2016年2月28日「兵士たちからの侮辱」

 2016228日 聖書箇所:マルコによる福音書151620

「兵士たちからの侮辱」

 

 

ヘブライ語の「重さ」と「軽さ」という語

 

 聖書には「栄光」という言葉がよく出てきます。主に神さまに対して用いられる言葉ですが、ヘブライ語では名詞で「カーボード」と言います。この言葉には「栄光」「名誉」という意味の他に、「重さ」という意味があります。ヘブライ語においては、「栄光を与える」ということは、「重んじる」という意味とつながっているのですね。

 

 対して、ヘブライ語で「軽さ」を意味する言葉は、形容詞で「カル」と言います。偶然にも日本語と似ていますが(!)、この語の動詞には「侮辱をする」という意味があります。さらには、「呪う」という意味もあります。ヘブライ語においては、「軽んじる」ということは「侮辱する」ことであり、さらには「呪う」ことでもあったのですね。

 

これらヘブライ語のニュアンスというのは、私たちの実感としても理解できるのではないでしょうか。相手の存在を「重んじる」ことがすなわち、相手を「尊ぶ」ということであり、相手に「栄誉を与える」ことにつながる。反対に、相手の存在を「軽んじる」ことが、相手を「侮辱する」ということであり、さらには相手を「呪う」ことにもつながっている。このことは、私たち自身の実感からしても、納得できることです。

 

 私たちは、人から「重んじられている」と感じることができたとき、非常に嬉しく思うものです。誇りに思うものです。一方で、人から「軽んじられている」と感じるとき、ひどく傷つきます。侮辱されたように思いますし、自尊心を傷つけられたように思います。これはあらゆる人にとって、共通の感覚であるでしょう。国籍、人種、性別、年齢などを超えて、私たち人間に共通の感覚です。

 

 

 

他者から「軽んじられる」ことの痛み

 

 私たちは日々の生活において、「重んじられている」と感じることができる瞬間というのはむしろ残念なことに少なく、「軽んじられている」と感じる瞬間の方が多いように思います。特に、集団の中にいるときにそう感じることが多いでしょう。多くの人々が関わる場にいると、自分は別に「いてもいなくてもいい」存在なのではないかと思うことがありますし、自分という存在がまるで空気のように「軽い」もの、「はかない」もののように感じることもあるでしょう。私たちは生きてゆく中で、そのような経験を繰り返しいたします。そして、傷つきます。

 

私たちはあまりに長期間に渡ってその痛みを感じ続けているので、その状態がむしろ「当たり前」となっているのかもしれません。そうして、痛みを痛みとしてはっきりと感じることがなくなっている場合もあるかもしれません。私たちが生きる日本の社会は現在、そのような状況にあるのではないでしょうか。多くの人が、自分や他者が「軽んじられる」ことの痛みに対して、だんだんと無感覚になっているという状況です。

 

 それは自分を守るためあえて無感覚になっていると言えるのであり、防衛本能によるものと言えると思いますが、その鎧を取り去ってゆくと、私たちは傷つき続けている自分自身に出会います。互いに「軽んじ、軽んじられる」ことの痛みをひしひしと感じている自分です。

 

 私たちは幼い子どもであったとき、最もこの痛みに敏感であったでしょう。幼い子どもは、自分が「軽んじられている」か「重んじられているか」を、いわば全身で感じ取ります。自分が「大切にされていない」と感じる時、その痛みは子どもの心に突き刺さります。

 

この大きな痛みとは、言い変えれば、「尊厳がないがしろにされる」ことの痛みであるということができるでしょう。幼い子どもはもちろん、「尊厳」という言葉はいまだ知りません。けれども「尊厳」という言葉を知らなくても、それがないがしろにされることの痛みや悲しみを全身で知っていることと思います。

 

 

 

《私らは侮辱のなかに生きている》

 

私たちのいま生きる社会は、「尊厳がないがしろにされ続けている社会」であるということができるのではないでしょうか。さまざまな場において、尊厳がないがしろにされ続けている。私たちの身近なところでもそれは絶えず起こり続けているでしょうし、また社会の様々な場面においてもそうです。

