2016年4月3日「復活の主との出会い」

201643日 主日礼拝

聖書箇所:マルコによる福音書16920

「復活の主との出会い」

 

 

マルコによる福音書16920節《イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。/マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。/しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。/

 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。/この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。/

 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。/それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。/信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。/信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。/手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」/

 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。/一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった

婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン

 

 

 

復活節

 

先週はイースター礼拝でした。イースター礼拝の中では信仰告白式も行われ、喜びと感謝に満ちた一日になりました。先週から、教会の暦で、復活節の中を歩み始めています。イエス・キリストの復活を私たちの希望として歩んでゆく時期です。

 

いまお読みした聖書箇所は、マルコによる福音書の結びにあたる場面です。マグダラのマリアや弟子たちが復活されたイエス・キリストと出会うという場面です。ただし、本日の聖書箇所はマルコによる福音書にはもともとは記されておらず、後世に書き加えられたものであろうと考えられています。もともとのマルコによる福音書は、168節で終わっていたのですね。

 

では、「もともとの結び」に当たる前回の場面は、どのようなものだったでしょうか。1618節の部分を改めて思い起こしてみたいと思います。

 

 

 

マルコによる福音書の「もともとの結び」

 

それは、復活の日の朝のことでした。朝早く、マリアたちは主イエスが葬られたお墓に向かっていました。墓に着くと、墓をふさいでいた大きな石が転がされていました。不思議に思いながら墓の中に入ったマリアたちは、白い服を着た若者に出会います。それは天使でした。天使はマリアたちに、主イエスが復活されたことを告げました。6節《驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である》。主イエスのご遺体が横たえられた墓穴は、空になっていました。天使は、マリアたちに伝言を託します。7節《さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と》。

マリアたちは強い恐れを覚え、逃げるようにして墓を立ち去って行きました。そして主イエスが復活されたことを誰にも言いませんでした。

 

――これが、マルコによる福音書のもともとの結びです。見方によっては、唐突な終わり方であるということができます。天使から復活の知らせを聞いたマリアは喜ぶことはなく、むしろ恐れにとりつかれて逃げ去って行ってしまった。あれ、ではこの続きはどうなってゆくのだろう? と気になってしまう方もいらっしゃることでしょう。実際、そのように、マルコによる福音書の結びがいまだ完結していないように感じた後世の教会の人々が、本日の箇所を書き加えたのだろうと考えられます。教会に伝わっている伝承や他の福音書の復活の場面などを参考にしながら、マルコによる福音書に「新しい結び」を書き加えたのですね。

 

 

 

マルコによる福音書の「新しい結び」

 

新しい結びにおいて記されているのは、「復活の主との出会い」です。もともとの結びにおいては、マリアたちは天使から復活の知らせを聞いただけで、復活された主イエス御自身とはいまだ出会っていませんでした。新しい結びにおいて、マリアや弟子たちはついに復活の主と出会うことになります。

 

新しい結びでは、三つの「復活の主との出会い」が記されています。一つ目は、マグダラのマリアが復活の主イエスと出会う場面911節)。二つ目は、田舎に帰ろうとする二人の弟子が、復活の主イエスと出会う場面1213節)。そして三つ目は、11人の弟子たちが復活の主イエスと出会う場面です1420節)。三つの場面とも、他の福音書に同じ内容の場面があります。他の福音書の復活の場面を参考にして、これら場面が書かれたのでしょう。また1920節には、主イエスの「昇天」の場面が記されています。

 

 

 

十字架の主への深い想い

 

 もともとの結びに「復活の主との出会い」が書き記されていないのはどうしてなのでしょうか。「復活の主との出会い」をあえて記していないところに、マルコによる福音書固有のメッセージがあるようです。

 

 マルコによる福音書の唐突な終わり方について、そこから私たちはさまざまな豊かなメッセージをそこから汲み取ることができるかと思います。私がそこから第一に汲み取るメッセージは、マルコによる福音書は「復活の主との出会い」を記さないことにより、その分、「主イエスの十字架の死」の場面を強調しているということです。マルコによる福音書は復活よりも、十字架の死に重点を置いているのですね。

 

マルコ福音書の最大のクライマックスは復活の場面ではなく、十字架の死の場面にあります。

 

 マルコによる福音書のまなざしは、十字架におかかりになっている主に集中して注がれています。それは、十字架の主をはらわたが引き裂かれるような想いで見つめているマリアたちのまなざしに通じているように感じます。主イエスのご生涯とその死を決して忘れない。十字架の道を歩む主のお苦しみに、自分自身の苦しみを結び合わせて生きてゆく――主と苦しみを共にせんとする決意を、私たちはマルコによる福音書から感じ取ることができます。

