2016年4月17日「その名はインマヌエル」

2016417日 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書11825

「その名はインマヌエル」

 

 

熊本地震

 

この度、地震によって大きな被害を受けている熊本の方々の上に主の御支えがありますようにと祈ります。助けを求めている人々に必要な援助が行き渡りますように、避難を続けている人々の心身の体調が守られますように、またいま現地で救援活動をしてくださっている人々の安全が守られますようにご一緒に祈りたいと思います。また私たちが自分たちにできることを見出してゆくことができますように。

 

熊本地震のニュースを見て、5年前の東日本大震災を想い起こしたこともたくさんいらっしゃることでしょう。震災が起こった当時の大きな不安、混乱、痛み。当時のことを改めて思い起こし、不安を覚えている方々も数多くいらっしゃることと思います。いま不安の中にいる日本全国の皆さんの上に主のお守りがあることを祈るとともに、私たちも地震による痛みを経験した者として、いま困難の中にいる九州の人々に思いをはせ続けてゆきたいと思います。

 

大規模な地震はこれからも、日本全国で起こる可能性があります。この度の地震が連鎖してゆく可能性がありますし、西日本では特に南海地震が心配です。大規模な災害が発生する可能性を踏まえて、日ごろから備えをしてゆく必要を改めて思わされました。

 

またこの日本という国にはいかに多くの断層があるかということも、私たちは改めて確認させられた気がいたします。日本には非常にたくさん断層がありますが、絶えず動き続けているそれら断層の上で、私たちは生活を営んでいます。いつ大地が揺れ動くか分からない、そのような不安定な大地の上で私たち日本人は昔から生きてきたわけですが、だからこそ私たちは過去の歴史に学び、もしもの時のために細心の注意を払っていることが求められます。

 

私たちの国を見つめ直してみた時、変えるべきところはさまざまに見出すことができるでしょう。たとえば、原子力発電所というものは、やはりこの国で稼働してゆくには無理があると思わざるを得ません。いつ断層が動くか分からず、大津波が発生するか分からない不安定なこの国で、原発を稼働することはあまりに危険です。福島の悲劇から私たちが学ぶべき最大のことは、「もう二度と絶対にこのようなことをくり返してはならない」ということです。

 

 

 

揺れ動く中で

 

 私たちは生きてゆく中で、「大丈夫だ」と思うべき場合と、「大丈夫だ」と安心してはならない場合とがあるように思います。原発に関しては明確に後者であり、「きっと大丈夫だろう」と信頼を抱いてしまうことは非常に危険です。人の命に関わる事柄に関しては、「本当に大丈夫なのだろうか」と問い続けるということが私たちには必要でしょう。

 

 もちろん、私たちには困難の中にいるとき、「きっと大丈夫だよ」と声をかけてもらったことが、自分の生きる力となったということも、あるでしょう。「大丈夫」「心配しないで」という誰かの励ましが私たちの勇気となってゆくことがあります。そしてそれら言葉は私たちそれぞれが実際に内にもっている生きる力を発動させてくれるのでしょう。また神さまご自身が、その力を与えて下さるだと私たちは信じています。

 

 聖書もまた、私たちに「大丈夫」という信頼を与えてくれるものです。本日の聖書箇所のキーワードでもありますが、「神が私たちと共におられる」という聖書の言葉は、私たちの生きる勇気となります。

 

 一方で、聖書には私たち人間社会の現実に警鐘を鳴らす言葉も記されています。「あなたがたは大丈夫と言っているが、現実はまったく大丈夫ではない」と。たとえば旧約聖書の預言者の言葉などはその代表例です。「きっと大丈夫だろう」と楽観してしまっているイスラエルの民に対して、預言者たちは「本当は大丈夫ではないのだ」という神ご自身の言葉を伝えます。イスラエルの民は自分たちの社会の危機的な状況に目を向けないために、「大丈夫だ」と互いに言い合うことをしてしまっていたのです。

 

 私たちは生きてゆく中で、「大丈夫だ」と思うべき場合と、「大丈夫だ」と安心してはならない場合とがある。現在のように大規模な地震が連続して起こっている場合、また社会が揺れ動くような出来事が起こった場合で、私たちはどのように判断し、どのように聖書の御言葉を受けとめて言ったらよいのか。聖書の御言葉を、見たくないものを見ないでいるために利用してしまっていないか。私自身、日々自問自答を繰り返し、悩みながら生活をしています。

 

 

 

イエス・キリストの誕生

 

 改めて、ご一緒に本日の聖書箇所に耳を傾けてみたいと思います。本日の聖書箇所は、イエス・キリストの誕生の場面です。クリスマスの時によく読まれる場面ですね。イエス・キリストの誕生物語は二つありまして、一つはこのマタイによる福音書に、もう一つはルカによる福音書に記されています。両者の違いの一つは、このマタイによる福音書は父ヨセフの視点から語られていて、ルカによる福音書は母マリアの視点から物語られているというところです。