 

たとえば、政府が行っている政策においても、それを強く感じさせられることが続いています。次々と明らかになる原発事故に対する国や電力会社の不誠実な対応を例として見てみても、そうでありましょう。国民一人ひとりが「軽んじられている」としか思えないようなニュースが日々報じられ続けています。

 

20127月に東京の代々木公園で行われた「さようなら原発10万人集会」において、作家の大江健三郎氏は、中野重治の《私らは侮辱のなかに生きている》という言葉を引用してスピーチしたそうです。政治学者の白井聡氏は、この言葉は3・11以来私たちが置かれている状況を見事なまでに的確に言い当てていると述べています。

 

《福島第一原発の事故以降引き続いて生じてきた事態、次々と明るみに出てきたさまざまな事柄が示している全体は、この日本列島に住むほとんどの人々に対する「侮辱」と呼ぶほかないものだ。あの事故をきっかけとして、日本という国の社会は、その「本当の」構造を露呈させたと言ってよい。明らかになったのは、その住民がどのような性質の権力によって統治され、生活しているか、ということだ。そして、悲しいことに、その構造は、「侮辱」と呼ぶにふさわしいものなのである。/だからわれわれは憤ってよいし、憤っているし、また憤るべきである》(白井聡『永続敗戦論 戦後日本の核心』、太田出版、2013年、67頁)

 

先日の26日には、福井県の高浜原発4号機が、47か月ぶりに再稼働されました。放射性物質の水漏れがその直前に報じられる中での、再稼働です。政治的な都合や経済的な都合のみに重きを置いたこれら原発の再稼働は、原発事故後を生きる私たち日本の住民に対する「侮辱」であると言えるのではないでしょうか。

 

私たちは侮辱され続けている。尊厳をないがしろにされ続けている。5年前の福島第一原子力発電所の原発事故はその現実を私たちに鋭く突きつけました。《私らは侮辱のなかに生きている》、そのことを私たちは痛感しました。しかし時間が経つにつれて、私たちはだんだんとその痛みに再び無感覚になっていってしまったのでしょうか。あれほどの経験をしたのに、その痛みを、私たち日本に住む者たち自身が忘れ去ろうとしているような状況があります。老朽化した原発が再稼働され始めています。

 

 

 

「痛みを痛みとして感じる」ことを取り戻す

 

私たちはいま一度、「自他の尊厳がないがしろにされている」ことの痛みに鋭敏になってゆく必要があります。「痛みを痛みとして感じる」ことを取り戻してゆくことが求められていると言うこともできるかもしれません。震災と原発事故から5年を迎えようとしている今、私たちは今一度、そこから始めてゆく必要があるのではないでしょうか。

 

私たちの尊厳がないがしろにされている領域は、他にもさまざまにあります。きっと身近なところにもあるでしょう。また、私たち自身がいまだ無自覚に他者の尊厳をないがしろにしてしまっている領域もあるでしょう。私たちは互いに「軽んじ、軽んじられる」ことの「呪い」の縄目を解き放ち、それを「祝福」へと変えてゆかねばなりません。私たち自身が「尊厳についての感覚」を取り戻してゆくことは、喫緊の課題です。

 

 

 

尊厳をないがしろにされた主イエス

 

 私たちは現在、教会の暦で「受難節」の中を歩んでいます。イエス・キリストのご受難、十字架の死を心に留めながら歩む時期です。私たち花巻教会は礼拝においてマルコ福音書の受難物語を読み進めていますが、受難物語は、イエス・キリスト御自身が人々から「尊厳をないがしろにされる経験」をされたことを証しています。他者から存在を軽んじられ、侮辱されることの痛みを、主イエスご自身が、極みまで経験されたことを記しています。本日の聖書箇所もそれを証言するものの一つです。

 

私たちはこれら箇所を読むと、辛い気持ちになります。できれば読まずにいたいとも思います。しかし、読まなければならないことを知っています。私たちはこれら受難物語を通して、他ならぬ、「尊厳についての感覚」を取り戻すようにと招かれているように思うからです。まず何より、「尊厳をないがしろにされる」ことの痛みを思い出すこと。自分自身の痛み、また他者の痛みを想い起こしてゆくこと。日々の生活の中でだんだんと石のようにかたくなになっていた私たちの心は、主のご受難に触れることを通して、「痛みを痛みとして感じる」感覚を取り戻してゆきます。

