2016年4月24日「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは」

2016424日 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書253146

「私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは」

 

 

 

マタイによる福音書253146節《人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。/そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、/羊を右に、山羊を左に置く。/そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。/お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、/裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』/すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。/いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。/いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』/そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』/それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。/お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、/旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』/すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』/そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』/こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 

 

 

2016年度主題聖句

 

お読みしましたマタイによる福音書2540節は、2016年度の花巻教会の年間主題聖句として予定されている御言葉です。《はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》。昨年度も私たち花巻教会はこの御言葉を年間主題聖句として歩んでまいりました。引き続き今年度もこの御言葉を胸に抱きつつ歩んでゆきたいと思っております。

 

このマタイによる福音書の御言葉では、困難な状況にある人のために行った私たちの行為は、イエス・キリストに対して行ったことである、ということが語られています。

 

たとえば、食料が不足している人に食べ物を分け与えたこと。のどが渇いている人に飲み水を差し出したこと。宿のない人に避難所を提供したこと。着る物のない人に上着を与えたこと。病気の人を見舞ったこと。牢に入れられている人を訪ねたこと3536節)、など。他者のためになしたそれら一つひとつの行動が、イエス・キリストに対して行ったことと等しいのだ、ということが言われています。

 

最後の《わたしにしてくれたことなのである》の部分を英語にすると《You did it to me》となります。マザー・テレサはこの《You did it to me》を《5本の指の福音》と呼んでいたそうです。《You did it to me》という言葉は5つの単語で成り立っていますが、それを5本の指と対応させているのですね。指を使いながらこの言葉を口に出すと、確かに覚えやすいです。マザー・テレサは講演をする際は必ずといってよいほど、この《5本の指の福音》を話をしたそうです(参照:五十嵐薫著『マザー・テレサの真実』、PHP、2007年)

 

この言葉は、インド・カルカッタの最も貧しい人々のために働いたマザーの生涯を支え続けた御言葉、文字通り「福音」であったのでしょう。マザー・テレサは道端で倒れ死にゆこうとしている人々の内に、イエス・キリスト御自身を見出していました。

 

 

 

「行わなかったこと」の罪責の指摘

 

本日の聖書箇所は、困難の中にある隣人のために自分にできることを実行することの大切さを私たちに伝えていますが、同時に、困難の中にある隣人のために何もしなかったことへの厳しく咎める言葉が記されています。

 

たとえば、食料が不足している人に食べ物を分け与えなかったこと。のどが渇いている人に飲み水を差し出さなかったこと。宿のない人に避難所を提供しなかったこと。着る物のない人に上着を与えなかったこと。病気の人を見舞わなかったこと。牢に入れられている人を訪ねなかったこと4146節)、など。それら他者に対して行わなかった一つひとつのことは、イエス・キリストに対して行わなかったことと等しいのだということが言われています。45節《この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである》。先ほどのマザー・テレサの表現を踏まえるなら、「You did not it to me」となるでしょう。5文字ではなく、1文字増えて6文字になってしまっています。たった1文字が増えただけですが、この「Not」という1文字が私たちの心に重くのしかかってきます。

 

私自身、日々の生活の中でいかにこの「Not」を積み重ねてしまっているか、ということを思います。「You did not it to me」、「あなたはわたしにそれをしてくれなかった」――。

 

ある人は、イエス・キリストは私たちが行った罪責よりも、行わなかったことの罪責を問われるのだ、ということを言っています(参照:ティーリケ『主の祈り 世界を包む祈り』、大崎節郎訳、新教出版、1962年)。行うべきことを行わなかったことの責任を問われる、ということもできるでしょう。

 

私たちは、良かれと思ってしたことで、逆に人を傷つけてしまうことがあります。私たちは不完全さゆえに、自分の言動によって人を傷つけたり、事態の悪化を招いてしまうことがあります。しかしそれでも、自分が行ったことのその過ちの責任より、行うべきことを行わなかったことの責任の方が重いのだということができるかもしれません。

 

そう思いますと、慰められる部分もありますし、一方で身を正されるような想いにもなります。私たちは日々の生活において数多くの失敗をしますが、一方で、それ以上に、何もしなかったことの失敗を数多く積み重ねてしまっているように思うからです。さらには、それが失敗であると気づかずに過ごしていることがほとんどであるのでしょう。

 

 

 

無関心という名の鎧

 

九州では熊本を中心としていまも大きな余震が続いています。どうぞ必要な支援が行き渡りますように祈ります。

 

この度の熊本地震を受けて、何か自分にできることはないかと日本全国の人々が動いています。募金活動をしたり、食料や物資を送ったり、現地にボランティアに行ったりと、尊い働きをされています。私たちも自分たちにできることを祈り求め、実行していきたいと願います。

 

この10日間、私もことあるごとにテレビをつけ熊本地震の被災地の様子を確認していました。ニュースを見ながら、何か後ろめたさのようなものを感じている自分がいました。私はこの度直接被災をしたわけではありませんし、現地に実際に食料の供給やボランティアには行っているわけではありません。自分には何もできないという無力感を感じてしまう瞬間があります。また、悲惨な光景を前にして、どこか自分の心にバリアを張り、自分を守ろうとしているような部分が自分の中にあるようにも思いました。被災地された方々の映像を前に心を痛めている自分と、その悲惨さに無感覚でいようとする自分が両方いるように思うのです。

