2016年5月22日「荒れ野で叫ぶ者の声」

2016522日 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書3112

「荒れ野で叫ぶ者の声」

 

 

マタイによる福音書3112節《そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、/「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。/これは預言者イザヤによってこう言われている人である。/「荒れ野で叫ぶ者の声がする。/『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』/ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。/そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一体から、人々がヨハネのもとに来て、/罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。/

 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。/悔い改めにふさわしい実を結べ。/『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。/斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。/わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。/そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」》。

 

 

 

洗礼者ヨハネ

 

 先週から、教会の暦では聖霊降臨節に入りました。イエス・キリストの弟子たちに聖霊が降ったことを記念する日です。いまも私たちの内に、私たちと共に働いてくださっている聖霊なる主を覚え、聖霊降臨節を共に歩んでゆきたいと思います。

 

 本日の聖書箇所には、洗礼者ヨハネという人物が登場します。洗礼者ヨハネとは、イエス・キリストが公の活動を開始するより前に、ヨルダン川で「洗礼(バプテスマ)」を授ける活動をしていた人です。ヨハネは英語ではJohn(ジョン)、フランス語ではJean(ジャン)です。ちなみに、私が牧師館で飼っているネコの一匹の名前はジャンと言います。

 

洗礼者ヨハネが行っていた洗礼は、川の中に全身を沈めるというやり方でした。「洗礼を授ける」と訳されている語は、もともとのギリシャ語では「水に浸す」という意味をもっています。よって、原語のニュアンスを尊重して「洗礼」とは訳さず、「浸礼」と訳している翻訳もあります(岩波訳聖書)

 

 ただし、ここでヨハネが行っていた洗礼には、まだクリスチャンになるという意味合いはありません。ヨハネが行っていた洗礼には、「罪を悔い改める」という意味が込められています。

 

集ってきた人々に対して、ヨハネは罪を告白することを求めました。今まで自分が犯してきた過ちを神さまの前で率直に認め、心を方向転換することを求めました。そのことを決意することが出来た者が、ヨハネから洗礼を受けることが許されたようです。

 

全身を水の中に沈められると、当然息が出来なくて苦しくなります。その苦しさの中で、古い自分が死に、新しい自分が生まれる、と考えたのでしょう。罪の中を生きていた自分と決別し、新しい自分を生きるというのだというメッセージを読み取ることができます。

 

 

 

洗礼者ヨハネが登場した時代

 

洗礼者ヨハネが行っていたこの儀式は当時、ユダヤの人々の間で熱烈に支持されていたようです。エルサレムとユダヤ全土から、大勢の人がヨハネのもとに集まって来ていました。ヨハネの運動には、何か人々の心を捉え、激しく揺り動かすものがあったのでしょう。ヨハネの語る言葉は、人々が漠然と抱いていた違和感や問題意識とぴったりと合うものであったのかもしれません。

 

洗礼者ヨハネが登場した時代は、社会が硬直化していた時代でした。社会が硬直化し、人々の心が排他的なナショナリズムに向かおうとしていた時代でした。そのような社会の風潮に違和感を覚えていた一部の人々の心を洗礼者ヨハネの運動は捉えたのでしょう。ヨハネの言葉と行動は、どんどんと硬直化し、排他的になってゆく当時の社会の在り方を鋭く批判するものであったからです。

 

最近のニュースを見ていると。私たちの社会もまた、排他的な社会に向かっているように思います。日本もそうですし、またアメリカもそうでありましょう。トランプ旋風はその端的な表れです。閉塞感の中で、極端な排他性やナショナリズムが湧きあがっている状況があります。

 

 

 

 

社会体制への批判

 

洗礼者ヨハネが批判したことの一つに、「エルサレム神殿を中心とする社会の体制」があります。当時、政治的・宗教的な指導者たちは民衆から金銭を搾取して多大な利益を得ていましたが、その体制の中心にあるのがエルサレム神殿でした。指導者たちは神殿にて熱心に献げ物を献げていましたが、神殿の外の貧しい人々の存在は顧みることはありませんでした。

 

ヨハネは都エルサレムから離れ、荒れ野で生活をしていました。荒れ野での生活自体が、エルサレムの指導者層への批判となっているということができるでしょう。ヨハネの厳しい批判とは、とりわけエルサレムの政治的・宗教的な指導者たちに向けられていました。

 

エルサレム神殿を中心とする体制において忘れ去られてしまっているものは、とりわけ、弱い立場にある人々の存在です。

 

旧約聖書では、弱い立場にある人々、虐げられている人々を大切にしなければならないということが繰り返し語られています。これが律法の本来の教えであるはずなのに、その教えがないがしろにされている現実がありました。

 

 

 

選民思想への批判

 

ヨハネが批判したこととして、もう一つ、「選民思想」への批判があります。選民思想とは、「自分たちイスラエル民族こそが神さまによって選ばれた民なのだ」という強烈な意識です。

 

選民意識に対するヨハネの批判は、9節の言葉に端的に表わされています。9節《『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる》。

 

アブラハムとは、イスラエル民族の父祖です。イスラエルの民にとって「自分たちの父はアブラハムである」または「自分たちはアブラハムの子である」ということが、アイデンティティーの土台となっていました。ここにこそ、自分たちの誇りがあったのですね。しかしヨハネはここで大胆にも、そのイスラエル民族のアイデンティティーの根幹にあるものをも相対化しようとしています。

 

選民意識は、自分たち以外の民族を神によって「選ばれていない人々」、すなわち「異邦人」として見下してしまう傾向をもっています。そして熱狂的な愛国心、排他的なナショナリズムにつながってゆく危険性をもっています。ヨハネはこのような選民意識を厳しく批判しました。

