2016年5月1日「すべての個々人のための光」

 

201651日 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書2112

「すべての個々人のための光」

 

 

希望を持つということは

 

精神分析学者のエーリッヒ・フロムの言葉に次のような言葉があります。《希望を持つということは、まだ生まれていないもののために、いつでも準備ができているということであり、(中略)新しい生命のあらゆる徴候を見つけて、それを大切に守り、まさに生まれようとするものの誕生を助けようと、いつでも準備をととのえていることである》(E・フロム『希望の革命』より)

 

 エーリッヒ・フロムは、希望を持つということは、「まだ生まれていないもののために、いつでも準備ができている」ことであると語っています。また、希望を持つということは、「新しい生命のあらゆる徴候を見つけて、それを大切に守り、まさに生まれようとするものの誕生を助けようと、いつでも準備をととのえている」ことである、と。

 

 この言葉を知ったのは大学生の時でしたが、以来、私の心に響き続けている言葉です。

 

ここでの「新しい生命」とは、文字通り、母の胎から生まれ出ようとしている命として捉えることもできるでしょうし、また、より広い意味の生命として捉えることもできるでしょう。私たちの心の深いところから生まれようとする何ものかを指す言葉としても受け止めることができます。また私たちの関係性から、私たちの社会から、新しく芽吹こうとしている何ものかとして受け止めることもできるでしょう。

 

希望を持つということは、新しく生まれ出よう、萌えいでようとしているその「何か」のために、いつでも準備を整えているということである。「いつでも準備を整えている」ということは、聖書の表現を用いるなら、いつも「目を覚ましている」こと(マルコによる福音書1437節)であると言うこともできるかもしれません。

 

 

 

東方の学者たち

 

本日の聖書箇所は、生まれたばかりのイエス・キリストを、東方の学者たちが訪ね当てる場面です。クリスマス物語においてよく知られている、いわゆる「東方の三博士の訪問」の場面ですね。この物語を読み直す中で、私はいま引用したエーリッヒ・フロムの言葉を想い起こしました。東方の学者たちは、このフロムの言葉を体現している存在であるように思ったのです。

 

マタイによる福音書2112節《イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、/言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」/これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。/王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。/彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。/『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。/お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」/そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。/そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。/彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。/学者たちはその星を見て喜びにあふれた。/家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。/ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った

 

この東方の学者たちは、天文学・占星術を専門とする人々であったと考えられます。夜空をいつも見上げ、天体の位置や動きを研究していた人々です。よく絵画などでは伝統的に学者たちは三人組として描かれますが、聖書では必ずしも三人という人数が記されているわけではありません。

 

これら学者たちは、ユダヤ人ではなく、異邦人でした。異邦人とはユダヤ人以外の人々のことを指す言葉です。

 

学者たちは毎晩毎晩、夜空を観察し続けていたのでしょう。他の人々が寝静まっている夜中にも、持ち回りで夜空を見上げ続けていたのでしょう。何か新しい動きはないか、徴候がないか……。もし新しい徴候があれば、決して見過ごすことなくそれを見つけ出すことが彼らの仕事でした。

 

この学者たちの姿勢に、私は先ほどのエーリッヒ・フロムの言葉に通じるものを感じました。《希望を持つということは、まだ生まれていないもののために、いつでも準備ができているということであり、(中略)新しい生命のあらゆる徴候を見つけて、それを大切に守り、まさに生まれようとするものの誕生を助けようと、いつでも準備をととのえていることである》。

 

そして遂に、学者たちは新しい生命の徴候を夜空に見出したのです。夜空に見たことのない不思議な光が昇るのを、彼らは見ました。彼らは、その光は、イスラエルに新しい王、救い主が生まれたことを示す光であると理解しました。

 

 

 

ヘロデ王の不安

 

 そうして東方の学者たちはイスラエルにやって来ました。彼らはまずエルサレムに赴き、当時のイスラエルの王であったヘロデ王に面会をします。2節《ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです》。

 

 学者たちのこの言葉を聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた、とマタイ福音書は記します。自分と別に、王として生まれた人物がいると聞けば、確かに不安を覚えることでしょう。マタイによる福音書は、エルサレムの町の人々も同様に不安を覚えた、と記しています。町の人々も不安を覚えた、というのは不可思議にも思えますが、何か新しいことが起ころうとしているのを不安に感じるというのは私たちの心理としてあるように思います。自分たちの救い主が誕生したというのに、それに対して、不安を覚えてしまう。

 

ヘロデ王や町の人々のこれら反応というのは、東方の学者たちとは対照的です。ヘロデ王やエルサレムの人々は新しい徴候に気づいていなかったし、いざその徴候を知らされても、それを受けとめることができず、不安を覚えたのです。人々は、生まれ出ようとする生命に対して、まったく準備が整っていませんでした。この後ヘロデ王が計画することは、新しい生命を守ることどころか、その新しい生命を抹殺するということでした。