 

マタイによる福音書11825節《イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。/夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。/このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。/マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」/このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。/

 

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

 

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。/ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、/男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた》。

 

 

 

ヨセフの態度決定

 

本日の物語の主人公は、父ヨセフです。ヨセフはマリアと婚約していましたが、二人が結婚生活を始める前に、マリアが赤ん坊を身ごもっていることが明らかになりました。ヨセフの子ではない他の誰かの子どもをマリアが身ごもっていることが明らかになったのです。

 

当時のイスラエルでは、婚約は結婚と同等の重みをもっていました。よって婚約期間に他の異性と関係をもつことは、姦淫の罪に相当しました。旧約聖書において姦淫は石打の刑、すなわち死罪に相当するほど重い罪とされていました(申命記222324節など)。ただし、マタイによる福音書はマリアが身ごもったのは《聖霊によって》であることを強調しています。けれどもそれは周囲の人々には理解できないことでしょう。ヨセフはこのことを表ざたにするのを望まず、マリアとひそかに縁を切ろうと決意しました。婚約関係を解消すれば、マリアは姦淫罪を免れることができるからです。

 

ここでヨセフはまず何よりマリアとお腹の中の子どもの命を守る行動を取ろうとしたということが分かります。それはある意味、律法を無視するということであり、掟破りな判断ということになります。それは、ヨセフがマリアを愛していたからこその決断でもあったのでしょう。突然の出来事に大きく揺さぶられる中で、そのような判断をする人であるヨセフを、マタイによる福音書は、《正しい人》と呼んでいます。

 

マタイの誕生物語においては、愛する者の命とこれから生まれてくる命を最優先するというヨセフの態度決定なくして、そもそもイエス・キリストは生まれ出ることはできなかったのだというふうに受けとめることもできます。

 

 

 

天使のお告げ

 

そのような判断をしたヨセフは、夢を見ました。夢の中で、主の天使が現れ、ヨセフにこう告げました。2021節《ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。/マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである》。

 

天使はヨセフに、恐れることなく妻マリアと結婚するようにと命じます。マリアのお腹の子は《聖霊によって》宿ったのだから、と天使は伝えます。

 

それまでヨセフには、マリアと約束通り結婚をするという選択肢はありませんでした。ヨセフ自身は考えが及ばなかった、新しい道がここで開けました。マリアとお腹の子と別れることなく、共に生きてゆくという道です。

 

天使は生まれてくる子を「イエス」と名付けなさいと命じます。「イエス」はヘブライ語では「ヨシュア」と言いますが、この名前には、「(主は)救う」という意味が込められています。これから生まれてくる子は、自分の民を罪から救うことになるから、というのがその理由です。

 

マタイによる福音書は、このすべてのことが起こったのは、旧約聖書の預言書を通して言われていたことが実現するために起こったのだ、と語ります。その預言とは、《見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる》(イザヤ書714節)という預言です。「インマヌエル」とは、「神は我々と共におられる」という意味です。

 

イエス・キリストのもう一つの名前が告げられます。その名はインマヌエル。この「インマヌエル」は、マタイによる福音書全体を貫いている言葉です。マタイによる福音書の最後の部分も、この言葉をもって終わります。《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》(マタイによる福音書2820節)

 

 ヨセフは眠りから覚めると、天使が命じた通りマリアと結婚し、そして生まれた男の子を「イエス」と名付けました。

 

 

 

 

インマヌエル ~生命と尊厳を第一とする生き方の中に

 

 以上、よく知られたマタイによる福音書のイエス・キリストの誕生物語をご一緒にお読みいたしました。この物語の主人公は父ヨセフですが、この誕生物語においていかに父ヨセフの役割が大きいものであったかということを改めて思わされます。

 

ヨセフは大変な状況に直面し動揺する中、その現実から目を背けることはしませんでした。そしてマリアとお腹の中の子の命を守ることを決意しました。この態度の中で、すべての物語は始まってゆくことになります。

 

律法よりも命を優先する決意の中で、「インマヌエル」なる世界が芽吹いてゆくのだということが、この度私がこの物語を通して新たに思わされたことでした。私たちが一人ひとりの生命と尊厳とを大切にする生き方の中にこそ、「いつも神は共におられる」ということもできるでしょう。私たち一人ひとりは、いま、ヨセフのように、はっきりとした態度決定をすることが求められているように思います。神さまから与えられているかけがえのない命を大切にすること。生命と尊厳がないがしろにされている現状から目を背けて、「大丈夫」と言う態度をとることはもはやしないということ。いま生きておられる主は、そのように願い生きようとする私たちと共に働き、力を与えてくださいます。

 

どうぞいま共におられる主が、私たちの心から恐れを取り除き、この現実に向かい合う勇気と力とを与えてくださいますように。