2016年4月10日「イエス・キリストの系図」

2016410日 主日礼拝

 聖書箇所:マタイによる福音書1117

「イエス・キリストの系図」

 

マタイによる福音書1117節《アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。/

 

アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、/ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、/アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、/サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオべドを、オべドはエッサイを、/エッサイはダビデ王をもうけた。

 

ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、/ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、/アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、/ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、/ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、/ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。/

 

バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、/ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、/アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、/エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、/ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。/

 

こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である》。

 

 

 

マタイによる福音書

 

 本日から、マタイによる福音書をご一緒に礼拝の中で読んでゆきます。新約聖書には福音書が四つありますが、マタイによる福音書は一番初めに位置しています。新約聖書を読み始めた人が初めて出会うのが、このマタイによる福音書ですね。

 

 新約聖書を読み始めてまず戸惑うのが、後で取り上げます「系図」の部分ですね1117節)。冒頭でいきなり見慣れない人物の名前が長々と記されてゆくので、「読むのをやめようかな」と思ってしまった(!)方も多いことでしょう。

 

マタイによる福音書の著者は、イエス・キリストの弟子の「マタイ」であると伝統的に考えられてきました。今日では、この福音書の著者を弟子のマタイと考えることは難しいとされています。すなわち無名の人物によってマタイによる福音書は記されたわけですが、便宜的に、以後著者のことをマタイと呼んでゆきたいと思います。

 

マタイによる福音書は主イエスの死後、少なくとも50年は経った時(紀元80年~100年頃)に記されたものです。イエス・キリストが生きておられた時代から、半世紀以上も後に記されたわけで、すでに教会のメンバーは第二世代、第三世代に移り変わっていたことでしょう。著者のマタイも、生前の主イエスには会ったことはない、新しい世代の一人であったと思われます。

 

 

 

マルコによる福音書を踏まえて

 

 マタイによる福音書は新約聖書中で一番初めに位置していますが、記された年代が一番初めであるわけではありません。四つの福音書の中で一番初めに書かれたのは、マルコによる福音書です。私たち花巻教会は先週までご一緒にマルコによる福音書を礼拝の中で読んでまいりましたが、マルコによる福音書が一番古い福音書であったのですね。

 

 そのマルコによる福音書を踏まえて、マタイによる福音書は記されています。おそらくマルコによる福音書を机の上に置いて常に参照しつつ、マタイはこの新しい福音書を記していったのでしょう。

 

すでにマルコによる福音書という福音書があるのに、あえて新しい福音書を記したということは、マタイがその必要を感じていたから、ということになります。マタイは、新しい福音書を記さねばならないという強い促しによってこのマタイによる福音書を記したようです。マタイは、新しい福音書を記すことによって、マルコによる福音書が記しているのとはまた異なったイエス・キリストの「側面」を指し示そうとしたのだと考えられます。

 

マタイによる福音書とマルコによる福音書とは、イエス・キリストを見つめる「視点」が異なっています。同じ聖書の中に、そのように異なった視点が共存しているというのは、面白いことですね。マタイとマルコには、もちろん視点が共通している部分もあるし、まったく異なっている部分もある。それら異なる視点をひとつに統一するのではなく、あえて共存させているところに、聖書の豊かさがあるのだと思います。そしてそれは、イエス・キリスト御自身の恵みの豊かさであるということができるでしょう。

 

イエス・キリストの恵みと愛とは、あまりに大きなものなので、とても一つの方向の視点からだけでは語り尽くせるものではありません。東西南北から、あらゆる方向から、言葉を尽くして語って初めて、イエス・キリストというお方の輪郭線が浮かび上がってくるのでしょう。そしてそれでもなお、私たち人間の言葉では語り尽くせるものではありません。

 

 

 

十字架の先の、復活の光

 

 具体的に、マタイによる福音書はイエス・キリストのどの側面を指し示そうとしているのでしょうか。それは、「十字架」と「復活」の側面です。マタイによる福音書は、イエス・キリストの十字架の側面と復活の側面を、同時的に描き出そうとしています。

 

対して、一番初めに記されたマルコによる福音書が指し示そうとしているのは、「十字架」の側面のみです。イエス・キリストの十字架の側面を集中的に描き出そうとしているのがマルコによる福音書です。ここに、両者の決定的な相違がある、と私は受け止めています。

 