 

このヘロデ王の姿には、私たち自身の暗部が映し出されているような気もいたします。新しい生命の徴候への感覚が麻痺してしまっている私たち。また、新しい何かが誕生しようとしているのにそれを手助けようとしないし、大切にしようともしない私たち。むしろ、その新しい何かを脅威に感じ、それを消し去ろうと動いてしまう私たち。私たちは気がつけば、小さなヘロデ王のようになって、行動してしまっていることが多々あるのではないでしょうか。そうして、私たちの間から萌えいでようとしている何かの芽を、自らつんでしまっているのです。

 

 生まれ出ようとしているもののために「いつでも準備を整えている」ということは、大変なことです。忍耐が必要ですし、何より、深い決意が必要でありましょう。

 

 

 

父ヨセフの決意

 

 生まれ出ようとするもののために「いつでも準備を整えている」存在が、本日の聖書箇所の直前にも登場しています。父ヨセフです。

 

ヨセフは、婚約していたマリアがヨセフの子ではない赤ん坊を身ごもっていることを知ります。ヨセフはこのことを表ざたにするのを望まず、マリアとひそかに縁を切ろうと決意しました(マタイによる福音書11819節)

 

古代イスラエルにおいては、婚約は結婚と同等の重みをもっており、婚約期間に他の異性と関係をもつことは姦淫の罪に相当し、時にそれは死罪に対するものとされました(申命記222324節)。このままではマリアは姦淫の罪を問われることになってしまいますが、婚約関係を解消すれば、マリアは姦淫罪を免れることができます。ヨセフは、まず何よりマリアとこれから生まれ出ようとする子どもの命を「守る」行動を取ろうとしたのです。その行動は、律法を無視するということをも意味していました。律法よりも命を優先するというこのヨセフの決意があったからこそ、イエス・キリストが生まれ出ることができたのだということができます。

 

生まれ出るものを守らんとするこのヨセフの決意を受け継ぐ位置にいるのが、本日の東方の学者たちです。

 

 

 

喜びにあふれて

 

 本日の物語に戻ります。ヘロデが恐ろしい計画を密かにたくらむ中、東方の学者たちはベツレヘムに向かいました。東方で天体観測をしていたときに見出した不思議な光は、彼らに先立って進みました。そしてその光は、幼子イエス・キリストのいる場所の上に止まります。学者たちはそれを見て、喜びにあふれた、とマタイ福音書は記します。喜びにあふれる彼らの姿は、イエス・キリストの誕生を聞いて不安を覚えたヘロデとはまことに対照的です。

 

 家に入った学者たちは、ついに幼子のイエス・キリストと出会います。幼子は、母マリアと共におられました。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、よく知られた「黄金」「乳香」「没薬」を贈り物として献げます。学者たちはこの瞬間に立ち会うため、これまで長い間夜空を観測し続けてきたのだ、ということができるでしょう。

 

東方の学者たちは「ヘロデのところへ帰るな」と夢の中でお告げを聞いたので、別の道を通って自分たちの国へ帰ってゆきました。ヘロデのもとへ至るのとは別の道を、です。

 

 

 

すべての個々人のための光

 

母マリアの胸に抱かれる幼子キリスト。この幼子は、この先、すべての人を照らし出す光となります。東方の学者たちは夜空にいち早くその光の徴候を見出し、人々に先んじて、いま、その光に出会うことができたのです。異邦人であった彼らが、ユダヤの人々より先に、その光に出会いました。

 

この光を前に、もはやユダヤ人と異邦人の区別はなくなります(ローマの信徒への手紙1012節)。この光を前に、私たち人間が作りだしたあらゆる区別は取り払われてゆきます。国籍も、民族も、性別も、あらゆる区別が消え去ってゆく、新しい時代が到来しようとしています。

 

この光を前に、ただ一つ残るのは、「私」という個人です。他の誰でもない、ただ一人のこの「私」がイエス・キリストの光に照らし出されています。私たちはこの光の中で、神さまご自身の言葉を聴きます。「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)

 

一人ひとりの存在がかけがえのないものであることを伝えるこの光を、私は「神さまからの尊厳の光」と呼びたいと思います。イエス・キリストはこの尊厳の光を世界に点じるため、私たちの間に誕生してくださいました。そしてこの光はいま、ここに集った私たち一人ひとりを照らしています。

 

 一人ひとりに与えられているこの光は、決して私たちの目に盛大な光ではありません。暗闇の中で見失ってしまいそうな、小さな光です。しかし、この尊厳の光は暗闇の中で確かに輝いています。私たちは東方の学者たちのように、この光を守るためにいつでも準備を整えていることが求められています。この光を見出し、この光を守り、互いに大切にしてゆくことが求められています。