 

この他にも「復活の主との出会い」をあえてマルコが記さなかった理由はありますが、まずこの点が、私にとっては重要に思える部分です。マルコ福音書においては、復活よりも十字架に深い想いが込められている。ここに、マルコによる福音書がマルコによる福音書であることのかけがえのなさ、固有性があります。

 

マリアたちは十字架の主イエスにあまりに深い想いをもっていたので、主イエスの復活の知らせを十分に受けとめることができなかった。天使の言葉さえ、マリアたちの心を動かすことはできませんでした。

 

 新しい結びは、そのようなマルコによる福音書の想いを踏まえつつも、しかし、それで終わりではない、ということを伝えたくて、新しい結びを書き加えたのかもしれません。十字架の死で、すべては終わるのではないのだということ。十字架の道行きの先に、復活の光があるのだということを示したかったのかもしれません。

 

 

 

立ち上がれないでいるマリアが

 

 マルコによる福音書に記されている「もともとの結び」と、「新しい結び」――。

 

 皆さんは、どちらの結びに共感を覚えられるでしょうか。もともとの結びには、十字架の主への深い想いが込められています。新しい結びには、復活の主イエスへの希望に満ちた想いが込められています。もちろん、どちらの結びも私たちにとってかけがえのなく大切なものです。

 

どちらにリアリティーを感じるかと言うと、元来の結びの方にリアリティーを感じるという方もいらっしゃることと思います。復活を喜びと希望としながらも、どこかいまだ実感できないでいるという感覚は、クリスチャンであっても、多くの方がお持ちであろうと思います。復活の喜びよりも十字架の悲しみの方に、切実さを感じている方もいらっしゃるでしょう。私たちがいま生きている世界にはいまだ悲しみ、苦しみが満ちています。

 

私自身、自分の中にいまだ復活を実感できていないもう一人の自分がいるように思います。復活をいまだ知らないマリアたちが、主イエスの葬られた墓の前でぼう然として座り込んでいるように……。自分自身の心のどこかに、いまだ墓石の前で座り込んで、立ち上がれないでいるマリアもいるように思うのです。

 

 

 

マリアが再び立ち上がる時

 

復活の喜びをいまだ実感できない自分がいるということを率直に受けとめつつ、一方で、私が感じていることは、私は「待っている」のだということです。主御自身がこの私の名を呼んでくださる時を、私は信じ、待ち続けています。

 

私の内の、座り込んでいるマリアは、よみがえられた主御自身が自分の名前を呼んでくださるのを待っています。主御自身がマリアと出会って下さった時、内なるマリアは立ち上がるでしょう。

 

「復活」と訳されている言葉は、原語のギリシャ語ではもともとは「立ち上がる」「起き上がる」という意味の言葉です。主イエスが暗い墓の中から「復活された」ということは、主イエスが暗い墓の中から父なる神によって「立ち上がらされた」ということです。暗い墓より「立ち上がられた」主イエスが、座り込んでいるマリアたちを「立ち上がらせてくださる」時が来ることを、私は信じています。またそして私たち教会はその「復活」の時が来ることを信じ続けてきました。

 

本日の復活の物語は、復活の主イエスと出会った人々の魂が、実際に「立ち上がらせられてゆく」物語です。その時は必ず来るのだということを本日の新しい結びは語っています。

 

私たちはいまは暗闇の中にいるのだとしても、困難の中にいるのだとしても、その先に、復活の光は輝いているのだ、と。主ご自身が私たちを「立ち上がらせてくださる」光は輝いているのだ、と。私たちはこの新しい結びを、希望の約束の物語として受け止めることができるでしょう。

 

十字架の向こうから、かすかに差し込んでいる光がある。それが復活の光です。本日の「新しい結び」の箇所は、その光を指し示しています。

 

 

 

私たちは「再び立ち上がってゆく」ことができる

 

またそして、本日の新しい結びが私たちに伝えているのは、私たち一人ひとりがいま、復活の主ご自身から「再び立ち上がる」力が与えられているということです。

 

どのような困難や、悲惨さを経てもなお、私たち一人ひとりは「再び立ち上がってゆく」ことができる。「新しく始めてゆく」ことができる。復活の主はいま、私たち一人ひとりにその「よみがえり」の力を与えて下さっています。

 

主イエスはいま、私たちに語りかけて下さっています。《わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。/生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか》(ヨハネによる福音書112526節)

 

どうか復活の主ご自身がここに集ったお一人お一人と出会い、その心に慰めと希望の言葉を語りかけてくださいますように。