私たちが先週までご一緒に読んできたマルコによる福音書は、イエス・キリストの十字架の死に最も重きを置く視点を持っています。マルコ福音書の最大のクライマックスは復活の場面ではなく、十字架の死の場面にあります(マルコによる福音書153339節)

 

マルコによる福音書のまなざしは、十字架におかかりになっている主に集中して注がれています。それは、十字架の主をはらわたが引き裂かれるような想いで見つめているマリアたちのまなざしに通じています。主イエスのご生涯とその死を決して忘れない。十字架の道を歩む主のお苦しみに、自分自身の苦しみを結び合わせて生きてゆく――主と苦しみを共にせんとする深い想いを私たちはマルコによる福音書から汲み取ることができます。

 

  マタイは、そのようなマルコによる福音書の想いを汲み取りつつ、しかし、それで終わりではない、ということを記したくて新しくマタイによる福音書を記したのだと考えます。十字架の死で、すべては終わるのではないのだということ。長い冬を経た先に春が来るように、十字架の苦難の先に復活の光があるのだということをも、人々に示したかったのだと思います。

 

 

 

「インマヌエル」なる世界の創造

 

十字架と同時に、復活をも指し示す――。このマタイの視点によって、マルコによる福音書が描く世界のあり方とはまた異なる、まったく新しい世界のあり方が出現しました。マタイが指し示す、このまったく新しい世界のあり方は、一つの語に集約されます。

 

その言葉とは、「インマヌエル」です(マタイによる福音書123節)。「インマヌエル」とはヘブライ語で「神は我々と共におられる」という意味の言葉です。私たちと共に、私たちがいま生きているこの世界と共に、神はいてくださる。イエス・キリストの十字架と復活により、「世の終わりまで、神がいつも私たちと共にいてくださる」という新しい世界が創造された2820節)。ここにはもはや、神と人間とを分ける「隔て」はありません。神と人間との隔てが取り除かれ、天と地とが一つとなっています。マタイはこの「インマヌエル」なる新しい世界を描き出そうとして、この福音書を記しました。そしてこの世界とは、マタイの創作ではなく、マタイが事実、経験をした世界であったのでしょう。マタイはこのような新しい世界のあり方を深い感動をもって経験したことがあったのだと思います。自分はいま、新しい天地創造に立ち会っているのだ、と。

 

 

 

イエス・キリストの系図 ~イスラエル民族の歴史

 

 これらのことを踏まえた上で、改めて、マタイによる福音書の冒頭の部分を見てみたいと思います。

 

 2節から記されている系図は、旧約聖書に記されているイスラエル民族の歴史の要約ともなっています。特に重要な位置づけがなされている人物は、アブラハムとダビデです。

 

アブラハムは、旧約聖書の一番初めの書『創世記』に出てくる人物で、すべてのイスラエル民族の祖に当たる人物です。このアブラハムから、すべての民族が枝分かれして行ったと捉えられているのですね。ユダヤ教徒の人々は今日も、「自分たちはアブラハムの子である」ということをアイデンティティとしているそうです。

 

ある日、神さまがアブラハムに出会い、祝福の約束を与えて下さったことが、イスラエル民族の始まりとなったことを『創世記』は記します(創世記1213節)

 

 マタイ独自の計算によると、このアブラハムからちょうど14代目が、ダビデに当たります。ダビデ王は旧約聖書の『サムエル記』などに登場する王ですね。ダビデ王と言えば、ミケランジェロのダビデ像が有名です。ダビデはイスラエル12部族の中のユダ族の出身です。ダビデはそれまでバラバラであった12部族を統一し、イスラエル王国の樹立を成し遂げました。アブラハムから分かれ出た子孫が、ダビデの代において、遂に一つにまとめられました。

 

アブラハムと同様、ダビデは神さまから祝福の約束を与えられますが(サムエル記下71116節)、その約束の言葉には、アブラハムへの約束ではいまだはっきりと言葉にはされていなかった側面が含まれていました。それは、神さまがダビデ王朝をとこしえに祝福し、将来このダビデの家系から「メシア」が誕生するということです。

 

この約束の言葉は、苦難の中にいるイスラエルの民の希望となってゆきました。マタイは、ダビデ王から14代数えた時代が、「バビロンへ移住させられた時代」であることを強調しています。バビロンへの移住とは、いわゆる「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事を指しています。紀元前6世紀(紀元前586年)に起こったこの出来事は、旧約聖書の民が経験した最も大きな民族的悲劇となりました。ダビデによって統一された王国はすでに南北に分裂していましたが、北に続いて南の王国が、近隣の強大なバビロンという帝国に滅ぼされてしまったのです。最も大切なエルサレム神殿は破壊され、人々はバビロンに強制的に移住させられました。

