2016年2月7日「あなたはほむべき方の子、メシアなのか」

 

201627日 聖書箇所:マルコによる福音書145365

「あなたはほむべき方の子、メシアなのか」

 

 

主イエス、裁判にかけられる

 

本日の聖書箇所は、逮捕されたイエス・キリストが裁判にかけられる場面です。「裁判」といっても、当時のイスラエルの裁判は現代の裁判とはまた仕組みが異なるものです。私たちがテレビなどでよく見る法廷の様子というのは、中央に裁判官がいて、その前に書記官がいて、左右に検察官と弁護人がいて、手前に被告人がいて、というものですね。近年は裁判員制度の導入によって、ある日、自分が裁判員の一人になるということが起こり得るようになりました。裁判員制度が対象とするのはご存じのように、刑事裁判です。「有罪」か「無罪」か。また「有罪」である場合、量刑はどれくらいか。裁判員になった場合、それらを自分で判断せねばなりません。もし自分が裁判員になったとしたら、ということを想像してみると、「人が人を裁く」というのは大変なことであることを改めて思わされます。

 

イエス・キリストが生きておられた時代の裁判は、現在の裁判とは仕組みがまったく異なるものでした。当時はまだ裁判員・裁判官、検察官、弁護人という役割分担はありません。逮捕から判決に至るまでのすべての働きは「最高法院」という機関が担っていました。

 

「最高法院」とは当時のイスラエルの自治機関であり、絶大なる権力をもった最高機関でした。最高法院は大祭司と、祭司長、長老、律法学者など70人の議員で構成されていました。もちろんこれらの人々は国民の選挙によって選ばれているわけではありません。

 

最高法院はエルサレム神殿の「石切の間」と呼ばれる部屋を議場としていました。主な働きは国民の宗教生活を監督することでしたが、その他にも裁判所の役割も担っていました(参照:『新共同訳 聖書辞典』)2000年前のイスラエルはいまだ「三権分立」という考え方はありませんので、この最高法院がいわば行政であり、司法でもあったのです。現代の視点からすると「恐ろしいこと」ですが、当時としては当たり前のことであったのですね。

 

たとえば、最高法院が議会においてある人物を「有罪にしよう」と決めたとしたら、それを前提として強引に裁判を進めてゆくことも可能でしょう。そのようなことが起こる危険性があります。万が一その人物が無実であったら、大変なことです。

 

しかし、まさにイエス・キリストは、そのような不正な仕方で、死刑の判決を受けました。無実であるにも関わらず、最高法院の策略によって逮捕され、裁判にかけられ、そして死罪を言い渡されたのです。

 

 

マルコによる福音書145365節《人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。/ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。/祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。/多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。/すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。/「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」/しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。/そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」/しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。/イエスは言われた。「そうです。/あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」/大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。/諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。/それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った》。

 

 

 

 

 

「結論ありき」の裁判

 

マルコ福音書は最高法院が以前から主イエスを殺す計画をしていたことを記しています。《祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと話し合った》1118節)。彼らは主イエスを死刑に処するために話し合いをし、その上で主イエスを逮捕しました1443節)

 

そうして開かれた裁判は、つまりは「結論ありき」の裁判であったわけです。ナザレのイエスは「有罪」であり、「死刑」に処するという結論ありきで、すべてが進められていました。この裁判の異常さは、開かれた場所と時間帯にも表れています。通常、裁判はエルサレム神殿で開かれていましたが、この日は大祭司の屋敷の中庭で開かれました55節)

 

また死刑の裁判は通常は昼間に開かれ、その判決も昼間になされなくてはならなかったそうですが、この日は深夜に開かれました(参照:『新共同訳 聖書辞典』)。つまりそもそもが非合法なかたちで裁判が開かれてしまっていたのだということが分かります。何かから「隠れる」ようにして、主イエスの裁判は行われました。

 

 

 

偽りの証言

 

裁判の内容も、異常なものでした。証言をする人々が全員、主イエスを「死刑にする」という明確な目的をもって証言を行ったのです。証言をする人々は皆、主イエスが不利になるように偽りの証言をしました。

 

裁判において偽りの証言をするということは律法で厳しく禁じられています。モーセの有名な十戒には、《隣人に関して偽証してはならない》(出エジプト記2016節)という戒めがあります。「裁判において、隣人について偽りの証言をしてはならない」というのは、古代イスラエル社会においても決して破ってはならない掟でありました。しかし最高法院の人々はこの掟を破ってまでして、主イエスを有罪にしようとしたのです。

 

この違法な裁判において唯一正しく機能していたのは、「有罪とするには二人または三人の一致した証言がなくてはならない」という律法の掟でした。《いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない》(申命記1915節)

 

人々の証言は、細部において一致することはありませんでした。主イエスを有罪にすることに躍起になるあまり、嘘が露呈してしまったのかもしれません。「二人または三人の一致した証言が必要」という原則によって、主イエスは人々の証言によっては「有罪」とされることはありませんでした。

 

 

 

「あなたは神の子、キリストなのか」

 

 偽りの証言が繰り返される間、主イエスはただ沈黙しておられました。自分に不利な証言をされているのに、主イエスは何ら弁明をなさいませんでした。大祭司は不可思議に思ったのでしょうか、立ち上がり、真ん中に進み出て主イエスに問いかけます。《何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか》60節)。しかし主イエスはなお黙り続け、何もお答えにはなりませんでした。

 

