2016年3月13日「本当に、この人は神の子だった」

2016313日 聖書箇所:マルコによる福音書153341

「本当に、この人は神の子だった」

 

 

震災から5

 

東日本大震災から5年が経ちました。一昨日の311日は、皆さんも改めて5年前のことを想い起こし、祈りをささげられたことと思います。本日は午後から、新生釜石教会にて、震災5年を覚えての礼拝がもたれます。一昨日の11日には、新しい会堂と牧師館が完成した宮古教会の献堂式が行われました。

 

5年が経ちましたが、いまだ多くの人々が困難を抱えてながら生活をしています。多くの人々が、愛する人を失った悲しみを抱えています。原発事故による放射能汚染の苦しみは続いています。これからも震災を忘れることなく、心に刻みつつ歩んでゆきたいと思います。

 

教会の暦では、いまは受難節に当たります。受難節は、イエス・キリストのご受難と十字架の死を想い起こす時です。イエス・キリストの御苦しみを想い起こし、そのことを通して、いま苦しみの中、悲しみの中にいる人々に対して私たちの心を開いてゆきたいと思います。

 

 

 

すべてが収斂してゆく一点 ~十字架の死

 

私たち花巻教会は、礼拝の中でマルコによる福音書をご一緒に読み続けて参りました。本日の聖書箇所は、遂に、イエス・キリストの十字架の上で亡くなる場面です。この場面は、マルコによる福音書において、最も大切な場面です。マルコによる福音書においては、物語のすべてが、この「十字架の死」という一点に向かって収斂していっているということができるでしょう。

 

マルコによる福音書153341節《昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。/三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。/そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。/ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。/しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。/すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。/百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。/また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。/この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた》。

 

 

 

主イエスの最期の言葉 

 

主イエスが十字架に磔にされたのは、午前9時であったとマルコ福音書は記しています1525節)。時刻が記されているということは、イエス・キリストの十字架が単なる物語ではなく、私たちの歴史に事実として起こったことであることを、改めて私たちに想起させます。

 

主イエスはその6時間後の午後の3時に息を引き取られました。6時間もの間、主イエスは十字架の上で苦しみ続けられたということになります。

 

3時間が経過した昼の12時になると、全地が暗くなり、それが3時まで続いたとマルコ福音書は記します33節)。その「暗さ」とは、天候の悪化による暗さではありません。その「暗さ」とは、私たちの世界から光が失われてゆくような暗さです。暗闇が世界を覆ってゆく暗さ。この恐ろしい「暗さ」は、私たちに「世界の終わり」を想い起こさせます。

 

主イエスは十字架に磔にされてから、口をつぐみ続けておられました。すさまじい肉体の苦痛に伴う喘ぎ声は当然出されていたでしょうが、明確な言葉は発されることはなかった。そのような中で、マルコによる福音書は、息を引き取られる3時に、主イエスが言葉を発されたことを記しています34節)。口をつぐみ続けておられた主イエスは、遂に、最期の言葉を発された。その言葉は、《エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ》という叫びでした。これは、《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》という意味の言葉です。

 

 

 

「絶望の叫び」として

 

《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》。これがイエス・キリストの最期の言葉であるということは、私たちに衝撃を与えます。この主イエスの叫びをどのように受けとめたらよいのか戸惑いを覚える方もいらっしゃることでしょう。

 

受け止め方には人によって相違があります。この主イエスの叫びは、旧約聖書の詩編22編の冒頭と同じ言葉です。詩編22編は《わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか》という言葉で始まります(詩編222節)。詩編22編はそのように深い失望の言葉から始まりますが、最後には神への信頼の言葉をもって終わります。このことから、主イエスは《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》という詩編22編の冒頭を引用することによって、最後まで失われなかった神への信頼を告白したのだ、という解釈もあります。

 

 一つの解釈だけが正しいということはないでしょう。私たちはこの主の十字架の死の場面からさまざまなメッセージを引き出すことが可能であるでしょう。さまざまな解釈が可能であることを踏まえた上で、本日は、《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》という主イエスの叫びを、それが意味する通りの言葉として受け止めてみたいと思います。すなわち、その言葉が意味する通り、「絶望の叫び」の言葉として受け止めてみたいと思います。