 

バビロン捕囚という悲劇の中で、人々の希望となっていたのが、ダビデの家系から「メシア」が誕生するという約束でした。イスラエルの人々の目の前にある現実は、まるで切り倒された大木の切り株のようでした。永遠に祝福されるはずのダビデ王朝は途絶えてしまった。大木は、無残に切り倒されてしまった。王国は廃墟と化してしまった。「すべてが終わってしまった」その絶望の中で、しかし、人々はかつてイザヤという預言者が語った幻を想い起こしました。切り倒されたその樹の根元から、新しい若枝が生えい出るという幻です。《エッセイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。…》(イザヤ書1112節)

 

マタイによる福音書は、バビロン捕囚という苦難から14代後に生まれたイエス・キリストこそが、その若枝であることを記しています。ダビデの家系の末裔であるヨセフを夫とするマリアから、ついに「メシア」がお生まれになった。切り倒された樹の根元から、遂に、若枝は芽吹いたのです。神さまの約束が、イエス・キリストによって成就したのだ、とマタイは私たちに伝えようとしています。

 

 

すべての個々人の救い主として

 

 これら系図の記述から、マタイがイスラエル民族に対して深い想いを抱いていた人物であったことが分かります。ただし、マタイが伝えようとしているのはそれだけではありません。イスラエル民族という枠組みを超えて、すべての民族に、この神さまの約束は与えられているのだ、ということをも伝えようとしています(創世記123節)

 

 2節以下の系図には、マリアを除いて4人の女性たちの名前が記されています。いずれも旧約聖書に登場する女性たちです。3節にタマル(創世記3815節参照)という女性が、5節にラハブ(ヨシュア記21節参照)という女性の名、5節にルツ(ルツ記参照)という女性が、6節にウリヤの妻、つまりバト・シェバ(列王記下1112章参照)という女性が登場しています。ラハブとルツという女性は異邦人、すなわちイスラエル民族ではない女性です。タマルとバト・シェバも伝承では異邦人の女性とされることがあったそうです。

 

 このことからも、マタイが記す系図は、イスラエル民族のものだけではないことが分かります。イエス・キリストに至る系図には、イスラエル民族以外の民族も決定的な役割を果たしています。イエス・キリストはあらゆる垣根を越え、すべての個々人の救い主であることが示されています。

 

 

 

イエス・キリストによる創世記

 

最後に、改めて、一番初めの1節を見てみたいと思います。1節《アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図》。私たちが読んでいる新共同訳聖書ではこの1節は系図のタイトルのようになっていますが、この節はもともとは、マタイによる福音書全体のタイトルであると考えられます。

 

《系図》と訳されている語は、原文のギリシャ語では「創世の書」という意味の言葉です。このニュアンスを活かして訳し直しますと、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストによる創世記」となります。これが、マタイによる福音書の元来の表題です。旧約聖書の一番初めの書は『創世記』であり、そして新約聖書の一番初めの書もまた『イエス・キリストによる創世記』である。第二の創世記、新しい創世記がこのマタイによる福音書であると受け止めることができます。

 

 

 

復活の命の芽吹き

 

 マタイは事実、イエス・キリストを通して、まったく新しい世界が創造されたと実感していました。神がいつも共にいてくださるという、「インマヌエル」なる世界が、イエス・キリストを通して創られた。私たちはいま、その新しい天地創造に立ち会っているのだ、と。

 

イエス・キリストはご生涯の最期に、十字架という悲惨な死を遂げられました。希望の若枝は、無残に断ち切られたように思えました。けれども遺されたマリアたちや弟子たちが目撃したことは、その十字架という樹から、新しい若枝が芽吹き始めているということでした。悲惨な十字架から、新しく、復活の命が芽吹き始めている。冬を越え春になって、植物が一斉に芽を萌えいでさせ、花を咲かせ始めるように。マタイはこの復活の命の芽吹きを、福音書という形にして、私たちに伝えてくれています。

 

復活のキリストは、どんなときも、いつまでも、私たちと共におられる――。これからマタイによる福音書をご一緒に読むことを通して、私たちもまたこの「インマヌエル」の恵みと喜びとを感じ取ってゆけますように願っています。