 

このような複雑な想いを抱いている方は、私以外にも日本全国に数多くいらっしゃるのではないかと思います。

 

それぞれが、目の前にやらねばならない課題を数多く思っています。自分自身に関して、また家庭や仕事に関して。私たちの日々の生活の心境というのは、そのような、いま目の前にあることに取り組むことで精一杯というものであるのかもしれません。社会で起こっているさまざまな困難に関心がないというわけではないのだけれど、自分自身のことで精一杯という気持ちもある。それぞれが、心に余裕がない状態で生きているというのが実際のところなのではないでしょうか。

 

余裕がないときの私たちの心の状態は、たとえて言いますと、水がいっぱいに入ったコップのようなものではないでしょうか。ちょっとでも揺れると、水がこぼれてしまう。外部からさらに水を注ぎ足すことはできません。私たちは自分のコップから水があふれないようにと、外の情報を遮断するようになってゆきます。困難な状況にいる人々に対して、社会で起こっているさまざまな悲惨な出来事に対して、無関心という名の鎧を身に着けていってしまうのです。

 

また別のたとえで言うと、余裕がないときの私たちの心の状態は、水が不足した植物のようなものと言えるのではないでしょうか。水が不足しエネルギーが消耗しているので、茎も葉もしおれてしまっている。何とか立っているだけで精一杯で、それ以上のことはとてもできない。新しい芽を出したり、つぼみをつけたり、美しい花を咲かせたりするということはできない。誰かから「もっとがんばれ」と言われても、自分はもう十分頑張っているというか、これ以上頑張ると倒れてしまうという心境で……。

 

客観的に見ると、心に余裕がないことによって作りだされるこのような無関心さを一方的に責めるのは酷であるというような気もします。それぞれが精一杯生きている結果であると言えるからです。と同時に、その無関心によって、私たちは互いを傷つけあってしまっているというのも事実です。互いに無関心な社会を作りだしてしまっているというのもまた事実です。

 

私たちにとって最も大切な力の一つに、他者への想像力があると思います。困難の中にいる人々を思い遣るには、想像力が欠かせません。たとえば、熊本地震によって被災された方々がいかに困難のなかにいらっしゃるかということを具体的に思い遣るには、想像力が必要です。しかし、私たちのエネルギーが消耗してしまっているとき、その想像力の芽が摘みとられてしまうということが起こります。想像力の芽がうまく伸びてゆかないという現象が起こるのです。そうして互いに無関心の鎧を身に着けるようになってゆく。

 

どうしたら、私たちはこのような状態を変えてゆくことができるでしょうか。無関心の鎧をいかにしたら打ち破ってゆくことができるのでしょうか。

 

 

 

自分自身が「最も小さな者の一人」

 

 本日の聖書箇所を読んでいて改めて思わされたことは、私自身が、「最も小さな者の一人」であるのだということです。自分自身もまた、SOSを発している、助けを必要としているのだ、ということです。最も身近なところにいる、助けを必要としている存在は、自分自身であるように思いました。であるのなら、私はこの私自身の助けを求める声に耳を傾けてあげねばなりません。

 

私たちはそれぞれ、「最も小さな者の一人」であるのではないでしょうか。一人ひとりが、困難を抱えながら懸命に生きている「最も小さな者」である。私たちはこの自分自身の、懸命に助けを求める声に耳を傾けることも必要であるでしょう。

 

その時、私たちは、《You did it to me》、「あなたはわたしにそれをしてくれた」というイエス・キリストの言葉を聴くでしょう。そして他ならぬこの私の内に、イエス・キリストがおられることを知るでしょう。最も小さな者である自分の内に、キリストがおられる。

 

その時私たちは、自分は「最も小さな者の一人」であると同時に、神さまの目から見て「かけがえなく貴い者の一人」であることを知らされます。水が枯渇していた自分の存在の内に、命の泉があることに気づきます。

 

 

 

命の泉に立ち還り

 

私たちはこの命の泉に立ち還り、この泉に根を下ろすことによって、再び力を取り戻してゆきます。イエス・キリストという泉から命の水を汲み取ることによって、頑なになっていた心は潤いを取り戻し、心身はエネルギーを取り戻してゆきます。

 

潤いを取り戻し始めた私たちの内から、再び、想像力という芽を萌えいで始めます。その芽は成長し、祈りというつぼみをつけます。そして、愛という花を咲かせます。

 

私たちはこの命の泉に立ち還るとき、他者の苦しみへと向かってゆく力を再び与えられてゆくのだと信じています。その時私たちはもはや、必ずしも無関心という名の鎧を必要とはしないでしょう。もちろん私たちの心はすぐにまたしおれてゆきます。私自身、すぐにエネルギーが消耗してしまい、無関心という名の鎧を作りだしてしまっています。だからこそ私たちは日々、イエス・キリストの泉に立ち還る必要があるのでしょう。

 

 このイエス・キリストの泉を通して、私たちは互いに結び合わされています。「最も小さな者の一人」であり、「神の目に価高く貴い一人」として。私たちはいま目の前にいる隣人の内にもキリストがおられることに気づいてゆきます。

 

 《You did it to me》、「あなたはわたしにそれをしてくれた」――。どうぞ私たちがこの《5本の指の福音》の言葉を実現してゆくことができますようにと願います。