 

 この言葉をその意味する通りに受け止めるとすると、主イエスは「見捨てられた」ことの叫びを叫ばれたということになります。弟子たちから、そして神ご自身から「見捨てられた」と感じることの叫びです。主イエスはすべてに「見捨てられた」と感じる苦痛の中で、息を引き取られたのだと本日は受け止めてみたいと思います。

 

私たちは世界に見放されても、ただ一人でも自分の味方になってくれる人がいれば、完全に絶望するということはないでしょう。しかし、主イエスは最期の瞬間、自分の味方になってくれる存在を見失われました。神からも、愛する人々からも「拒絶された」とお感じになりました。愛する存在は遠く離れ、すべてに見放され、拒絶されたと感じる苦痛の中で、主イエスは生涯を閉じられたのです。

 

 

 

「見捨てられた」と感じる苦痛の中で

 

マルコによる福音書は十字架に磔にされた主イエスを、女性たちが遠くから見守っていたことを記しています4041節)。男性の弟子たちは皆逃げ去ってしまいましたが、女性の弟子たちはそうではなかった。女性たちは最期までつき従っていました。女性たちがたとえ遠くからでも「見守っていた」ということは、主イエスはすべての人から「見捨てられた」わけではないということになります。

 

また、マルコ福音書は、死んで墓に葬られた主イエスが三日目によみがえられたことを記しています16章)。神によって「復活させられた」ということは、主イエスは神ご自身から「見捨てられた」わけではなかったことになります。

 

福音書を読む私たちはその真実を知っています。けれども、十字架に磔にされた主イエスご自身はそうではなかったのではないか。このとき、主イエスはご自身は、神からも人間からも「見捨てられた」とお感じになっていた。

 

主イエスの目からは、もはや自分を「見守る」存在は見えない。主イエスはただお一人、隔絶された場所に追いやられていた。愛する人々も、父なる神も、十字架の上においては一切「不在」であった。薄れゆく意識の中で、主イエスの耳に聴こえるものと言えば、自分を嘲笑し侮辱する人々の声だけであった。目の前は暗闇に覆われ、光はどこにも見当たらない。

 

このときの主イエスの内面というのは、極限まで追い込まれた人の、異常な精神状態と言えるかもしれません。しかし、主イエスはその精神状態を経験されたのです。神の子である方が、一人の人間となって、私たちが経験する精神的な苦痛の極みを経験されました。

 

 

 

人生の意味、死の意味が見失われた中で

 

では、なぜ、神は自分を見捨てたのか、と主イエスは問いかけられます。なぜ、どうしてなのか。

 

主イエスは「神の子」であり、本来、すべてを御存じである方です。けれども、十字架の上で、主イエスは神の子としてすべてを見通す目を失われました。神の子としての視点を自ら放棄され、意味が見失われた世界のただ中に投げ込まれました。

 

私たちにとって最も恐ろしいことの一つに、自分のこれまでの人生が「無意味であった」と思ってしまうことがあるでしょう。主イエスは一人の人間として、その恐怖を経験されました。磔の苦痛によって朦朧とする意識の中で、主イエスは走馬灯のように御自分の人生を想い起こされたかもしれません。自分が生涯をかけて祈り求めてきた「神の国」とは何だったのか。「神の国」の実現はいまだ途中で断絶されたまま、主イエスは十字架の上で殺されようとしています。主イエスは、「神の国」の実現を目指したご自分の人生そのものが、神さまから「拒絶された」ようにお感じになったのかもしれません。

 

自分がこれまでしてきたことはすべて無意味であったのか。一体、自分の人生とは何であったのか。自分はいま何のために苦しみを受け、殺されようとしているのか。分からない……。

 

私たちは自分の死が苦痛に満ちたものであるとしても、そこに意味を見出すことができれば、かすかにでも慰めを見出すことができるかもしれません。一方で、その死に意味を見出せないとしたら、私たちにとってこれほど苦しみに満ちたことはないでしょう。しかし、主イエスはその恐ろしい虚無の暗闇を経験されました。