 そこで大祭司は重ねて主イエスに尋ねました。《お前はほむべき方の子、メシアなのか》61節)。「ほむべき方」とは、「神」のことです。大祭司は、「あなたは神の子、キリストなのか」と尋ねました。すると今まで口をつぐんでいた主イエスは口を開き、はっきりと答えられました。《そうです。/あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る》62節)

 

 これを聞いた大祭司は衣を引き裂きながら言います。《これでもまだ証人が必要だろうか。/諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう考えるか》64節)。大祭司は、主イエスがご自身を「神の子、キリスト」だと言ったことを、神への侮辱、すなわち「冒瀆罪」であるとみなしたのです。律法には冒瀆罪に対する罰は、石打ちによる処刑であるという掟もあります(レビ記2416節)。冒瀆罪は死に価するほどに重い罪であると捉えられていました。当然のように、最高法院の人々は主イエスを「死刑」に処すべきだと決議しました。

 

ただし、当時は死刑の宣告はローマ帝国の統治権の下にありました(参照:『新共同訳 聖書辞典』)。死刑の最終的な決定権はローマにあったのです。よって主イエスはこの後、最高法院の人々の手から、ローマ総督のポンテオ・ピラトの手に引き渡されることになります151節)

 

 

 

「過ちを過ちとして認めない」こと

 

 以上が、マルコ福音書が報告する、イエス・キリストの裁判の様子です。その裁判がいかに理不尽で不正なものであったかが伝わってきます。最高法院はなぜそのような不正な裁判を行なってまでして、主イエスを死刑にしようとしたのでしょうか。なぜそこまで躍起になったのでしょうか。

 

 マルコ福音書は、その要因となった出来事を記しています。エルサレム神殿にて、主イエスが最高法院の人々を痛烈に批判した出来事です。主イエスはおっしゃいました、《「こう書いてあるではないか。/『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」》1117節)

 

 当時、すべての人にとっての祈りの家であるはずの神殿が、民衆から財産を搾取する場となっていたという現状がありました。貧しい者はますます貧しくなり、富める者はますます豊かになってゆく。その状態を深く悲しまれ、主イエスは最高法院の人々に向けて、《あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった》とおっしゃいました。

 

最高法院の人々は、主イエスの真剣な批判を耳にしましたが、それを激しく拒絶をしました。私たちには、過ちをはっきりと指摘されたとき、それを否定しようとする反応が起こることがあります。懸命に自己正当化しようとするのですね。場合によっては、嘘をついて自分を正当化しようとする。または、自分を批判した相手を激しく攻撃しようとする。「過ちを過ちと認めない」姿勢は、神さまと隣人との関係をだんだんと壊して行ってしまうものです。

 

「過ちを過ちとして認めない」という最高法院の人々の姿勢が不正な裁判を引き起こし、そして主イエスを死に追いやったのです。これは過去に起こった出来事であると同時に、私たち自身にも起こり得ること、かたちを変えて日々起こっていることなのではないかと思わされます。私たちの頑なさは、神を傷つけ、他者を傷つけ、そして自分自身を傷つけてゆきます。

 

 

 

わたしたちの背きのために

 

主イエスはそのような私たちを、その奥底まで御存じであったのでしょう。不正な裁判が繰り広げられている間、主イエスはただ沈黙を守っておられました、この主イエスのお姿は、私たちに旧約聖書の預言書イザヤ書の「苦難の僕」を想い起こさせます。《苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。/屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。/捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。/彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを》(イザヤ書5378節)

 

主イエスは無罪であるにも関わらず、死刑に処せられました。神の子であるにも関わらず十字架に磔にされ殺されました。神の子を死刑に処したということは、私たちこそ、最大の冒瀆罪を犯したということになります。旧約聖書の律法では、神に対する冒涜は死罪に相当します。しかし、私たちにその罰が課されることはありませんでした。主イエスは私たちを裁くことをなさらなかった。私たちを裁くかわりに、主イエスがなしてくださったこと、それは私たちを愛することでした。私たちのために祈り続けて下さることでした。

 

 

 

新しい命の中を

 

主イエスは「過ちを過ちとして認めることができない」私たちのために祈り続けてくださいました。十字架の道行きにおける主イエスの沈黙は、声にならない主イエスの祈りでもあったのではないでしょうか。主イエスは私たちがどれほど主イエスを傷つけても、一貫して私たちの「無罪」を祈り続けてくださいました。

 

私たちはこの愛を知った時、初めて、自らの過ちを受け入れることができるようになってゆきます。私たちの全存在を包み込むこの神さまの愛の上に座り込んで、その愛に抱かれて、初めて、思い至ります。「わたしは過ちを犯した。わたしは間違っていた」。

 

死刑を言い渡す恐ろしい裁判官は、もはやここにはいません。ここに共におられるのは、私たちの味方であり、私たちの弁護者(ヨハネの手紙一21節)であるイエス・キリストです。私たちが過ちを認めたとしても、それに対する神からの恐ろしい罰則は存在しません。主の十字架を通して私たちに与えられているのは罰ではなく、新しい命です。

 

もはや私たちが他者を傷つけ、そして自分自身を傷つけ続けることがないよう、主イエスは私たちのために祈り続けて下さっています。私たちが頑なな心から解放され、柔らかな心で、新しい命の中を喜びをもって歩んでゆくことができるように。他でもない、ただ、あなたのために、主イエスは祈り続けて下さっています。

 

 いま、この主の愛と祈りにご一緒に立ち還りたいと願います。