 

 

 

兵士たちからの侮辱

 

改めて、マルコによる福音書151620節をお読みいたします。《兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。/そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、/「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。/また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。/このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外に引き出した》。

 

ポンテオ・ピラトのもとで十字架刑が確定された後、主イエスは鞭打ちの刑を受けられました1515節)。この鞭打ちはそれによって亡くなる人がいるほど、残酷なものでした。先端に鋭い金属がついた鞭で、主イエスは何度も鞭打たれました。主イエスは肉体的にすさまじい暴力を受けられました。肉が裂け、全身が血だらけになった主イエスは、その後、ローマ兵士たちによって弄ばれます。主イエスは肉体的な虐待を受けた後に、今度は大勢のローマ兵士たちに囲まれる中で精神的な虐待を受けられたのです。その様子を記すが本日の聖書箇所です。主イエスを取り囲んだ兵士たちは、エルサレムで暴動が起こる可能性を踏まえ、町を警備するために集められた兵士たちでした。

 

 主イエスはこれら兵士たち全員が見ている前で、紫の服を無理やり着せられ、茨の冠をかぶせられ、「ユダヤ人の王、万歳」と侮辱されました。主イエスには、「ユダヤ人の王を偽証した」という罪が帰せられていたからです。そのことを逆手にとって、兵士たちは主イエスを嘲笑しました。主イエスは兵士たちから葦の棒で何度も頭をたたかれ、顔には唾を吐きかけられました。また彼らは戯れに、主イエスにひざまずいて拝んだりしました。兵士たちの行為は、まさに他者を「軽んじる」ことの極みのような行為です。このような侮辱を受けたとしたら、心の大切な部分が破壊されてしまってもおかしくはありません。主イエスは十字架の道行きにおいて、尊厳を徹底的にないがしろにされる経験をされました。

 

 この主のお苦しみを想い起こすことによって、私たちは「痛みを痛みとして感じる」感覚を再び取り戻してゆきます。主イエスのお姿は、尊厳をないがしろにされている私たちの現実を映し出しています。私たちの痛みを、主イエスはご自身のものとして経験し尽くしてくださいました。また同時に、主イエスを虐待したローマ兵士たちの姿は、他者の尊厳をないがしろにしている私たち自身の現実も映し出しているでしょう。私たち人間はいまもこのように、他者の尊厳を傷つけ続けています。

 

 

 

消えることのない神さまからの光

 

 ご一緒に主のご受難を想い起こしてまいりましたが、福音書を読んでいますと、もう一つ、私たちが知らされることがあります。主イエスは肉体的、精神的な苦しみを極みまで経験されましたが、それでも、主イエスのお姿のうちに、失われない尊厳の光がともっている、ということです。失われないその光、それは、神さまからの尊厳の光に他なりません。苦しみのただ中で尊厳ある主のお姿は、どんな力も、暴力も、神さまからの尊厳の光を奪うことはできないのだということを示しています。そして主イエスを通して輝き出でたこの消えることのない光は、いま、私たち一人ひとりを照らし出しています。私たち一人ひとりの内に、消えることのない神さまからの尊厳の光を灯して下さっています。

 

この光に目を注ぐとき、私たちは、主イエスの語りかけを聴きます。「どれほどあなたが他者から軽んじられようと、虐げられる状況にいようと、神があなたに与えられている尊厳は決して失われることはないのだ」と。あなたがどれほど世界から軽んじられようと、神はあなたを極みまで「重んじ」、価高く貴いものとして見つめ、愛し続けてくださっている(イザヤ書434節)のだ、と。茨の冠をかぶせられた主イエスはいま、私たち一人ひとりを見つめ、そう語りかけて下さっています。

 

 どうか、この地上に人間の尊厳が、天に神の栄光が、とこしえにありますように。そのために私たち一人ひとりが働いてゆくことができますようにと願います。