 

もちろん、私たち教会は主イエスの死を無意味な死とは見なしてはおりません。その死を通して、私たち一人ひとりに新しい命を与えられたという信仰をもっています。それが聖書全体を通して私たちに示される真実です。けれども、十字架の上において、主イエスご自身は、ご自分の死の意味を見失った中で、息を引き取られたのだと私は受け止めています。ある人は、主イエスは《自分自身にとって意味不明の謎の死を死んだ》、《イエスは十字架上に、彼自身にとって意味不明の謎の刑死を遂げた》と表現しています(大貫隆氏『イエスという経験』、岩波書店、2003年、215217頁)。私たちにとって最も苦痛な死を、主イエスは経験されました。

 

 

 

「本当に、この人は神の子だった」

 

説教の最初で、十字架の死の場面は、マルコによる福音書において最も大切な場面であると申しました。マルコは、この十字架の悲惨な死に、自分にとって本当に大切な何かを見出したのです。その何かを指し示すために、マルコによる福音書を記したのだと言ってよいでしょう。

 

 主イエスが悲惨な十字架の死を遂げられた時、それを見たローマの百人隊長が《本当に、この人は神の子だった》と述べました。この百人隊長の言葉は、マルコ自身の信仰告白でもあります。

 

 見捨てられたと叫んで亡くなった主イエス。ご自分の人生の意味、死の意味を見失って亡くなった主イエス。救いがない悲惨な死を遂げられた主イエス。この主イエスの十字架の死に、マルコは本当に大切な何かを見出しました。

 

 マルコは、《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》という主イエスの叫びは、自分自身の叫びであると感じたのではないでしょうか。「見捨てられた」と感じて生きざるを得ない自分自身の叫び。人生の意味、死の意味を見失って苦しむ自分自身の叫び。その言葉に出来ない叫びを、主イエスは叫んでくださった。自分の代わりに、自分と共に、叫んでくださった。マルコはその瞬間、自分と十字架の主イエスが堅く「一つに結ばれている」ことを知らされたのだと思います。自分は独りではない。見捨てられてはいない。主イエスが、十字架の主が「ここにおられる」。そのことを知らされたマルコは告白しました。《本当に、この人は神の子だった》。

 

 

 

「あなたは独りではない。あなたは生きよ」

 

私たちもまた、生きてゆく中で、暗闇に向かい合わざるを得ない経験をします。「見捨てられた」と感じる経験をすることがあります。愛する存在から「拒絶された」と感じる経験をすることがあります。人生の意味を見失う経験をすることもあるでしょう。意味が不明な死に直面することもあります。愛する人の突然の死も、私たちにとっては意味が理解できない死です。

 

誰からの慰めの言葉も届かないような場所、一切の光が届かないような深い暗闇。私たちは生きてゆく中で、このような暗闇に追い込まれてしまうことがあります。主イエスは一人の人間となって、その私たちの暗闇にまで、自ら降りて来てくださいました。ご自分が暗闇となりながら、暗闇に追い込まれた私たちと結びつこうとしてくださいました。何としてでも結びつこうとして下さいました。

 

主イエスご自身はすべてに「見捨てられた」と感じる苦痛を叫びながら、そのお姿を通して、私たちに「あなたは独りではない」と語りかけてくださいました。「あなたは独りではない、わたしはここにいる。あなたのこの苦しみの中に、あなたの悲しみの中に、あなたの痛みの中に、わたしはいる」。

 

主イエスご自身はご自分は人生の意味を見失って叫びながら、そのお姿を通して、「あなたは生きよ」と語りかけてくださいました。「あなたはわたしの目に、かけがえなく貴い。あなたは生きるに値する。たとえいまは意味が見いだせなくても、あなたが生きて存在していることにこそ最大の意味がある。あなたは生きよ。何としてでも、生きよ」。十字架の主は、そう叫んでおられます。

 

 十字架の主、この方こそ、まことの神の子であると私たちは信じます。