。ペトロは主イエスに謝ることができませんでした。ペトロは、「自分はゆるされない過ちを犯してしまった」と思ったかもしれません。ペトロは家の中にじっと隠れ、座り込んでしまっていたことでしょう。福音書が記すのは、しかし、それで「終わり」ではなかったということです。

 

その後、ペトロは復活された主イエスと出会いました。復活の主イエスと出会い、そして主イエスがペトロのあの過ちを「ゆるしてくださっていた」ことを知らされました。「あの晩、大祭司の中庭で、鶏が二度鳴く前に、主イエスを三度『知らない』と否認してしまったこと」、その過ちを、主イエスはゆるしてくださいました。

 

自分では決してゆるされることがないと思っていた過ちを、主イエスはゆるしてくださっていた。主イエスはすべてをゆるし、十字架におかかりになってくださった。それほどまでに、主イエスは私たちを愛して下さっていた。その真実を知らされ、ペトロは再び、泣き崩れたかもしれません。その涙は後悔の涙ではなく、深い愛に心打たれたことによる涙です。

 

この主の愛に出会い、ペトロは初めて、心から、自分の過ちを過ちとして受け入れることができるようになったのだと思います。そしてそれが同時に、新しく立ち上がってゆく力につながってゆきました。ペトロはその後、原始キリスト教会の中心的な指導者として立ってゆくこととなります。

 

 

 

過ちを認めることは「終わり」ではなく「始まり」

 

ペトロは教会の指導者となってから、自ら、人々に自分のあの過ちを告白したのでしょう。伝説にあるようにあふれ出る涙を布でぬぐいつつ、人々に自分のあの失敗を話したのかもしれません。あふれでる涙は、ペトロの懺悔の涙であると同時に、主の愛に心が満たされるゆえの涙でもあったことでしょう。ペトロの告白を聴いた人々は、その告白を通して、神の愛の炎に触れる経験をしたのではないかと思います。だからこそ、このペトロのエピソードは福音書の中に記され、今日に至るまで大切に伝え続けられているのでしょう。

 

私たちが過ちを認めることは、「終わり」ではありません。それは新しいあり方への「始まり」です。神さまの目から見ると、「ゆるされない過ち」というものはありません。どうぞいま、この主の愛に、私たちの心を開きたいと思います。