 

では、ヨハネは何を大切なものとして打ち出そうとしていたのでしょうか。それは、個人としての意識です。ヨハネは民族や集団に属する自分ではなく、一人の人間として生きる自分のあり方を問うたのです。民族ではなく個人のあり方を問うたところに、ヨハネの新しさがあったということができます。

 

 

 

荒れ野で叫ぶ者の声 ~集団から切り離された「個」の声

 

3節に《荒れ野で叫ぶ者の声》という言葉が出てきます。イザヤ書の引用ですが、マタイによる福音書は洗礼者ヨハネのことを《荒れ野で叫ぶ者の声》であるとしています。

 

《荒れ野》という語は、原語のギリシャ語では「孤独」という意味もあわせもっています。《荒れ野で叫ぶ声》とは、言い変えれば、「孤独の中で叫ぶ者の声」です。

 

ヨハネはもはや民族や集団に属することなく、都を離れ、荒れ野にてただ独りで運動を行っていました。このヨハネの姿が当時いかに衝撃的であったかは、当時の人々がどういう意識で生きていたかに想いを馳せる必要があります。

 

古代の時代は、現代に生きる私たちよりも、もっと個人というものへの意識が希薄な時代でした。人々は個人としての「私」としてではなく、「我々」という意識で生きていたのです。イスラエル民族の一人としての「我々」ですね。そのような意識で人々が生きていた中、洗礼者ヨハネは民族や集団から切り離された個人として語りました。ヨハネを通して立ち現れ始めた新しい人間像は、人々に強烈な印象を与えたことでしょう。

 

ヨハネの洗礼には、集団の一人として生きてきた自分と決別し、一人の人間としての自分を新しく生きてゆくというメッセージも込められています。そしてその一人の人間としての自分とは、自分自身の罪責をはっきりと自覚した個人です。

 

 

 

イエス・キリストの声 ~神さまからの尊厳を告げる声

 

このようにまったく新しい人間像を提示したヨハネでしたが、本日の聖書箇所の結びには、次のような洗礼者ヨハネの言葉が記されています。11節《わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる》。

 

 ヨハネは一部の人々に絶大な影響を与えていましたが、そのヨハネよりも偉大な方がこれから来られるというのです。自分はその履物をお脱がせする値打ちもない、とヨハネは述べています。マタイによる福音書では、その偉大な方とは、すなわちイエス・キリストであるされています。洗礼者ヨハネは、これから来られるイエス・キリストの道を準備する存在として位置づけられています。

 

 ヨハネは言います。自分は「水による洗礼」を授けたが、これから来られる方は、「聖霊と火による洗礼」をお授けになる、と。説教の冒頭で教会の暦で聖霊降臨節に入ったということを述べました。ここで「聖霊と火による洗礼」という言葉が出てきました。イエス・キリストの「聖霊と火による洗礼」は、ヨハネの洗礼よりも偉大な働きをもっているのだ、とヨハネは述べます。

 

 ヨハネによる水の洗礼は、集団から切り離された個人を誕生させました。集団の中の一人として生きてきた自分に死に、一人の人間としての自分に新しく生まれることを促しました。一方で、集団から切り離されるということは、大変なことでもあります。寄りかかるべきものがもはやないということですから。ヨハネが提示した個人とは、民族という大樹から切り離された、寄る辺のない、弱々しい存在であるということもできます。

 

 イエス・キリストもまたヨハネの精神を引き継ぎ、個人を重視しました。ただしヨハネと違うのは、主イエスはその個人を神さまの目から見て、かけがえなく貴い存在として語られたということです。

 

主イエスは、一人ひとりが、神さまの目から見て、かけがえなく貴いということをお語りになりました。神さまの愛を、その真実をお語りになりました。一人ひとりの個人が神さまの目から見て「かけがえがない」ということは、言い変えれば、一人ひとりに神さまから尊厳が与えられているということです。主イエスのお語りになる個人には、ヨハネにはなかった、「尊厳」という要素が加わっています。そしてこの尊厳こそが、私たちが生きてゆくための土台となるものです。これを語ることはヨハネにはできませんでした。これを語ることができるのは、神の御子であるイエス・キリストのみです。ヨハネはこの神の御子の声を指し示すために、遣わされた存在です。

 

イエス・キリストがこれから授けて下さる「聖霊と火による洗礼」は、一人ひとりを「神に愛された、かけがえのない個人」として新しく生まれ変わらせてくださるものです。神さまからの尊厳が与えられた、かけがえのない「私」として新しく生きてゆく力を、主イエスは一人ひとりに与えてくださろうとしています。この力を受けた私たちは、もはや寄る辺のなく、弱々しい存在ではなくなるでしょう。人生のまことの土台を見出すことができたのですから。

 

 

 

ヨハネの呼び声に再び耳を傾ける

 

 洗礼者ヨハネが荒れ野で声を上げてから、長い時間が経ちました。しかしいまの私たちの社会は、ヨハネが批判した社会のあり方に通じるものがあります。個人は集団の中に埋もれ、一人ひとりの人間が大切にされない社会になっています。私たちはいま改めて、ヨハネの呼び声に耳を傾けることが求められているように思います。個人を取り戻してゆくことが求められています。

 

そしてその先には、神さまからの尊厳の光が輝いています。ヨハネはその光を指し示しました。この光を与えて下さる方こそ、イエス・キリストその方です。

 

主イエスは私たちにお語りになっています。「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)。これは神さまご自身の声に他なりません。

 

どうぞいまご一緒にこの主の声に私たちの心を開きたいと願います。